森の中
大事なことなのでもう一度言うけれど、私は永い時を生きている人知を超えた魔女で、見た目十歳の非の打ち所のない可愛らしい美少女よ。
中でも一番重要なのは可愛らしいという点ね。銀髪に碧眼なんていう絵に描いたような誰もが嫉妬するほどの美少女だもの。
見た目でモチベーションは宇宙の果てまで上がるけれど、それだけで全てを解決できないような問題が盛り沢山で、魔女じゃなかった時期もあったのよ。
この森での最初の日のことを私は今でも鮮明に覚えているわ。
当時の私も既にこの完璧な十歳くらいの見た目だったの。記憶は曖昧で自分がどこから来たのかどんな人だったのかも一切思い出せない。けれど前の世界で得たと思われる膨大な知識や人生経験だけは曖昧な形で脳裏に残っていたわ。
「うっ……」
意識が唐突に浮上した。
「頭いったい……」
ズキズキと脈打つ頭痛を手で抑えながら目を開けると、視界に飛び込んできたのは見渡す限りの深い緑だった。頭上を覆う木々は信じられないほど密集して、生い茂った葉が日光を遮っているせいで辺りは薄暗い。
背中には少し湿った柔らかな感触があった。上体を起こして確認すると、どうやら私は大木の根元で苔の絨毯の上に無防備に横たわっていたようだった。
周りを見渡しても人工物は一切見当たらない。まるで太古の時代に放り込まれたような感覚だった。
同時に強烈な違和感が私を襲った。手足に白いワンピースが触れる感触、視界に入る伸ばした手のひらの小ささ、体を起こした時に感じる予想外の軽さ。これらは私が慣れ親しんだ体のものでは無い気がした。
頭の中に??を浮かべながら自分の身体を見下ろして現状を確認している最中、不意に緑の奥から聞こえてきた「ゴォウ!」という地を這うような低い唸り声。
心臓が飛び跳ねた。私は反射的に手で口を覆って恐怖に震えながら息を殺して声のした方を覗き込む。
そこにいたのは目の錯覚を疑うほどの巨大なイノシシのような獣だった。
その体躯は私を遥かに見下ろすほど巨大で生きた山が動いているよう。一歩踏み出すたびに地響きが鳴って木々が根元から悲鳴を上げている。分厚い剛毛に覆われた体や岩をも砕きそうな凶悪な牙。
なにより巨体から滲み出る異様な威圧感から、ただの野生動物じゃないということを私は本能的に悟った。私ごとき小さな存在を鼻息ひとつで塵に変えてしまうような絶対的な捕食者だった。
「いや………いやいや………いやいやいや………。ちょっと待って………」
現実逃避気味に私はいやいやと繰り返す。体は恐怖で言うことを聞かず足がガタガタと震えて立ち上がれない。
あんな怪物が徘徊しているなんて。見つかったら終わりだ。逃げなければいけないのに恐怖と未熟な体のせいで手足は泥の中に沈んでいるように重い。
私は無様に地面を這いずって移動し、どうにか近くの岩陰に身体を滑り込ませた。冷たい岩肌に背を預けて荒くなる呼吸を必死に手で押し殺す。恐怖と不安しかない極限の状態で私はパニックになりそうな心を叱咤し、せめて状況だけでも整理しようと試みた。
ここどこ?:謎の森+巨大なイノシシもどき徘徊中。
何この体?:十歳くらいの体。幼く非力。着ているのは薄い布一枚。……パンツすらない。
目下の課題:イノシシもどきに見つからないようにする。喉乾いた。お腹へった。
少しだけ冷静さを取り戻した途端、押し寄せてきたのは猛烈な喉の渇きと空腹感だった。水を探さなければ。何かを食べなければ。動物的な本能がそう警鐘を鳴らしている。
「……分かってる。分かってるけど……」
けれどイノシシもどきや他の獣に見つかるかもしれないという想像が足を縫い止めていた。草木の揺れる音ひとつで心臓が早鐘を打つ。一歩でも外に出れば殺される。
結局、私は丸一日その岩陰で蹲り続けることしかできなかった。翌日には衰弱してしまうかもしれないと分かっていても、どうしても恐怖に打ち勝つことができなかった。
二日目の朝。目が覚めた瞬間に私は心の底から絶望した。これが悪い夢などではなかったという事実に直面したから。
喉の渇きも空腹感も相変わらずだけれど、昨日の恐怖が体にこびりついていて水や食料を探しに行く気力なんて湧いてこない。
私は現実から逃げるように膝を抱えたまま思考を内側へと沈めていった。
――そもそも、私は誰なの?
