ファーストコンタクト
上空を流れる風が、少しずつその性質を変え始めていた。
私が銀の架け橋に腰掛けて岩山と化したかつての我が家を飛び立ってから、どれほどの時間が経ったかしら。眼下には見渡す限りの緑の海が広がっている。この森は私が地上で歩いていた時に感じていたよりも遥かに、そして絶望的なほどに広大だったわ。
「……広いわね」
どこまで行けども、巨木、巨木、巨木。まるで世界そのものが樹木で埋め尽くされているのではないかと錯覚するほどだわ。変わり映えのない景色に飽きてきて速度を少し上げてみたら、風圧が尋常じゃなくなってきたわ。私の自慢の銀髪が荒れ狂ったり、苦労して仕立てた藍色の三角帽子が飛びそうになったり、ローブがバタバタと悲鳴を上げる。
「私の完璧な身だしなみを空気抵抗ごときが乱そうだなんて生意気よ」
私は眉をひそめて障壁を展開した。意識するのは私と箒を包み込む流線型のドーム。途端にあれほど荒れ狂っていた風の音が嘘のように消え去った。凄まじい速度で空を飛んでいるにもかかわらず、私の周囲だけは凪いだ湖面のように静寂でローブの裾すら優雅に揺れる程度に落ち着いたわ。前方から来る猛烈な空気の壁を障壁が滑らかに受け流しているのよ。
「ふふん。これぞ魔女の優雅な空の旅ね」
私は結界の中で紅茶でも飲めそうなほど快適な空間を維持しながらさらに速度を上げた。
しばらく飛び続けると濃密すぎた森の空気が薄れ景色が徐々に変化し始めた。木々の密度が下がって、荒々しい岩肌や低い低木が目立ち始める。
そして、ついにその時は訪れたわ。
「……あれね」
どこまでも続く緑の樹海が途切れた先。荒涼とした大地の上に、灰色の石で作られた巨大な壁がそびえ立っている。城壁ね。森の木々のように不規則じゃなく定規で引いたように真っ直ぐで、冷たく、そして力強い人工物。
「へぇ……。ただの街というよりはまるで要塞ね」
その巨大な城壁は街全体をぐるりと囲い込んでいて、東西南北の方角に合わせていくつかの巨大な門が設置されているのが空からでも見て取れたわ。それぞれの門に向かって細い糸のような街道が伸びていて、そこを豆粒のような人々や馬車が行き交っている。
あれが人間の街。私が夢にまで見た文明の最前線。
「素晴らしいわ……!見なさい、あの整然と並んだ建物!森の混沌とは対極にある秩序!きっとあの中には可愛らしい服やフカフカのベッド。湯気の立つ紅茶と宝石のようなお菓子が山のように積まれているに違いないわ!」
私は歓喜に打ち震えながら高度をゆっくりと下げていった。城壁の上や門には豆粒のような人間たちが槍を持って歩いているのが見える。彼らは空を見上げることもなく自分たちの仕事をこなしている。
「いきなり街の真ん中に降り立って女神のように崇められるのも悪くないけれど……」
私は少し考えた。魔女の旅の心得その一「可愛さは正義、安全も正義」。その三「正体は徹底的に隠蔽する」。
箒に乗って空から降ってくる美少女なんて、どう考えても普通の観光客じゃないものね。この世界での魔法使いの常識がどうなっているかは知らないけれど、いきなり矢を射かけられたり大騒ぎになって囲まれたりするのは私の優雅な旅のスタートには相応しくないわ。
「まずは近くの街道に降りて、そこから徒歩で向かいましょう。旅の途中で道に迷った少しばかり育ちの良い可憐な少女。完璧な設定ね」
私は街から少し離れた街道沿いの木陰を選んで静かに舞い降りた。
トン、と軽い音を立てて黒革の靴が地面に着く。私は箒から降りると、それを右手に持った。太陽の光を受けて眩いほどの煌めきを放つ美しい銀色の箒。……ん?
