衣替え
騎士団との遭遇なんていう心臓に悪いイベントもあったけれど、劇的な展開なんて起きるはずもなく。私の心配をよそに日々の忙しさが全てを上書きしていったわ。
気づけば街路樹の葉が鮮やかな緑から赤や黄色へと変わって、カサカサとした茶色い落ち葉が石畳を舞う季節になる。
要塞都市ベル・ガルドに冬の足音が近づいてきたわ。
朝、布団から出るのが少しだけ億劫になるこの時期は、パン屋の厨房が天国と化すわ。窯から溢れ出る熱気と焼き立てのパンが放つ芳醇な香り。それが冷えた空気を温めて、私の嗅覚を優しく刺激して覚醒を促してくれるのだから。
「おはよう、アリス。今年の冬も寒くなりそうね」
「おはよう、レヴァン。ええ、冬将軍が本気を出してきそうだわ」
厨房に入って手慣れた様子で開店の準備を始める。今やすっかりこの店の看板娘として定着し、言葉遣いも仕事も完璧そのもの。レヴァンやノアとはもう本当の家族のように呼吸が合うわ。
私の華麗なる接客技術と、時にはこっそり、時には大胆に使う魔法のおかげで店の経営は順調そのもの。平和で優雅な日々。この完璧な日常が永遠に続けばいいと思っていたのだけれど――。
「ノア、アリス。今日の仕事が終わったら冬支度をしましょうか」
レヴァンが焼き上がったバゲットを並べながら、何気ない調子で言ったわ。
「去年の冬服を出して虫食いがないか確認しないと。それに……ノアはこの一年でだいぶ背が伸びたから、サイズも確認しないとね」
冬支度。季節に合わせて衣服を入れ替える、文明社会の慎ましやかな行事。レヴァンの言葉が、私の不老不死という特異性を浮き彫りにする、ささやかでいて深刻な事件の幕開けになるとは、この時の私はまだ知る由もなかったわ。
店を閉めて、夕食を終えた後のリビング。
暖炉には赤々と火が燃えている中、タンスから出された厚手の衣服がテーブルの上に積み上げられたわ。
「さあ、まずはノアからね。去年の服着られるかしら」
レヴァンに促されてノアが畳まれた厚手のスカートと長袖のシャツを手に取る。これらは前の冬にノアが毎日着ていたものね。あの頃のノアは六歳。それが今や七歳になって、春には八歳になろうとしているわ。
ノアがシャツに袖を通す。
「あ、れ……?お母さん、なんかすごくきついよ」
ノアが困ったように腕を突き出す。その光景を見て私は小さく「おぉ」と感嘆の声を漏らしたわ。
去年の冬には少し大きいくらいだった袖口が、今や手首のくるぶしを通り越し前腕の中ほどまで上がってしまっているわ。ボタンを留めようとすると胸元が窮屈そうに張って、肩周りの生地が悲鳴を上げているのが見て取れるもの。
スカートに至ってはもっと顕著ね。足首まであったはずの裾は、脛の真ん中あたりまで吊り上がってしまっているわ。
「うわあ、短い!なんかスースーする!」
ノアが恥ずかしそうに笑って手足をバタバタさせる。レヴァンはその姿を見て目を細めて微笑んだわ。
「まあまあ……。また大きくなったのね。去年の冬は袖を折って着ていたのに、もうこんなに小さくなっちゃって」
子供が成長して古い殻を破るように、衣服が合わなくなっていく。それは母親としての純粋な喜びでしょうね。生命力が溢れている証拠で、親にとっては勲章のようなものだと思うもの。
「ふふ、これは丈を伸ばしてあげないとね。縫い代を解いて折り返しを全部出せば……うーん、それでも足りないかもしれないわね」
レヴァンは嬉しそうに裁縫箱を取り出して、ノアのスカートの裾をつまんだ。作業をするレヴァンの顔は、面倒な作業ではなく愛おしい時間のようだったわ。
「さあ、次はアリスの番よ。貴方の冬服も着てみてちょうだい」
レヴァンの声に私は立ち上がる。私が手に取ったのは、森の小屋で作り上げたあの黒のワンピースと白のブラウス。
街に来た頃は去年の春だったと思うけれど、黒革のバッグにはちゃんと冬用の厚手の生地で作った予備も入れてあったのよ。前の冬はこの服を着ていたわね。
