居候スタート
目を覚ますとそこは天国だったわ。
鼻孔をくすぐるのは、香ばしく甘い黄金色の小麦が焼ける幸せの香り。背中を預けているのは、柔らかく沈み込んで私を優しく包み込む真っ白な羽毛の感触。
「……んぅ」
私はまどろみの中で小さく声を漏らして、布団を頭までかぶった。このまま二度寝……いえ、永遠に眠り続けたい。この温もりこそが文明。この心地よさこそが正義。不老不死の魔女である私が焦がれてきた、高貴な堕落がここにあるわ。
けれど、階下から聞こえてくる活気ある物音と窓から差し込む朝の光が、私の覚醒を促していた。
――ガタガタ、トントン。
誰かが働いている音。そうだわ。ここは魔女の隠れ家じゃない。昨日の夜に空腹と孤独でベンチにうずくまっていた私を拾ってくれた、聖母レヴァンと天使ノアの家だわ。
私はガバッと布団を跳ね除けて起き上がった。
「いけないわ。うっかり野生の勘が鈍って、ただの寝坊助な居候に成り下がるところだった」
私はアリスティア。宇宙一可愛くて最強の魔女。施しを受けたままのうのうと眠りこけるなんて、私の高いプライドが許さない。借りた恩は倍にして返す。それが高潔な魔女の流儀よ。
それに今の私は一文無しで言葉も通じない無力な少女。ここで追い出されたら、またあの惨めなベンチ生活に逆戻りだわ。私は気合を入れて頬をパンパンと叩いた。
ベッドから降りて、昨日レヴァンが用意してくれた少し大きめの白い寝間着から、私の戦闘服である白のブラウスと黒のワンピースへと着替える。藍色の魔女と銀の架け橋はお留守番ね。
鏡(文明の鏡よ!窓ガラスじゃないわ!)の前で銀髪を整える。ふと鏡に映る自分の首元にかかっていた革紐が目に入った。門で兵士にかけられた六角形の青い石。身分証のようなものだとは推測しているけれど……。
「……うーん。やっぱりこの無骨な石と安っぽい革紐、私の洗練された美貌と服には致命的に合わないわね」
私は石を首から外して部屋の机の引き出しに放り込んだ。ここは家の中だもの。ずっとつけている必要なんてないわよね。鏡を見直してとびきりの笑顔を作る練習を一回。
「よし、今日も私は完璧に可愛いわ」
準備万端。私は部屋を出て甘い香りの漂う階下へと降りていった。
階段を降りると、そこは既に戦場だったわ。
「■■!■■■、■■ー!」
「■■、■■■ッ!」
窯の熱気の中でレヴァンが額に汗を浮かべながら、パン生地を成形している。その動きは無駄がなく流れるような職人の手つきだったわ。その横では――。
「■■ー!■■■!」
六歳くらいの小さな女の子、ノアが自分よりも大きなトレイを抱えて、焼き上がったパンを陳列棚へと運んでいたの。
「……えっ?」
私はその光景を見て思わず足を止めた。
ちょっと待って。ノアはまだ六歳くらいよね?私の前の世界の記憶で言ったら、彼女はまだ親に甘えて公園で泥団子を作って遊んでいるべき年齢のはずだわ。それが……なんてこと!立派な労働力としてカウントされているじゃない!
「こ、これは児童労働……いえ、この世界の常識なのかしら」
私はカルチャーショックを受けつつも、その光景を冷静に分析する。ノアの表情に悲壮感はない。むしろ「お母さんの役に立っている」という誇らしさと、パン屋の娘としてのプライドが溢れている。彼女の小さな体はこの店の一部として完全に機能していたわ。
「まぁ他店に働かせにいくならともかく、家業を手伝うくらいなら前の世界でもあった気がするわよね。うん」
それに対して私はどうよ。
見た目は十歳(中身は計測不能)、最強の魔力と不老不死の肉体を持つこの私が、六歳の子供が働いている横でのんびり朝寝坊をして起きてきたという事実。
「…………」
背中に嫌な汗が流れてくる。最強の魔女たるもの六歳児に後れを取るなんてあってはならないことよ。それにタダ飯ぐらいの居候になるつもりなんてない。出遅れたかもしれないけど、これから名誉挽回よ!