「……いえ、待って。正体は徹底的に隠蔽するんじゃなかったかしら?こんな派手な銀色の箒を堂々と持っていたら、……目立つじゃない」
私の脳内で冷静な私が警告信号を出している。トラブルを避けるなら箒は布で巻いて杖に見せかけるなり、森に置いてくるなりすべきよと。
けれど今の私は違う。私は誰?私はアリスティア。世界にその名を知らしめる魔女よ!この美しい相棒をボロ布で隠すなんて宝石を泥で塗りたくるような冒涜だわ!
「隠蔽とアピール……。この二律背反する命題を同時に満たすにはどうすればいいの?」
うーんと考えていて思いつく。……そうよ、解釈の問題だわ。
「不老不死と最強の魔力さえバレなければ目立ってもセーフ!ただの村娘として埋没するのは私のプライドが許さないもの。むしろ私の美しさに世界がひれ伏さない方が不自然だわ!」
私は強引に理屈をひねり出した。自らの欲望を論理でコーティングして納得させると、箒を杖のように突いてズシッと重い黒革のバッグを背負い直して歩き出した。
「見てなさい世界。この銀の輝きこそが私の通る道よ」
城壁に向かってしばらく歩いていると、向かう先からガラガラと音を立てて一台の馬車がやってきた。屋根のない荷馬車で野菜のようなものを積んでいる。御者台には日に焼けた中年男性が手綱を握っていた。
人間……!
私はとっさに目を凝らして彼を観察した。手綱を握る指が六本に増えていたり、逆に目が一つに減っていたり、異形な形に進化していないか。……よかった。どうやら私の知る生物学的な人間の形のままだわ。
数十年数百年、あるいはもっと長い時を経て初めて至近距離で見る他人。私の心臓が少しだけ高鳴る。緊張?まさか!これは期待よ。文明人同士の洗練されたファーストコンタクトね。
私は馬車が近づくのを見計らって道の端に立ち止まり、練習通りにスカートの裾を摘んで優雅に微笑んだ。
「ごきげんよう。良いお天気ですわね」
私の声は小鳥のさえずりのように可憐に響いたはず……だったのよ。
けれど御者の男性は私を見ると怪訝そうに眉をひそめて手綱を引いた。馬車がゆっくりと停止する。彼は荷台から身を乗り出して訝しげな視線を私に向けた。
「……■■?……■■■■?」
……はい?
何を言っているのかしら。彼が発したのは私の知っている言葉とは似ても似つかない、ただの音の羅列だったわ。やれやれ、標準語が通じない田舎なのかしら。まあ、こんな辺鄙な場所だもの。訛りが強すぎて聞き取れないのも無理はないわね。
でも大丈夫。挨拶は心よ。笑顔は万国共通の言語だもの。私はもう一度、より深い慈愛を込めた笑顔でゆっくりと話しかけた。銀色の箒を少し掲げて敵意がないことを示す。
「驚かせてごめんなさい。私は怪しいものではありませんの。ただの通りすがりの世界一可愛い旅人よ」
けれど私の行動はあまり効果がなかったようだったわ。男性は私が掲げた銀色の箒と風になびく銀髪、そして上質な藍色の三角帽子とローブをじろじろと眺めた後、露骨に嫌そうな顔をした。
「……■■。……■■■■……」
相変わらず何を言ってるか全然わからないわ。……あら?……待って?。言葉が……通じない?
私はここでようやく重大な事実に思い至ったわ。私の言語は前の世界の記憶にある言葉よ。この世界の人間の言葉とは根本的に違うのは当然じゃない!。訛りが酷かったわけではなくて、そもそも言語体系が完全に違っていたんだわ!
「なんてこと……。文明とのファーストコンタクトが言葉の壁なんかで阻まれるなんて……」
数百年の引きこもり生活で、会話相手なんて下僕ズ(言葉不要)か自分(独り言)だけだったから、言語の壁なんてすっかり忘れていたわ。小屋の本が読めなかった時点で気づくべきだったのに!
