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人間の文化

 パン屋の朝は早いわ。東の空が白むよりもずっと前、まだ星々が夜空に瞬いている時間から、一日は始まる。


 以前の私ならこんな時間に起きるなんて言語道断、美容の敵だと布団に潜り込んでいたわ。けれど今の私は違う。パチリと目を開けると同時に、意識は覚醒する。ベッドから滑り降りると鏡の前でくるりと一回転した。


「うん、今日も私は宇宙一可愛いわね」


 もはや日課となった儀式を済ませて、鏡に映る銀髪の美少女に完璧なウィンクを一つ。素早く着替えを済ませて清潔なエプロンを身につける。鏡の前で背面の紐を魔法でキュッと結べば、そこにはどこからどう見ても働き者で可憐な看板娘が完成するのよ。


 階段を降りると、厨房からは既に小麦の焼ける香ばしい匂いと、温かな明かりが漏れ出ている。


「おはよう、レヴァン」


 厨房に入りながら私は流暢な言葉で挨拶した。窯の前で汗を拭っていたレヴァンが振り返ってニッコリと笑う。


「おはよう。……ふふ、いつも早起きね。今日のクロワッサンはいい感じよ」


 珍しく自信ありげなレヴァンが、焼き上がったばかりのトレイを差し出してくる。私は一つ手に取って焼き色と層の重なりを確認して頷いた。


「ええ、素晴らしいわ。黄金色の焼き目もバターの香りも完璧。これなら開店と同時に飛ぶように売れること間違いなしね」

「そうね。貴方に褒められると自信がつくわ」


 レヴァンが微笑みながら少しだけ得意げに胸を張る。


 ――ねえ、どうかしら?今の私の会話。完璧だったでしょう?


 あの黒い石事件から季節が一周したわ。


 私はレヴァンとノアという二人の優秀な、そして忍耐強く接してくれる教師たちのおかげで、言語をほぼ完全にマスター出来たのよ。一週間でマスター出来ると言った気もするけれど気のせいね。


 私の天才的な頭脳にかかれば、言語の一つや二つ赤子の手をひねるようなものよ。最初は単語の羅列だった会話も、今では文法、発音、そしてこの街特有の言い回しまで完璧に使いこなしているわ。


 なんならノアよりも語彙力があるかもしれないわね。たまに難しい言葉を使ってキョトンとされることもあるけれど、それもまた少し大人びた美少女という、ミステリアスな魅力を引き立てるスパイスになっているはずよ。


 変わったのは言葉だけじゃないわ。


「レヴァン、火力が少し落ちてない?」

「あら、本当。薪を足さないと……」


 レヴァンが薪の山に目をやってエプロンで手を拭おうとする。私はその前にスッと立ちふさがると彼女を手で制した。


「いいわ、私がやる」


 私は薪の山に向かって人差し指を振った。薪の束がふわりと重力を失い宙に浮き上がって一本、二本、三本。私の意思に従って薪たちは行儀よく整列して、窯の焚き口へと吸い込まれていく。


 ――パチパチ。


 新たな燃料を得た窯の炎が音を立てて勢いを増す。重たい薪を運ぶ労力も手が汚れる心配もない。これぞ魔法による効率化よ。


「ありがとう。やっぱり貴方の魔法は便利ねぇ」

「ええ、重労働は魔法に任せるのが一番よ」


 そう、私はもう彼女たちに魔法が使えることを隠していない。……隠していないっていうかバレたんだけど。いつ頃だったかしら、確か店の裏に山積みされた小麦粉の袋を運んでいた時のことだわ。


 居候を始めてしばらくの間は、私も怪力少女の設定を守るために袋に手を添えて「よいしょ」と持ち上げるふりをしながら、風魔法で浮かせていたのよ。


 けれどある日、いつものように小麦粉袋を運んでいてふと思ったの。最強の魔女である私が誰も見ていないところで、わざわざ重くて粉っぽい袋に触れて汚れるなんて馬鹿げてない?って。


「今なら誰も見ていないわよね?」


 私は周囲の気配を入念に確認した。レヴァンの声は店の方から聞こえるわ。


 よし、今よ。


 私は手を添える演技を放棄して、指先一つ動かさずに風魔法で残りの小麦粉袋を一気に浮かせたの。たくさんの袋が列をなして、空飛ぶ絨毯のように倉庫へ吸い込まれていく様は壮観だったわ。でも……。


 ――ガチャ。


「任せきりにしちゃってごめんなさい。手伝う……わ……?」


 タイミングが悪かったわ。接客が一段落したレヴァンが裏口のドアを開けてしまったの。レヴァンの視線の先には宙を舞う大量の小麦粉袋。あのときのレヴァンの目が飛び出んばかりの驚愕の表情といったら……。