シュッという衣擦れの音と共に、上質な布地が私の肌に吸い付くように馴染む。袖を通した瞬間に分かったわ。きつくも緩くもない。第二の皮膚のように私の身体のラインに沿って布が収まっていく感覚。一年前に袖を通した時の感覚と何一つ変わらないわね。
――完璧。
私は姿見の前に立ったわ。そこに映っていたのは、去年の冬と寸分違わぬ完成された美少女。
まずブラウスの袖。こだわって作ったベルスリーブの広がりの中に私の白く華奢な手首が美しく収まっているわ。手を動かすたびに布が揺れて、私の手首の細さをドラマチックに演出してくれる。最も手が美しく見える位置を今日も完璧にキープしているわ。
そしてスカートの裾。ふくらはぎの下で足首が綺麗に見えるミモレ丈。歩くたびに白いニーソックスと黒革のストラップシューズがリズミカルに覗く、軽やかでいて上品な長さ。この長さもまた私が活動的かつ可愛く見えるようにと調整した位置のままだわ。
「ふふっ……」
私は思わず悦に入ってその場でくるりと一回転したわ。ベルスリーブが花のように開いて、スカートが円を描いてふわりと広がり、また元の完璧な位置へと戻る。
「見てレヴァン!この完璧なライン!寸分の狂いもなく維持された黄金比率。ゴールデン・プロポーションよ!去年の服がこんなに美しくあつらえたように着こなせるなんて!私の可愛さは時空すら超越しているわね!」
私はドヤ顔でレヴァンを振り返ったわ。成長期特有の型崩れとは無縁。老いもせず太りもせず、永遠に最も可愛い瞬間を保存された私。ノアのように服が短くなって着られなくなるという不便さがないことこそ、高貴なる魔女の証であり美の勝利だと私は思っているわ。
けれど振り返った先にいたレヴァンの表情は、私が期待していた称賛とは全く違うものだったのよ。
「…………」
レヴァンはノアのスカートの裾を直す手を止めて、針を持ったまま固まっていたわ。その目は私の広がる袖口と足元のスカートの裾に釘付けになっている。
「アリス……」
「ええ、どうしたの?どこかおかしいかしら?ほつれなんてないはずよ」
私が小首をかしげると、レヴァンはゆっくりと立ち上がって歩み寄ってきた。そして私の手首をそっと握る。
「直す必要……ないわね」
その言葉はノアの時のような弾んだ声ではなかったわ。深く、重く、そして困惑に満ちた声だったの。
「この年頃の子なら一年も経てば、袖が短くなったり背中がきつくなったりするものよ。ノアを見てごらんなさい。あんなに大きくなったのに……」
レヴァンの指が私のベルスリーブの袖口をなぞる。ノアの服には大幅な調整あるいは買い替えが必要だった。それが正常なのはわかっているわ。
私の服は去年の冬のまま新品同様のサイズ感を保っている。それはつまり私がこの一年、髪の毛一本分すら成長していないという事実を証明していたわ。
レヴァンの顔色が徐々に曇っていく。私の変わらない美しさという認識が、彼女の中では別の、恐ろしい認識に組み変わっていくのが分かったわ。
――成長期の発育不全。――深刻な栄養失調。
「アリス……」
レヴァンが沈痛な面持ちで私の肩に手を置いた。
「私がちゃんと食べさせてあげられていなかったのね。パン屋の子なのにひもじい思いをさせて……。成長が止まってしまうなんて……!」
「え?いえ、ちょっと待ってレヴァン。違うのよ。これは私の仕様で……」
私は慌てて弁解しようとしたわ。今さらレヴァンやノアに隠す必要なんてない。「不老不死だから成長しないのよ」と言えれば楽だけれど。
それでもやっぱりこういうことは、もっとちゃんとした場で話したいわ。多分ないとは思うけれど……二人に気味悪がられたりするかもしれないもの。
だからひとまず「家系的なものなのよ」とか「小柄なのが売りなのよ」とか言おうとした時、レヴァンが私の言葉を遮るように肩をギュッと掴んで離した。