「■■■…」
言葉の意味はわからないけれど、その声色と短く吐き捨てるような語調から「面倒くさい」「関わりたくない」と思っていることだけは痛いほど伝わってきたわ。彼は私から視線を外すと短く馬に合図を送った。
「■■ッ!」
彼は再び馬車を走らせ始めた。私を道端に残して土煙を上げて遠ざかっていく。
「……あら?」
私はぽかんとその後ろ姿を見送った。もっとこう銀髪の美少女に驚くとか優しくしてくれるとか、そういう反応はないの?ただの言葉の通じない変な外国人扱いされてスルーされただけじゃない。
「……失礼な人ね。まあいいわ、言葉が通じないという情報を得られただけでも収穫よ」
言葉が通じなくても、私の可愛さと知性があればきっとなんとかなるはずだわ。
気を取り直して歩いていると街道の脇に一本の朽ちかけた木の杭が刺さっているのを見つけた。そこには平たい板が打ち付けられていて矢印と共に何やら文字が書かれていたわ。
「道標ね。これなら街の名前くらいは分かるかもしれないわ」
私は期待を込めてその看板を覗き込んだ。
「…………」
無言で看板から視線を外した。ま、文字も読めないと。当然よね。それに小屋にあったノートの文字とも形が違う気がするわ。どちらにしろ共通しているのは、私には欠片も理解できないという残酷な事実だけ。
「はぁ……。最強の魔女である私が、ここでは赤ん坊と同レベルの識字率だなんて」
私は苛立ち紛れに看板の端を指先でコツンと小突いた。
ミシミシッ……バキィッ!!
「……あ」
私の思考が一瞬で停止した。足元にはかつて道標だった無残な残骸。
――待って。これ、器物損壊?公共物破損?
冷や汗がドッと吹き出した。まだ街に入ってすらいないのに、善良な旅行客どころか犯罪者への第一歩を踏み出してしまったんじゃないの!?私はキョロキョロと不審者のように挙動不審な動きを繰り返した後、決意した。
「み、見てない。私は何も見てないし何もしてないわ。ええそうよ。最初からここには何もなかったのよ!」
証拠隠滅するように風魔法で木屑を散らすと私は何事もなかったかのように再び街の方角へと足を向けた。背中を流れる冷たい汗を感じながら私は前途多難すぎる未来に涙目になった。
しばらく歩き続けると、ようやく街の入り口が見えてきた。
近くで見ると城壁は圧倒的な威圧感を放っていたわ。見上げるような高さの石壁が街を外界から完全に隔絶している。巨大な門の前には槍を持った兵士たちが立っていて、出入りする人々をチェックしていた。
「検問……ね」
私は少し離れた場所から様子を観察する。門の前にははっきりと分かれた二つの列ができていたわ。
右側の列は流れが速い。並んでいるのは身なりの整った人や慣れた様子の商人といったところね。彼らは首から円形の石を下げていて、兵士の前でその円形の石を提示した後に、この世界のお金のような硬貨を渡すだけですぐに中へと通されている。門の脇にある水晶の台座には触れないのね。
左側の列は進みが遅い。こちらに並んでいるのは大きな荷物を背負った旅人や少し薄汚れた格好の人々。彼らは首には何もつけていない。こちらの列の人々は兵士の前で立ち止まって、門の脇に設置された台座の上の水晶に手をかざさなければならないようだわ。
人が手を触れると水晶はぼんやりと光る。気になったのは水晶に触れた後の人々の反応ね。みんな一様に少し肩を落としたり首を振ったりして、軽い疲労感を見せている気がするわ。その後に彼らは懐から硬貨を取り出して兵士に手渡して、ようやく中へ通されている。
「ふむ……。あからさまな差別……じゃなくて、区別ね」
私の天才的な頭脳が瞬時に分析する。右の円形の石を持つ人たちはこの街の市民。だから通行税だけで済む。左の何も持たない人たちは私のような外部の人間。彼らは通行税に加えてあの水晶による何らかのチェックを受けなければならない。大体こんな感じでしょ。
「郷に入っては郷に従えよ。私は当然、左の列ね」
右の列に並んで「会員証をお見せください」と言われて追い返されるのは恥ずかしいもの。私は意を決して左の列――外部者用の列に並んだわ。
第2章始まりました。
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