 悲鳴を上げて腰を抜かしかけたレヴァンに、私は凍りついたまま咄嗟に「あー、風通しが良かったのかしら?」と言い訳したの。ええ、無理がありすぎたわね。


 最初は「貴族様だったの!?」とレヴァンに平伏しかけられたけど、貴族とかよく分からないし「便利だからいいじゃない」と開き直って、重い荷物運びや高いところの掃除に魔法を使いまくっていたら、今ではすっかり慣れてしまったみたい。


 今やうちの看板娘は魔法が使えるという事実は、日常風景に溶け込んでいるわ。人間の適応能力って侮れないわね。さすがに私が世界を滅ぼせるレベルの最強魔女だということは、まだオブラートに包んでいるけれどね。




「おはよー!お姉ちゃん、お母さん!」


 ドタドタと階段を降りてきたノアが私の胸に抱きついてくる。温かい体温と子供特有の甘い匂い。


「あらあら、朝からべったりね。……ふふ、アリスも大変でしょう?」

「いいえ、全然。可愛いから許しちゃうわ」


 レヴァンが私をアリスと呼んで、ノアがお姉ちゃんと呼ぶようになったのは少し前のこと。


 レヴァンが「とっても素敵な名前だけど、普段呼ぶには少し長くて舌を噛みそうだから」と愛称で呼びたいと聞いてきたの。私の完璧な名前に略称なんて!とも思ったけれど、アリスという響きも可愛らしいから許可したわ。


 ノアは私が言葉を覚えて色々教えるようになってから、すっかり懐いてくれてお姉ちゃんと呼ぶようになったの。最初は「私はそんなに若くないわよ(精神年齢的に数百年はいってるわよ)」と訂正しようとしたのだけれど。


 尊敬の眼差しで見上げられて、頼りにされるお姉ちゃんという響き。そして無邪気な瞳で「おねえちゃん」と甘えるような声をあげられたら「……まあ、いいわよ」と言うしかなかったわ。私は可愛いものに弱いのよ。


「おはよう、ノア。今日も寝癖が芸術的ね。あとで直してあげるわ」

「えへへ、ありがとう!今日のパンも美味しそう!」


 私たちは顔を見合わせて笑い合ったわ。言葉が通じる。意思が伝わる。冗談を言い合える。たったそれだけのことがこれほどまでに世界を鮮やかに彩るなんてね。


 森の中で下僕たち相手に一方的に喋っていた時や、独り言を呟いていた時がまるで遠い昔の夢のように感じられるわ。


「……あ、お姉ちゃん。石が黄色くなってるよ」


 ノアの指摘に私は自分の胸元を見下ろした。革紐に通された六角形の石。その色が昨日までの澄んだ青色から、少し濁った黄色へと変化していたわ。


「あら、もうそんな時期?早いわねぇ」


 私はため息をついて石を指で弾いた。




 言語を学んだ期間の傍らで、私は人間社会の仕組みやこの街――要塞都市ベル・ガルドのルールについても多くのことを学んだわ。


 まずはお金。庶民が使う銅貨と大銅貨、商人が使う銀貨や大銀貨。そして貴族が使う金貨や大金貨。価値が低い硬貨十枚で価値が一つ上がった一枚になる。それぞれの価値についても把握したわ。レヴァンがお駄賃としてくれる銅貨や大銅貨を貯めて、私は美味しいお菓子や街で見かけた可愛らしい小物を買う楽しみも覚えたわ。


 次に魔法。多くの平民にとって使える魔法は、魔石や魔道具を使って発動させる技術のこと。私のように体内で魔力を練り上げて放出する魔法を使える人間は、貴族くらいしか居ないみたい。レヴァンが私を貴族と勘違いするわけよね。


 平民でも魔力を放出するほどの魔力量はないけれど、体内で肉体を強化するいわゆる身体強化魔法を扱える人や、魔道具に関わったりする人、それ以外のことにも居るようね。まぁそんな事情もわかってきたから、私の魔法は大っぴらに街中で使うと騒ぎになるのが目に見えているのよ。だから自重してあげているわ。感謝なさい人間たち。


 そしてこの街での生活における最大の面倒なシステム――魔力納付。


 要塞都市ベル・ガルドは、発達した魔法インフラによって守られているみたい。夜道を照らす街灯の明かり、水を汲み上げる水道のポンプ、調理用のコンロ。何より緊急時に街全体を覆うらしい巨大な防衛結界。それら全てのエネルギー源は住民から徴収される魔力によって賄われているのよ。


 納付のルールは身分によって厳格に決められているみたい。


 まず円形の石を持つ人。レヴァンみたいなこの街の市民権を持つ人たちね。ノアのような幼い子供はまだ徴収の対象外で、親の石とセットになった石で管理されているんですって。一人前になるまでは保護者の庇護下にあるというわけね。


