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暖かさ

 ……全敗よ。


 私は再び路地裏に戻って、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。


「はぁ……。私の可憐な笑顔も至高の茶葉も、ここではタダ飯しようとする子供の戯れ扱いなんて……」


 物理的な攻撃なら障壁で防げるけれど、精神的なダメージは防ぎようがないわ。


「……誰か話の通じる相手はいないのかしら」


 私は焦っていた。普通の人間じゃダメだわ。検問の兵士みたいに身振り手振りで同情をひいても、飴をくれるのが関の山よ。もっとこう知的な階級、学者とか研究者とか。それか魔力の扱いに長けた高位の魔法使いなら、私の知らない魔法の技術、念話みたいな精神感応で意思疎通ができるかもしれないわ。


「そうよ。この街で一番魔力が高い人間を探せばいいのよ」


 私の天才的な頭脳が導き出した解決策はシンプルだったわ。私=魔力が高い天才魔女。それなら魔力が高い人間=知性が高い、あるいは魔法への造詣が深い可能性が高いわ。彼らなら異邦人である私ともコミュニケーションが取れるかもしれない。


 周りを見る。静かな路地裏。ここでなら多少集中しても邪魔は入らないでしょう。


「魔力感知、発動!」


 私は目を閉じて意識を集中させた。森で危険を察知するときや、獲物を探す時に使っていたあの感覚。自分の魔力を波紋のように広げて。周囲の環境や生物からの反響を読み取る。私の得意技の一つよ。広範囲に私の魔力の波を一気に展開する。


 ――カッ!


 イメージの中で透明なドームが私を中心に爆発的に広がった。情報は瞬時に脳内へ流れ込んでくる。ネズミ一匹、虫一匹の鼓動までが鮮明に浮かび上がる。やりすぎたわ。ムシはムリ。精度を下げる。


 街の構造、無数の人間たちの小さな魔力の灯火。


「……ふむ。やっぱり大した反応はないわね。みんな豆電球みたい。もっと灯台みたいな強い光は……」


 私がさらに意識を研ぎ澄ませて探知の範囲を上げようとした、その時だった。


 ドサッ。ガシャーン!


「■■……!?」

「■■……ッ!」


 路地の外、表通りから異様な物音と悲鳴が聞こえてきたのは。


「……え?」


 私は目を開けた。魔力感知を維持したまま路地の出口からそっと様子を窺う。


 そこには地獄絵図が広がっていたわ。


 歩いていた人々が皆一様に胸を押さえて地面にうずくまっている。荷車を引いていた馬は白目を剥き泡を吹いて崩れ落ちている。屋台のおじさんはカウンターに突っ伏して顔面蒼白で荒い息を吐いている。


 まるで街全体に目に見えない巨大な重石が乗せられたかのように、すべての生命が圧に押し潰されていた。


「■■……■■……」

「■、■■■……■■■■■……!?」


 人々が恐怖に歪んだ顔で周りを見渡している。私はその光景を見て自分の血の気が引くのを感じた。


 ――あ、やっちゃった。


 忘れていたわ。私の魔力感知は膨大な魔力を周囲に放射して、その反響を受け取るソナー。森では相手が強靭な魔獣たちだったから問題なかった。テディやガウルに至っては私の魔力圧に慣れすぎて、お昼寝の子守唄程度にしか感じていなかった。


 けれどここは人間の街。彼らの魔力耐性は魔獣に比べて遥かに低い。私が「ちょっと探してみようかしら」と放った探知の波は、彼らにとっては深海の水圧がいきなり地上に発生したようなものだったのよ!


「……っ!」


 私は慌てて魔力感知を解除した。シュンッと音がしそうなほどの勢いで魔力を体内に引っ込める。


 途端に街を覆っていた重苦しい空気が霧散する。人々は「■■■!」「■■■、■■■!」と水面に顔を出した溺れ人のように空気を貪り始めた。


「■、■■■■……?」

「■■■……■■?■■■■■■■?」


 ざわめきが広がる。恐怖と混乱が伝播していく。私は路地の陰に隠れて冷や汗を拭った。


 危ない……危なかったわ。便利ツールだと思って使った魔法が、まさか広域制圧兵器になるとは思わなかったわ。そういえば森でタカの魔獣に魔力感知を向けた時も、空中でバランスを崩していたわね。あの時は私の高貴さに気づいたなんて都合よく解釈していたけれど、単純に圧に怯えて墜落しかけていただけだったんじゃないの!?