自分の記憶を探ってみると、木々に囲まれた現状とはあまりにもかけ離れた情景が脳裏をよぎる。
規則正しく空を突き刺すように並んだ鉄とガラスのビル群、夜でも昼のように明るい無機質な照明、舗装された歩きやすい道。そして色とりどりのパッケージに包まれた甘く複雑な味がする食事。それらの鮮明な記憶は私が今直面している深い緑と土の匂いとは、完全に対極にあるものだった。
自分が何者かという問いの答えは見つからなかったけれど、この状況を説明するヒントならあった。
それは物語の中で主人公が別の世界へ飛ばされる展開。記憶にある文明的な風景と、目の前に広がる原始的な光景の決定的な断絶。今の自分にぴったり当てはまる。
「……何の罰よ、これ」
ふてくされた感想をポツリと漏らす。
このまま動かなければ衰弱して死ぬ。記憶から学んだ知識が無慈悲な未来を予言している。私は諦観で濁った目をゆっくりと閉じた。終わるなら苦しまずに終わりたい。
……けれど、待てど暮らせど体に異変は訪れなかった。
手足が鉛のように重くなる感覚も思考が霞むような目眩もない。丸一日以上飲まず食わずで蹲っていたはずなのに、ただ「お腹が空いた」という感覚があるだけで体の機能は何一つ損なわれていなかった。
「……おかしいわね」
私は自分の手をグーパーと開閉させながら呟く。
「何も口にしていないのに、どうして体は……こんなに元気なの?」
三日目。幸いなことに初日に遭遇したイノシシもどきも含め、今のところ周囲に獣の気配はなかったわ。いつまでも震えているわけにはいかないもの。私は恐怖への対策として「なるようになれ」と開き直ることにしたの。
まずは移動の準備よ。歩き回るたびに私のひ弱な体の足裏に小石が食い込んで痛かったから、手近な大きめの葉っぱを何枚も重ねて蔓のような植物で足に巻き付けて固定する。
「……見た目は最悪な原始人のサンダルだけど、背に腹は代えられないわね」
よし、防御力はアップしたわ。私は喉の渇きと空腹感を無視して、周囲を確認するために岩陰から踏み出した。
――動ける。歩いてみても倒れない。
しばらく近場を歩き回ってから元の岩陰に戻ってきた私は、腕を組みながら首を傾げたわ。
「……ねえ、どういうこと?」
誰にともなく問いかける。前の世界の自分に対する記憶はなくても、一般的な常識は知っているわよ。三日も飲み食いしなければ衰弱して動けなくなるはずよね。
私はまず自らの常識を外れたこの異常な体質を疑った。再度時間をおいて確認しても、喉の渇きと空腹感という不快感は続いているのに、体力が低下して衰弱する様子が全くないのよ。
「原因はさっぱり分からないけれど……」
この段階で私は飢餓では死なない体質であると仮定したわ。細かい理屈は放り投げた。原因なんて考えてる余裕なんかないもの。
少し休んでから私は森の探索を再開した。
慣れない森歩きは過酷で、何度も木の根に躓いて転倒したり、枝で腕をひっかいたり、石に足の小指をぶつけて悶絶したりしたわ。その度に痛みに顔を歪めて、体中が生傷だらけになってしまったのだけれど――。
翌日、私はまたしても自分の異常性を思い知ることになったわ。
「……嘘でしょ。昨日の傷が、跡形もない」
腕を見ても足を見ても、擦り傷ひとつ残っていない。
この治癒力は異常すぎるわ。ちょっとした怪我なら一晩で完全に治る。死にさえしなければ直ぐに元通りにリセットされる体質。……手間いらずで非常に結構だけれど、明らかに人間を辞めているわね。
少し考えて、これも死なない体質の一部だと割り切ることにしたわ。死という懸念に気を払う必要はなくなったのよ。
「死んで楽になるという選択肢が一つ消滅したとも言えるけれどね」
さらに数日が経過して私はある残酷な事実に気づいてしまったわ。
この森をどれだけ歩き回っても、リスや小鳥といった普通の動物は一匹も見当たらない。ここにいるのは異形の怪物だけ。
つまりこの森の食物連鎖における最底辺――最弱は間違いなく私ってわけね。笑えないわ。
そんな最弱な私が見つけたのは赤色をした一口サイズの木の実だった。
前の世界の知識にある特定の木の実とは違うけれど、見た目はごく普通の木の実。あの怪物たちのような禍々しさは微塵もないわ。
毒見をさせられそうな小動物もいない以上、安全を確認する手段はない。けれど見た目は無害そうだし、怪我が一晩で治るのなら毒だって平気かもしれないわ。