レヴァンの瞳から悲しみの色は消えていたわ。
代わりにそこに宿っていたのは、燃え盛るような火だったのよ。
「分かったわ。任せておいて」
レヴァンはエプロンの紐をキリリと締め直した。優しい母親の顔じゃなくて戦場に赴く戦士の、あるいは熟練の職人が難題に挑む時の真剣そのものの表情だったわ。
「お母さん、気付かなくてごめんなさい。でももう大丈夫。明日からアリスには特別メニューを用意するわ。来年の冬にはその服が弾け飛ぶくらい大きくしてあげるから!」
「えっ……弾け飛ぶのは困るんだけど……」
私のささやかな抵抗は、レヴァンの燃え上がる使命感の前には塵芥に等しかったわ。横でノアが「お姉ちゃん、よかったね!いっぱい食べて大きくなろうね!」と無邪気に笑っている。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じたわ。
待って、この流れどこかで見たことがあるわ。一点の曇りもない善意の暴走。それは往々にして、悪意ある攻撃よりも回避困難なものなのよ……!
翌日の夕食。食卓にはいつものように焼きたてのパンやスープにサラダが並んでいたわ。一見すると昨日までと変わらない平和な食卓ね。
私のスープだけ見当たらない以外は。
「さあ、召し上がれ」
レヴァンがにっこりと笑って、何故か私の分だけ別にしてあったスープ皿を目の前に置いたわ。
「……いただきます」
私はスプーンを手に取った。見た目はかぼちゃのスープに見えるわ。鮮やかな黄色に湯気が立ち上る温かさ。けれどスプーンを入れた瞬間に、決定的な違和感があったわ。
……重い。
液体のサラサラ感がまるでないわ。スプーンにまとわりつくようなズッシリとした粘度。泥……いえ、溶岩のような重厚感。恐る恐る口に運んでみる。
――ドスン。
口に入れた瞬間に味覚よりも先に、質量が舌を襲撃したわ。濃い。圧倒的に濃いわ。
かぼちゃの甘味に加えて、濃厚な生クリームやたっぷりのバター。そして何かしらの肉のエキス。さらに細かくすり潰された豆や根菜の存在感。これ一杯で、成人男性の一日分のカロリーを賄えるんじゃないかしら、って思うほどの栄養の爆弾だったわ。
「どう?口当たりを良くするために、全部丁寧に裏ごししたのよ。これなら量が多くなくてもしっかり栄養が摂れるでしょう?」
レヴァンが期待に満ちた瞳で見つめてくる。そう、彼女は考えたのよ。私が小食なら食べる量を増やさずに密度を高めればいいと。
「……おい、しい、わ」
私は引きつった笑顔で答えたわ。味は悪くないもの。というか普通に美味しいわ。レヴァンは料理上手だから調和は取れている。
けれど、このスープは飲み物じゃないわ。流動食という名のメインディッシュよ。
二口、三口と運ぶ。胃袋に直撃するヘビー級のパンチ。でも私の胃袋は見た目通りの十歳児サイズ。しかも数百年も木の実や少量の肉で生きてきた、燃費の良いエコな身体なのよ。こんな高カロリー燃料は処理しきれないわ……。
半分ほど食べたところで、私のスプーンがピタリと止まった。満腹中枢が「これ以上入れたら爆発するわよ」と緊急警報を鳴らしているわ。喉元までスープが詰まっている感覚がするもの。
横を見るとノアは普通のスープにパンを浸して、パクパクと元気に食べているわ。
「お姉ちゃん、食べないの?美味しいよ?」
「え、ええ……とっても美味しいんだけれど、ちょっと胸がいっぱいで……」
私は優雅にナプキンで口元を拭って、演技力で誤魔化そうとした。けれどレヴァンは誤魔化されてくれなかったわ。私が残した半分以上のスープを見て、彼女は眉を寄せる。
怒られる?悲しまれる?せっかく作ったのにって。
私は身構えたわ。レヴァンを悲しませるのは本意じゃない。私が不老不死であることを隠しているせいで、彼女に無用な心配をかけている罪悪感もある。そんなことになるくらいなら、今すぐ秘密をカミングアウトする覚悟があるわよ!
