黒い石
パン屋に転がり込んでから指折り数えて十日が過ぎた。言語学習を続けて少しは言葉もわかるようになってきたわ。
私の朝は至福の微睡みと共に始まるはずだったのだけれど、レヴァンとノアのパン屋に来てからは変わっていた。
日が昇るよりも早く階下から、ドタバタという音と小麦の香りが漂ってくる。それが私のパン屋の居候兼看板娘としての、目覚まし時計代わりになっていたからよ。
けれど今日の様子はまた違ったわ。
「……んぅ?」
私は布団の中で芋虫のようにモゾモゾと動いた。目を開けると窓の外からは既に陽が昇っていて、太陽の光が差し込んでいる。小鳥のさえずりが聞こえるほど静かで、いつものような生地を叩きつける音やトレイがぶつかる音が一切しない。
「まさか……寝過ごした!?」
ガバッと飛び起きた。最強の魔女である私があろうことか寝坊するなんて!居候の分際で労働をサボるなんて、レヴァンに「役立たずの穀潰し」認定されて追い出されてしまうわ!
いえ、そういうやり方は彼女らしくないわね。微笑みながら「出て行きなさい」と外を指さす感じかしら。……こっちの方が怖いわね。
現実逃避をしながら慌てて着替えて、鏡の前で銀髪をササッと手櫛で整える。寝癖?私の髪にそんな概念はないわ。常にサラサラの銀糸よ。
急いで階段を駆け下りる。
「遅れてごめんなさい!今すぐ洗い物でも床磨きでも……」
厨房に飛び込みながら謝罪の言葉を叫ぼうとしたけれど、私の声は虚しく空気を震わせただけだったわ。
シーン……。
厨房には誰もいなかった。窯には火が入っていないし、冷たく静まり返っている。陳列棚にはパンの一つも並んでいないわ。
「……え?廃業?」
一瞬、最悪の事態が脳裏をよぎった。夜逃げ?私を置いて?まさか。あんなに善良なレヴァンたちがそんなことするはずがないわ。
呆然としていると奥のリビングから楽しげな話し声が聞こえてきた。
「■■、■■■~」
「■■■、■■!」
私は恐る恐るリビングのドアを開けた。そこには普段のエプロン姿じゃなく、少しお出かけ用の服を着たレヴァンと、可愛いリボンのついた服を着たノアが、テーブルに朝食を並べているところだった。
私が入ってくると二人はパッと顔を輝かせた。
「アリスティア!おはようー!」
「おはよう、アリスティア。そろそろ■■■思ってた■」
ノアが駆け寄ってきて私に抱きつく。レヴァンもニコニコと手招きをしている。怒っている様子も焦っている様子もない。
「……どういうこと?」
私が首をかしげていると、レヴァンは壁に掛けられたカレンダーのようなものを指差した。見慣れない日の刻み方をした、この世界の暦ね。彼女は今日の日付のところを指差し両手で大きくバツ印を作って、それから枕に頭を乗せて寝るジェスチャーをした。
「■■。■■■、■■■」
カレンダーを指差していく。一日、二日……と数えて、十日目。そこには赤い丸がついている。
「じゅう……とおか?十日に一度?」
私の拙い理解力が正しければレヴァンはこう言っている。「今日は十日に一度のお店のお休みの日よ」と。
「休み!?」
私の目が輝いたわ。
定休日!なんて甘美な響きなのかしら。この世界にも労働基準法的な概念が存在したのね!いえ、自営業だから休みはレヴァンが決めると思うけれど。つまり今日の私は労働から解放され、優雅な休日を過ごす権利があるということよ!おやすみ万歳!