私はイチかバチかの実験のつもりで赤い実を恐る恐る口に運んだ。カリッと皮を破ると、中から甘酸っぱい果汁が溢れ出したわ。
「……っ、美味しい!」
数日ぶりの味覚の刺激に、脳が痺れるほどの感動を覚える。そして胃の中に食べ物が落ちたことで体がカッと熱くなり、活力を取り戻すのを感じることが出来たわ。
「……つまり私は食事が生存に必須というわけではないけれど、食べれば元気が出るってこと?」
口元の果汁を拭いながら思考を巡らせる。何それ、お財布に優しいエコロジー体質?……いいえ、違うわね。
これは生きるために食べるという生物の義務から解放され、楽しむために食べるという権利だけが残ったということ。ある意味で究極のライフハックじゃない。燃費良すぎでしょ。
この異常な体質は私が今居るこの危険な森で生き延びる上で、唯一にして最大の武器となったわ。飢え死にすることもないし、ちょっとした怪我なら一晩で治る。毒や病気については検証が必要だけれど、おそらく似たようなものでしょう。
なら、やることはシンプルよ。強大な獣に一撃で粉微塵にされるのだけを回避して、前の世界の知識を総動員して徹底的に隠れ続けること。
自暴自棄な部分はまだ残っていたけれど、イノシシもどきに心を折られていた私の意欲は、ほんの少しだけ前向きになれた気がしたわ。
さらに別の日、私は失敗してしまったわ。
ここ数日の平穏に気が緩んでいたのかもしれない。歩き回って疲れた体を休ませるために岩陰に向かっていた私は、そこで巨大なトカゲもどきと鉢合わせしてしまったの。
トカゲは私を見るなりギチギチと音を立てて鋭い牙を剥き出しにした。その体躯は私を丸呑みにしてもまだ余りあるほど巨大だったわ。
「うわぁ…。また大きいのね…」
現実逃避気味に呟く。イノシシもどきの次はトカゲもどき。しかも「私毒あるわよ!食べたら死ぬわよ!」と言わんばかりのドギツイ色味。趣味が悪いわね。目が痛くなるわ。
そんな減らず口とは裏腹に私の体は石のように固まっていたわ。今の私の心にあるのは恐怖というより「ああ、見つかっちゃったわね」という静かな諦めだけだったわ。
だって私には死なない体質以外に特別な力なんて何もないもの。あるのはか弱い十歳児の身体と、役に立たない前の世界の知識だけ。
しかもイノシシもどきの時に感じた威圧感を、トカゲもどきにも感じて息が苦しくなる。あの時は恐怖から感じていた感覚かと思ったけれど、今の私にあるのは諦観だけなのに。
トカゲがゆっくりと私に近づいて捕食のために大口を開けた。
その瞬間。
■■■■■■■■■――ッ!!!
森の奥から先日のイノシシもどきが唸る声とは比べ物にならないほど、はるかに巨大で森そのものを揺るがすような咆哮が響き渡ったわ。
トカゲもどきは咆哮に明らかに怯えだして私への関心を一瞬で失った。すぐに脱兎のごとく踵を返し、咆哮の主から逃げるように一目散に森の奥深くへと姿を消していった。
辺りには嘘のような静寂が戻ってきて、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れる。私は堪らずその場にへたり込んでしまったわ。
「はぁ、はぁっ……」
酸素を求めて肺が勝手に喘ぐ。心臓が肋骨を内側から叩く音がうるさい。冷や汗で背中に張り付いたワンピースが気持ち悪かったけれど、それを気にする余裕すらなかったわ。
震える手で自分の身体を抱きしめる。食べられなかった。ただそれだけの事実が、今の私には奇跡のように感じられた。
「……はぁ。助かった……?まさかこんな形で運命に感謝するとはね」
私の前に残ったのはトカゲが去った後の静寂と、遅れてきた恐怖で震える体。そして前の世界の知識でさえも無力になるほどの異質な世界の歪さだったわ。
獣は無駄に大きく謎の威圧感を放つ。私は飢餓では死なないけれど、殺されればひとたまりもない。
この時になって私はようやく理解したわ。自分がとんでもなく過酷な世界に放り込まれたのだということを。
同時に私は一つの結論に達した。
「この異常な体質に頼るしかないわ。私は死なない。だからまずは巨大な獣が跋扈するこの森で、一日でも長く安全に生き延びること」
そしていつかこの世界の仕組みを解明して、絶対的な平穏を手に入れてみせる。十歳くらいの見た目の少女になった私は、心の中で静かに力強い決意を固めた。
前の世界の知識と徹底的な隠蔽。使えるものは何でも使って、この理不尽な森で今日を生き抜くことから始めましょう。