「……駄目だわ。この街で私の魔法は危険すぎる……」


 私の魔法は出力の桁が違いすぎる。文明の利器のように繊細に調整された道具とは違う。私の力は丸太でハエを叩くようなもの。ハエは死ぬけれど家も壊れる。情報を得るどころか、私がこの街のパニックの原因になってどうするのよ。


「……深く反省したわ。次からはシャボン玉に触れても割れないくらいの極小出力まで絞って、絶対に安全だと確認してから使うことにしましょう」


 私は逃げるように路地の奥へと進んだ。表通りに戻るのは気まずすぎる。犯人が私だとバレていないことを祈りつつ、人気のない裏道を選んで進むしかなかったわ。




 あてもなく歩き続けているうちに日は西に傾き始めていた。


 街の通りには先ほど見かけた魔法の街灯が灯り始めて、オレンジ色の暖かな光が石畳を照らし出している。夕食の時間なのか飲食店からは一層食欲をそそる匂いが漂ってくる。家路を急ぐ人々の足取りは軽い。


 私は大通りから一本横に入った、少し静かな広場のベンチに腰を下ろした。目の前には小さな噴水があって水が静かに跳ねている。周りには商店がいくつか並んでいる。


 その中の一軒。ガラス張りのショーウィンドウを持つ店の様子が目に入る。


 看板には杖と本が交差したような絵が描かれている。ショーウィンドウの中には街で使われていた魔石や、不思議な形状の道具が並べられているのが見えたわ。


「魔法道具屋……かしら」


 私はぼんやりとその店を眺めた。店の中では眼鏡をかけた初老の男性が、カウンターで何か細かな作業をしているのが見える。手元には分解されたランプのようなものや、大小様々な魔石や無数の工具が所狭しと散らばっている。


 彼はその中から慣れた手つきで、次々と道具を持ち替えながら真剣な眼差しで修理し続けている。その手つきは職人のそれだったけれど、彼が苦戦していることが頭を抱えている様子でわかる。


「……ちょっとコツさえ習えば、あんなの私なら一瞬で直せる気がするわ」


 私はこの街特有の魔法文化や技術の理屈はまだ知らない。けれど魔力そのものを操ることにかけては、永い間たった一人で研鑽を積んできた最強の魔女よ。魔力の出力も絹糸を通すような繊細なコントロールも、私の右に出る者はいないはずよ。


 私の指先がピクリと動く。そうよ。私がちょっと手を出してあの悩みを解消してあげればいい。そうすればランプは輝きを取り戻して、職人は驚愕しながら私を天才だと称賛、お礼にご飯をご馳走してくれるかもしれない。


 私は窓ガラスに手を伸ばしかける。けれど――その手はガラスに触れる直前でピタリと止まった。


 脳裏にフラッシュバックするのは今日の惨敗の記憶。最高の笑顔を浮かべたのに「シッシッ」と手を振って追い払われた果物屋のおじさん。至高の茶葉を枯れ葉扱いして呆れた串焼き屋のお兄さん。


 そして何より――魔力感知で街中の人々を恐怖と混乱に陥れてしまった、あの大失敗。


「…………」


 伸ばしかけた手が微かに震える。もしまた失敗したら?私が良かれと思って手を出した結果、ランプが直るどころか粉々に爆発してしまったら?あるいは上手くいったとしても、言葉の通じない彼に仕事を邪魔されたと怒鳴られて、また追い払われてしまったら?


 ……怖い。


 最強の魔女であるはずの私の心は、度重なる拒絶と失敗ですっかり萎縮してしまっていた。あんなに自信満々で街に来たのに、今の私はガラス越しの老人一人に声をかける勇気すら持てない。