私は思わず両手を上げて叫んだわ(心の中で)。表面上はあくまで「あら、そうなのですか」と上品に微笑んで、レヴァンに勧められるまま席に着いた。
今日の朝食はいつもの残り物のパンやスープとは違った、丸くて平たい焦げ目のついた生地。その上にはとろりとした蜂蜜のようなシロップと、赤い木の実が乗っている。パンケーキ……に近いものかしら。
「私■作った■、食べ■!」
ノアがフォークを差し出してくる。私はそれを受け取って、一口切り分けて口に運んだ。
フワッ、モチッ。
口の中に広がる優しい甘さと木の実の酸味。焼き立ての温かさ。
「……美味しい」
幸せだわ。労働のあとの休息も良いけれど、労働のない日のご馳走はもっと最高よ。私は頬を膨らませながらこの十日間の激闘を思い出した。そう、まさに激闘だったわ。
初日の小麦粉運びで、力持ちの妖精さんポジションを確立したのは良かったけれど、問題はその後よ。
例えば二日目の皿洗い事件。レヴァンの目を盗んで、私は水魔法で一気に汚れを弾き飛ばそうとしたの。イメージは高圧洗浄機。でもほんの少し……そうね、ミジンコのくしゃみ程度の魔力制御ミスで、水流が暴れ回ってしまったわ。
結果として皿は綺麗になったけれど、厨房中が水浸しになってレヴァンはずぶ濡れ。私は咄嗟に「あ!窓の外に変な雲が!」と空を指差して、通り雨が吹き込んだという無理のある言い訳で誤魔化したわ。
レヴァンは不思議そうに快晴の空を見上げていたけれど、きっと私の可愛さに免じて追求はしなかったのよ。本当に危なかったわ。
極めつけは看板娘としての業務ね。言葉が通じない私は雑用以外には微笑むことしかできなかった。開店から閉店までひたすら口角を上げ続ける。これやってみると分かるけれど、顔の筋肉が痙攣してくるのよ。
しかも初日のあの少年のおかげで、ある真実に気づいてしまったの。
あの時は訳が分からなかったけれど、この十日間で似たような男の子たちが急増したのを見て、ようやく理解したわ。彼らは真っ赤な顔をして震えながら話しかけていたわ。
あれは紛れもなくナンパだったのね!彼らはパンを買うついでに、私という高嶺の花を拝みに来ていたのよ。
けれど私が「ファンサービスよ」とニッコリ微笑むたびに、彼らは石になったみたいに固まって動かなくなるの。そのたびにレヴァンが「ほら、後ろがつかえてるわよ~」って、優しく諭して帰してあげなきゃいけなくて、レジの回転率が悪くなるという予期せぬ弊害まで生まれたわ。
私はこれを密かにアリスティア・ショックと名付けて、売上貢献の証として誇ることにしたわ。
「……ふふ。罪な女ね」
私はフォークを咥えたまま、うっとりと自画自賛モードに突入した。
「でもこればかりは不可抗力よ。鏡を見るたびに思うもの。どうして神様は私をここまで完璧に創ってしまったのかしらって」
そのうち、この街の広場に私の銅像が建つかもしれないわね。世界を虜にした伝説の看板娘として!後世の歴史書にはこう記されるのよ。アリスティアの微笑みが世界を平和に導いたって!
「■■■……?」
「……へ?」
突然かけられた声に私の妄想風船がパチンと破裂した。我に返るとポットを持ったレヴァンが心配そうに私の顔を覗き込んでいたわ。
「あ、ううん!なんでもないの!パンケーキが美味しすぎて感動していただけよ!」
私は慌てて首を振って誤魔化すように頬を緩めた。レヴァンは「そう?」と不思議そうに首をかしげると、私のカップに温かいミルクを注ぎ足してくれた。
……危ない危ない。危うく変な子認定されるところだったわ。もう手遅れかもしれないけれど。
食事をしながらレヴァンが身振り手振りを交えて今日の予定を説明してくれる。
「■■■お休み■■、皆■外■行きましょう。遊んだ■、お買い物した■」
彼女は自分とノア、そして私を指差した後に外を指差した。そしてお買い物のカゴを持つジェスチャーと、何か楽しいこと(手をひらひらさせる)をする仕草。
わかったわ!レヴァンとノアは遊びにいくから、私は買い出ししてこいってことね。……冗談よ。
「『街に……行くの?』」
私が単語を拾って尋ねると、レヴァンは嬉しそうに頷いた。
「ええ!皆■楽しみ■■!」
お出かけ!買い物!そして遊び!素晴らしい提案だわ。ここ十日間、私は店と家の中を往復するだけで、街の探索なんてロクにできていなかったもの。アリスティア・オン・ステージを街の衆に見せつける絶好の機会じゃない。
「行きましょう!私、準備するわ!」
私は急いでニ階の部屋に戻ってクローゼットを開け放った。
「さあ、出番よ!」
初日以外、私は労働のためにレヴァンから借りた動きやすいけれどシンプルな服ばかり着ていた。もちろん私が着ればどんなボロ布でもオートクチュールに見えるけれど、本気を出した私には遠く及ばないわ。
私は聖櫃二号からあの苦労の結晶たちを取り出した。黒い修道女風ワンピースに肌触りの良い白いブラウス。深く艶やかな藍色のローブ。そして先端が絶妙な角度でへなっと曲がった三角帽子。袖を通す。