けれどレヴァンの反応は、私の予想の斜め上を行っていたわ。
「……そう」
レヴァンは真剣な顔で私の皿を引き寄せて、残ったスープをスプーンですくい上げてじっと観察し始めたわ。まるで実験に失敗した錬金術師のようにね。
「やっぱりいきなり濃度を上げすぎたかしら。バターの油脂分が胃に負担をかけたのかもしれないわね。それとも粘度が高すぎて喉越しが悪かった?」
彼女の目には涙も悲しみもなかったわ。あるのは分析と改善への飽くなき探究心。
「大丈夫よアリス。お母さん諦めないから」
レヴァンは私の手を取って力強く握りしめた。背景に燃え盛る闘志の火じゃなくて、炎が見えた気がしたわ。
「明日はアプローチを変えましょう。レバーペーストをパン生地に練り込んで、気づかないうちに鉄分を摂らせる作戦はどうかしら。それとも果実水に見せかけた栄養ドリンクを作ってみようかしら。蜂蜜を使えばカロリーも稼げるし、飲みやすくなるはずよね」
レヴァンはブツブツと独り言を呟きながら、台所へと向かっていったわ。すぐにトントントンと包丁を叩く音と鍋が煮える音が聞こえてくる。
「……ひぃ」
私は小さな悲鳴を上げてしまったわ。
違うのよレヴァン!悲しんでくれた方がまだマシだったわ!「次は絶対に食べさせてみせる」っていう鋼の意志が怖いのよ!これはもう食事じゃないわ。私とレヴァンの胃袋と知恵をかけた戦争よ!
その夜。胃もたれと戦いながら私は部屋の鏡の前に立ったわ。袖口から優雅に広がるベルスリーブ、そこから覗く手首は変わらず白く細い。ミモレ丈のスカートからで伸びる足首も完璧そのものだわ。
「ふぅ……。大丈夫そうね。でもやっぱりこの服のサイズ感こそ至高よ」
私は自分の変わらぬ可愛さを確認して、今日の食事で体型が変わっていないことに安堵したわ。ノアのように服が寸足らずになることもなく、永遠に完璧なプロポーションでいられる。これぞ不老不死の特権よ。
……けれど。階下からはレヴァンが何かを煮込む音が聞こえてくるの。甘く濃厚で逃げ場のない愛の香りが、床板を通して漂ってくるようだわ……。
私は寝間着に着替えてそっとベッドに潜り込んだ。明日の朝食は何が出てくるのかしら。パンに見せかけたプロテインの塊かもしれないわ。水に見せかけた超濃厚スープの可能性もあるわね。
完璧なプロポーションを守りたい最強の魔女である私と、それを成長不良と信じて何としてでも大きくしたいレヴァン。
私たちの平和で壮絶な戦いはまだ始まったばかりだわ。次に服を直す必要があるのは、不老不死のシステムがレヴァンに負けて私が太った時かしら。
頑張りなさいよ!私の体!