「お、おはようございます!」
私は厨房に入って精一杯の笑顔と大きな声で挨拶をした。もちろん言葉は通じない。レヴァンとノアが振り返る。レヴァンは私を見ると、粉のついた手で額の汗を拭いながら笑顔を見せてくれた。
「■■■、アリスティア!■■■■?」
「アリスティア!■■■ー!」
ノアがトレイを置いて駆け寄ってくる。私の胸に抱きついてニコニコと見上げてくる。ああ、なんて無邪気で可愛いのかしら。天使級の愛らしさね。私には及ばないけれど。
そういえばと、彼女たちの胸元に視線を走らせた。そこには何もかかっていない。滑らかな肌が見えるだけだわ。やっぱり家の中では石は着けておく必要はないみたいね。
ノアの頭を撫でた後に、レヴァンに向かって腕まくりをして見せた。私も働くわ!っていうジェスチャーよ。レヴァンは少し驚いた顔をしたけれどすぐに困ったように笑って首を振った。
「■■、■■■。■■■、■■■……」
彼女は私を椅子に座らせようとする。どうやら「あなたは客なのだから、休んでいて」と言っているみたい。
でもここで引くわけにはいかないのよ。
私は厨房を見回して、洗い場に溜まっているボウルや器具を指差した。そして自分の胸を叩いて再び力こぶを作るジェスチャー(華奢すぎて柔らかいだけだけど)をして見せた。
「働かざる者食うべからずよ!最強の魔女の実力を見せてあげるわ!」
私の熱意に負けたのかレヴァンは「しょうがないわね」という風に笑って、私に小さなエプロンを渡してくれた。
こうして旅の魔女アリスティアの、パン屋での見習い生活が幕を開けたのよ。
「まずは言葉ね。これが分からないと、私はただの便利で可愛い謎の生物で終わってしまうわ」
私は洗い物や掃除といった単純作業をこなしながら、並行して言語習得という最重要ミッションを遂行することにしたわ。
私の師匠はこの店一番の古株従業員の、ノア先輩。彼女は働き者だけれど、やっぱり子供だもの。作業の合間や休憩時間には、私に興味津々で話しかけてくれる。これが絶好の学習機会なのよ。
「ノア、これはなに?」
私は洗い終わったボウルを指差して尋ねる。言葉は通じなくても質問の意図は伝わる。ノアは目を輝かせて答える。
「■■!」
「『ボウル』……なるほど。じゃあこれは?」
私は蛇口から出る水を指差す。
「■!」
「『水』ね。メモメモ……ってメモ帳ないわよ」
私は脳内の記憶領域にしっかり単語を書き込んでいく。天才的な頭脳を持つ私にとって単語の暗記なんて朝飯前よ。問題は文法と発音だけれど、それは数でこなすしかないわね。
ノアは教えるのが楽しいらしく、次から次へと物を指差しては名前を教えてくれる。
「■!(窯)」
「■■■!(小麦粉)」
「■■■■!(お母さん)」
私はそれをオウム返しに復唱する。私の発音が変なのかノアは時々ケラケラと笑うけれど、訂正もしてくれるから助かるわ。
「アリスティア■■■ー!■■■■!」
「え?『お母さん』?」
「■■!■■■■ー!」
上手く話せるとノアが私の頭を撫でる。……六歳児に褒められて喜ぶ最強の魔女。客観的に見るとシュールな光景でしょうけれど、背に腹は代えられないわ。私はプライドをかなぐり捨てて幼児教育レベルからやり直しているのよ。
そんな平和な学習時間を過ごしていると、ようやく怒涛のような朝のピークタイムが過ぎ去ったみたい。客足が途絶えて、店内には久しぶりに静寂と小麦の香りが戻ってきたわ。
レヴァンが大きく息を吐き額の汗を拭いながら厨房の奥にある小さな丸テーブルを指差した。そしてお腹をさするジェスチャーをして微笑む。
「■■、■■■■?」
朝食ね!待ってました!