 彼女たちは月に一度、決められた量の魔力を納める義務があるみたい。けれど普通の市民の魔力量なんてたかが知れている。市民にとって魔力を抜かれる行為は献血のようなもので、一度に全量を納めると数日は寝込むほどの疲労に襲われることもあるらしいわ。だから数回に分けて納付するのが通例となっているようね。


 対して私のような六角形の石を持つ人。私のような余所者ね。こちらはもっと条件が厳しいわ。納付期限はたったの五日。五日に一度は魔力を納めなければいけないのよ。さすがに期限が短すぎるから一回に納める魔力量は市民より少ないみたいだけど、総量は市民よりも多い。


 それに頻繁に役所へ行かなければならないのは面倒極まりないわ。身元が不確かな余所者は魔力を頻繁に提供することで「私は有用な人間ですよ」と示し続けなければならないみたいね。


 そして石の色は納付期限を示す信号機のようなもの。納付直後の正常な状態が青色。期限が迫ってくると注意を促す黄色。期限を過ぎると警告の赤色。そして――完全にアウト、犯罪者扱いの黒色。


 赤色になると規定の魔力量に追加で魔力量を納める必要がでてくるわ。それでもまだ分割納付が出来るだけまだマシ。黒色になると追加で納める魔力量が跳ね上がる。分割納付も認められない。


 黒い石事件でシステムを理解していない私は、石を真っ黒にしてしまってレヴァンをパニックに陥らせて泣かせてしまった。レヴァンがパニックになるのも今ならわかる。黒色になってから納める魔力量は、平民が魔力枯渇に陥る危険性が高いみたい。魔力枯渇は文字通り体内の魔力が枯渇した状態。


 私は気絶するだけと思っていたんだけど……魔力枯渇になると、死ぬみたいね。


 成人した大人であっても魔力枯渇になって、死ぬ可能性が高い黒色の石の魔力納付。子供だったら間違いなく死ぬみたいね。レヴァンは私を街から逃がすことも考えたみたいだけど、この街から出るためには六角形の石を返して手続きを踏まなきゃ出られない。匿うことも考えたらしいけれど、外出時には石の着用が義務付けられているから、外には二度と出られない。


 考えに考えた結果、レヴァンは私が小麦粉袋を怪力で持ち上げたように見えたことを思い出した。あれは身体強化魔法を使えるほどの魔力を持っているから、すぐに向かえば黒色の石の魔力納付に耐えられるかもしれない、と考えたのね。私の魔法は身体強化ではなかったけれど。そもそも魔力量が……。


 色々と認識の齟齬はあったけれど、あの時の彼女の涙と必死に私を庇おうとしてくれた姿は今でも胸に焼き付いている。私は最強の魔女アリスティア。恩を仇で返すような真似は私の美学に反するわ。だから私は家の中でも石を着けて気づきやすいようにしているし、石が黄色になった時点ですぐに役所へ行くようにしているの。聖母に何度も涙は流させられないもの。


「わかったわ。午前中の仕事が落ち着いたらサクッと納めてくるわね」

「気をつけてね、アリス。無理しちゃダメよ?少しでもフラッとしたらすぐに帰ってくるのよ?」

「レヴァンったらまだそんなこと言ってるの?私の魔力タンクは底なしなんだから心配ご無用よ」


 私は気合を入れてエプロンの紐を締め直した。さあ、今日も可愛い看板娘の出番よ!




 ふと、過去の記憶が脳裏をよぎったわ。


 今となってはどうでも良いことかもしれないけれど。私は洞窟で修行していた数え切れない年月の間、魔力を限界まで絞り出し気絶するように意識を失っては目覚めていたわ。


 つまり、あれって……。


「……私、あの洞窟で毎日のように死んでたってこと?」


 気絶だと思っていた暗転は、文字通りの死だったわけ!?なんてことよ!三途の川を往復ダッシュするような修行を繰り返していたなんて!これじゃあ修行の虫どころか黄泉帰りのゾンビじゃない!


 ……でもおかげではっきりしたこともあるわね。どんなに魔力を使い果たして心臓が止まっても、私は翌朝にはケロリとして目覚めて、お肌のツヤも完璧なままだったわ。


「名実共に不老不死であることが確定したってわけね」


 老いないだけじゃなく死なない。私の可愛さは死神ですら手折ることができない、絶対的な真理だったという証明よ。嬉しいやら自分の扱いが雑だったことにちょっとだけ引くやら……。


 まあ、いいわ。あの時の積み重ねが今の宇宙一可愛くて最強の魔女アリスティアを作り上げたのだもの。結果オーライよ。


 死んでも死なない私が、今日も元気に世界に私の可愛さを振りまいてあげましょう!生きているって素晴らしいわ!

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