「……やめましょう」


 私は逃げるように手を引っ込めてギュッと胸元で握りしめた。今の私にはもうこれ以上、誰かに拒絶されるショックに耐えられる自信なんてないもの。


「はぁ……。お腹空いたわね」


 私は小さくため息をついて、膝を抱えるようにしてベンチに縮こまった。広場に吹き抜ける夜風は冷たく、孤独な私の体から容赦なく体温を奪っていく。


 宿もない。お金もない。言葉も分からない。……いよいよ野宿かしら。


 森の洞窟で寝起きしていた頃に戻るだけとはいえ、せっかく文明社会に来たのに。公園のベンチで夜を明かすなんて。……あまりにも惨めすぎるわ。




 カラン、コロン。


 軽やかなベルの音と共に、魔法道具屋の隣にある小さな店の扉が開いた。そこは焼き菓子やパンを売っている店のようで、甘く香ばしいバターと小麦の焼ける匂いがふわりと漂ってきた。


「■■、■■■~! ■■ー!」


 元気な子供の声と共に、小さな女の子が店から飛び出してきた。六歳くらいかしら。二つに結んだ栗色の髪が跳ねている。


 その後ろからエプロンをつけた女性が出てきた。亜麻色の髪を後ろで束ねた二十代半ばくらいの女性。働き者の母親といった雰囲気で、目元には優しげな色が宿っている。


「■■、■■■■?。■■■■■」


 母親が優しくたしなめると、女の子はケラケラと笑って母親のスカートの裾に抱きついた。幸せそうな親子の姿。その光景が今の私には酷く遠いものに感じられたわ。


 母親は店の前の看板を片付けようとして、ふと広場の方に目を向け――ベンチにぽつんと座っている私と目が合った。


 私は反射的に背筋を伸ばす。精一杯の強がりで「私はただ夜風を楽しんでいるだけの高貴な魔女よ」という顔を作った。お腹が鳴りそうなのを必死に堪えて。


 女の子も私に気づいて母親の服を引っ張った。


「■■ー、■■■■……?」


 女の子の無邪気な視線と、母親の心配そうな視線が同時に私に注がれる。母親は看板を置いたまま、ゆっくりとこちらに歩いてきた。小さな女の子も母親の手を握ったままチョコチョコとついてくる。


「……■■■?■■、■■■■?」


 柔らかい声だった。門番の兵士とはまた違う、母親が子供に向けるような温かみのある響き。何を言っているのかは分からない。「どうしたの?」「迷子?」そんなところかしら。


「お気遣いなく」


 私は首を横に振った。迷子じゃないわ。私は旅の魔女よ。ただちょっと行き先が決まっていないだけ。


「■■……」


 彼女は私の頑なな態度にも怯まずに、むしろその大きな瞳に一層の同情の色を浮かべた。


 女の子が自分のポケットをゴソゴソと探って、小さなパンを取り出した。動物の顔の形をした可愛らしいパンだ。湯気が立っていて、表面はキツネ色に輝いている。


「■■、■■!」


 女の子はそれを私に差し出した。母親もそれにつられるように、エプロンのポケットから紙袋に入った温かいパンを取り出した。


「■■■。■■、■■」


 彼女たちはパンを差し出して、食べるジェスチャーをした。


 施し……!最強の魔女である私が、見ず知らずの親子に餌付けされようとしているわ!拒否するべきよ!私は誇り高き……誇り高き……。


 グゥゥゥゥゥ……キュルルル……。


 私の意思とは裏腹にお腹の虫が、今日一番の大音量で盛大なファンファーレを奏でてしまう。静かな夜の広場に、その間抜けな音はよく響いたわ。


 女の子が「アハハ!」と笑い、母親も「ふふっ」と優しく笑った。私は顔から火が出そうだったわ。


 でも母親は私の手を取って強引にパンを握らせた。温かい。パンの熱と彼女の手のひらの温もりが、冷え切った私の指先に染み渡る。私は震える手でパンを持って恐る恐る一口齧った。


 サクッ、フワッ。


 カリカリに焼けた表面と中のふんわりとした生地。噛み締めると小麦の甘みとバターの芳醇な香りが口いっぱいに広がる。カビた紅茶でもただ焼いた肉でもない。誰かが誰かのために手間暇かけて作った文明の味。


「……おいしい」


 私は思わず呟いてしまった。気がつけば視界がにじんで、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちている。