私は全力で頷いた。最強の魔女といえど労働の後の空腹には抗えない。むしろこの空腹こそが、文明の食事を最高に美味しくするためのスパイスなのよ。
テーブルには焼きたてのパンが山盛りにされたバスケットと、湯気の立つミルクが並べられた。黄金色に輝く皮は、中のふんわりとした白い生地という楽園を守る聖なる障壁。そして漂ってくるバターの芳醇な香り。
ゴクリ。
私は喉を鳴らした。森での生活では、硬い木の実や焼いただけの肉が関の山だったもの。こんなにも手間暇かけられて、柔らかさと香りを持つ食べ物はまさに文明の勝利。人類の英知の結晶だわ。
レヴァンが「どうぞ」と手を差し伸べるのと同時に、私は一番大きくて艶やかなパンを手に取った。
「いただきます!」
サクッとした軽快な音と共に口の中に熱い湯気と甘みが広がる。
「……んん~~っ!」
思わず変な声が出たわ。なにこれ!?美味しい!外側はパリパリで香ばしくて、中は信じられないほどモチモチでしっとりしている。噛むたびに小麦の甘味が溢れ出し、濃厚なバターの風味が鼻腔をくすぐる。
私は夢中でパンを頬張った。アリスティアたるもの、食事の作法も優雅であるべきだとは分かっているのよ?でも手が止まらないの。右手でちぎっては口へ運び、左手でミルクを流し込む。この永久機関を止めることなんて誰にもできないわ。
ふと視線を感じて顔を上げると、ノアがパンを齧りながら私の食いっぷりを見てケラケラと笑っていた。レヴァンも目を細めて、私の口元についたパン屑を指差して笑っている。
ノアが自分の頬っぺたを、両手で押さえて幸せそうな顔をして見せた。
「■■■!」
なるほど「美味しい」ね。重要な単語だわ。私は慌てて口元のパン屑を拭い、居住まいを正してから彼女の真似をして頬に手を当てた。
「『美味しい』!」
私が覚えたての言葉(意図は通じているはず)を使うと、二人は嬉しそうに頷いてそれぞれのパンをまた一口食べた。
私は二つ目のパンに手を伸ばしながら、心の中でこっそりと誓った。この美味しいパンと温かいミルク、そしてこの笑顔を守るためなら多少の労働くらい喜んでしてあげるわ。
至福の朝食タイムを終えて、お腹も心も満たされた私たちは再び仕事へと戻った。ノアはどこかへ遊びにでも行ったのか、家の中には見当たらない。けれどレヴァンは仕事を続けるようね。
次の仕事を手伝うために近づこうとした時。
「■■ー!」
店の裏口から野太い声が聞こえた。レヴァンが慌てて裏口へ向かうので私もトコトコついて行く。裏口には業者らしき男性が荷馬車をつけていた。
「■■!」
男性が荷台からドスン、ドスンと下ろしたのは巨大な麻袋。中身は小麦粉かしら。それも一袋や二袋じゃない。男性は入り口に山のように袋を置くと、伝票にサインを貰ってさっさと帰ってしまった。
サービス精神の欠片もないわね!中まで運んであげなさいよ!
残されたのは積み上がった小麦粉の山と、華奢なレヴァン一人。私は心配して近づく。
「■■■■、■■■■■。」
レヴァンは笑顔で私に「遊んでいらっしゃい」と外を指差した。当然よね。見た目は十歳の可憐な少女だもの。こんな重労働なんて普通なら無理よ。でもレヴァンはその袋を担いで店の中まで運ぼうとしている。いくら彼女が働き者でもこれは過重労働よ。腰を痛めたらどうするの。
「私がやるわ!」
私は自信満々に麻袋に手をかけた。そして気合を入れる。フンッ!
……ビクともしない。
え、嘘でしょ?岩のように重い。私の華奢な腕では持ち上げるどころか、揺らすことさえできなかったわ。
レヴァンが苦笑いをして私を止める。そしてため息をつきながら手ぬぐいで汗を拭って、気合を入れるように頬を叩いた。最初の一袋に手をかけて、顔を真っ赤にして持ち上げようとする。
「……■っ、■■……!」
……すっごい重そう。それでも彼女は一度グッと踏ん張って重心を安定させると、店の中に足を運び始めた。普段からしていることだから慣れているのでしょうけれど、さすがにあのサイズの袋を何往復もするのは骨が折れるはずよ。額には玉のような汗が浮かんでいるもの。
入り口に積み上げられた麻袋の山を見る。あれを全部彼女一人で運ぶつもり?日が暮れるとまでは言わないけれど、終わった頃には彼女は疲労困憊になるんじゃないかしら。
普通なら眉をひそめる光景。けれど――。
「……チャーンス!」