シュッ……。
絹のように磨き上げた布が肌を滑り吸い付くようにフィットする。やっぱりこの感覚よ!私は鏡の前に立った。そこに映るのはパン屋の看板娘ではなく、世界を統べる(予定の)最強の魔女アリスティア。
「完璧……。どこからどう見ても、深窓の令嬢でありながら、強大な魔力を秘めた伝説の魔女そのものだわ」
私は鏡に向かってポーズを取った。憂いを帯びた表情で窓の外を見るポーズ。「この国は私が守るわ」的な雰囲気を醸し出す。本当に守る気はないわよ。
次は正面。帽子を少し目深にかぶり不敵な笑みを浮かべる。「ふふ、私の魔力に耐えられるかしら?」という強者感の演出。そして最後はスカートの裾を少し持ち上げて優雅にターン。
「ふふっ。街の衆よ刮目なさい。これが文明レベルを超越した美しさよ」
ウィンクを一つ飛ばして仕上げにかかった。銀の架け橋はお留守番継続。手が塞がっちゃうし、人混みで振り回して誰かに怪我をさせたら、私の可憐な経歴に傷がつくもの。
最後に六角形の石を放り込んだ机の引き出しに目を向けた。
「……はぁ。唯一の汚点ね」
無骨な石と安っぽい革紐。私の洗練された藍色のローブに致命的に合わないのよ。いっそポケットに入れておこうかとも思ったけれど、多分ルールに違反するわよね。不審者扱いされて捕まるよりはマシね。
私は渋々引き出しをあけて、奥から革紐を引っ張り出した。手の中に収まった冷たくて硬い感触を見てみると、様子が変わっていたわ。
「あら?色が変わってるわ。綺麗……とは言い難い色ね」
青かったはずの石はいつの間にか、底なしの闇のような黒色になっていたの。
「何ていうかクロ!っていう感じじゃなくてグロ!って感じの色ね」
……何で色が変わったのかしら?そういえば街に来た日の周りの人たちやお店に来る人たちには、青色だけじゃなくて黄色の石をつけた人も見かけたわね。私の高貴なオーラに当てられて、石が恐縮して黒ずんでしまったとか?
「……まぁいいわ。理由なんて考えてもわからないもの。黒なら黒でシックな色合いだと思えば多少は馴染むかもしれないわね」
原因追求は早々に諦めて、六角形の石と革紐を首にかけて部屋を出た。
「お待たせー!」
私が階段を降りてレヴァンとノアに声をかけた。
その時だったわ。レヴァンの視線がふと私の胸元に留まって、彼女の笑顔がスッと凍りついた。
「……?」
まるで見てはいけないものを見たかのように、彼女の目は大きく見開かれて顔色がサァッと青ざめていく。
「……え?なに?」
私は自分の胸元を見下ろした。食べこぼし?いえ、私は完璧なレディよ。そんな失態はしないわ。胸が控えめだという指摘?それなら今すぐ風魔法で吹き飛ばすわよ?
レヴァンの視線は私のワンピースの上。首から下げていた六角形の石に釘付けになっていたわ。
「あ、これ?家の中では外していたんだけど出かけるなら必要かと思って着けたのよ。気が利くで……」
「アリスティアァァァァッ!!」
私がのんきに感想を述べていた瞬間、普段の温厚な声とかけ離れた、悲鳴のような声がレヴァンの口から発せられたわ。
大きな声にビクッとした私やノアにはお構い無しに、レヴァンはガシッと私の肩を掴む。その手の力強さと必死の形相に私は目を白黒させた。
「■■、■■!?■■■、■■■■!?」
「え、なに!?なにごと!?」
レヴァンは私の黒い石を指差してものすごい剣幕で何かを早口で捲し立てているわ。「どうして!?」「いつから!?」「ダメじゃない!」といったニュアンスの言葉が飛んでくる。ノアもレヴァンのただならぬ様子に驚いて、涙を滲ませているわ。
私は困惑した。たかが石の色が変わったくらいで、どうしてこんなに大騒ぎするの?電池切れ?それか今日のラッキーカラーは黒、みたいな占い的なアレじゃないの?
「落ち着いてレヴァン。ただの石じゃない」
私がなだめようとしても、レヴァンは首を激しく横に振った。そして自分の首に下げていた円形で澄んだ青色の石を見せてきた。彼女は私の黒い石と自分の青い石を交互に指差し捲し立て、そして首を掻き切るジェスチャーをしたわ。
――死。
え、死ぬの?これ黒くなったら死ぬの!?呪いのアイテムだったの!?でも私は不老不死よ?
レヴァンはハクハクと口を動かして、脂汗を額に滲ませながら考え込んいる。目は泳いで呼吸は荒くなっていて、普段の彼女からは想像もできないパニックぶりだわ。
しばらくの沈黙の後、私の黒い石を服の奥深くに押し込んで、襟元をきっちりと閉じた。
「ノア!家■待って■■!」
ノアに家で待つようなことを言いながら、レヴァンは私の手首を掴んで玄関へと引きずっていった。
「ちょ、ちょっと!ノアは?遊びに行くんじゃないの?」
「■■■!」
有無を言わせぬ迫力。普段の温厚な聖母レヴァンはどこへやら。今の彼女は鬼気迫る形相で、私を外へと連れ出したわ。