「っ、う……ひっ、ぐぅ……」


 情けない。パン一つ二つで泣くなんて。でも止まらなかった。森での孤独、旅立ちの緊張、言葉の通じない不安。それらが温かいパンと一緒に溶けていくようだったわ。


 母親は私が泣き出したのを見て慌てることもなく、ただ隣に座って私の背中を優しく撫でてくれた。女の子も心配そうに私の膝に小さな手を乗せてくれた。




 少ししてパンを食べ終えると、母親は立ち上がり私に手招きをした。自分の店の方を指差している。


 ……着いて行っていいのかしら。


 私は少し迷ったけれど、女の子が私の手を取って「■■ー!」と引っ張る力強さに負けた。彼女たちは穏やかで敵意の色は全く見えない。


 彼女たちの店――パン屋の入口から中に入ると、そこは甘い香りに満ちた天国だった。厨房を抜けて住居スペースへ。そこには小さなリビングがあって、暖炉には火が灯り使い込まれた家具が並んでいた。森の小屋と似ているけれど、もっと生活感があって、もっと温かい。


 テーブルの上には二人分の食器、床には積み木や人形が転がっている。旦那さんの姿は見えない。二人で慎ましくも温かく暮らしている家庭の空気が満ちていた。


 母親は私をソファに座らせると、温かいミルクを持ってきてくれた。私はそれを貪るように飲み干してようやく人心地ついた。


 母親は向かいの椅子に座って、何が嬉しいのかニコニコと私を見ている。そして自分の胸に手を当てて言った。


「レヴァン」


 そして女の子の頭を撫でて言った。


「ノア」


 私に手を向ける。自己紹介だ。私は背筋を正して、先ほどの涙の跡を拭ってから精一杯優雅に、そしてはっきりと名乗ったわ。


「アリスティア」


 震える唇から零れ落ちた音は、私が初めて誰かに手渡した私の名前。


「アリ…スティ…ア。■■■、アリスティア」


 レヴァンは私の名前をぎこちなく復唱する。ノアも「アリスティア!」と無邪気に繰り返した。


 名前を呼ばれた。ただそれだけのことがこんなにも嬉しいなんて。


ひとしきり名前を呼び合うと、レヴァンは私の背中を優しく押し、階段の方へと促した。私を二階へ案内し、奥にある空き部屋の扉を開けて招き入れてくれた。


「■■■」


 彼女は短く何かを言ってから――多分「おやすみ」かしら、軽く手を振って部屋を出て行き、パタンと扉を閉めた。どうやら今日はここに泊めてくれるらしいわね。


 シンと静寂が戻る。部屋には私一人だけ。


 私はベッドに座り、ふかふかの布団の感触を確かめた。森の落ち葉ベッドとは雲泥の差だわ。壁に掛けられたカレンダーのようなものや、棚に置かれた置物。部屋の中にあるすべての物が、私にとっては未知の文明の欠片。


 私は今日一日のことを振り返った。苦々しい感情がよみがえる。でも最後に出会ったレヴァンとノアの温かさ。


 すべてが言葉の壁に阻まれていた。お金を稼ぐにも物を買うにも魔法について語り合うにも、言葉が分からなければ何も始まらない。ただの可愛そうな子供として扱われるだけ。


 それでは駄目よ。私はアリスティア。宇宙一可愛くて最強の魔女。このまま施しを受けて生きるのはプライドが許さない。私は拳を握りしめ新たな目標を定めた。


「決めたわ。まずはここの言葉をマスターする」


 レヴァンは優しそうだし、ノアという小さなお友達もできた。彼女たちの世話になりながら、この世界の言葉と常識を徹底的に吸収するのよ。ノアと遊べばきっと言葉も早く覚えられるはずだわ。


 もちろん、借りは返すつもりよ。何倍にもしてね!


 言葉さえ分かれば、私の知識と魔力を活かす道も見えてくるはず。ここを拠点にして、私は真の意味でこの文明社会にデビューするのよ。


「ふふん。見てなさい。一ヶ月……いいえ、私の天才的な頭脳なら一週間でペラペラになってみせるわ!」


 私は窓の外、街の灯りを眺めながら不敵に笑った。お腹は満たされ寝床も確保した。魔女アリスティアの文明攻略作戦、第一段階「言語習得編」のスタートよ。


 私は泥のように深い眠りにつく前に、もう一度だけ口の中で小さく呟いた。


「ありがとう、レヴァン。ありがとう、ノア」


 その言葉が彼女たちに伝わる日が早く来ることを願いながら。

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