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銀色の飛翔

 何の特徴もない日のことだったわ。私はロッキングチェアの上で、いつものように魂が抜けた微睡みに身を預けていた。


 けれど突然、心の奥底から突き上げてくる激しい感情の奔流に、思わずカッと瞳を見開いて立ち上がった。それは長い長い停滞の時代を終わらせる、始まりの合図だったのかもしれないわ。


 確固たる決意をもって聖櫃(ホーリー・アーク)へ向かって、藍色の魔女(アルカナム・ブルー)であるローブと三角帽子を引き出して身に纏う。


「決めたわ。私、外に出る」


 声に出してみると、その言葉は予想以上に私の体に馴染んだ。最初からそうすることが運命づけられていたかのようにね。


 私は掃除しすぎて透明になった窓の外の……え?窓付いてるわよね?と思いながら触れる。良かった、ある。


 窓の外の森を鋭い眼差しで見つめた。その先には私が長い時間をかけて避けてきた、きっと非常に厄介な人間たちの世界が広がっている。


「ふん。わかっているわ。外の世界は手に負えないほどの混沌に満ちているはずよ」


 だけどその予測不能な混沌こそが、私の尽きることのない退屈を満たしてくれるはずよ。


「そうよ、考えてみれば当たり前のことじゃない。この私は宇宙一可愛くて最強の魔女なのよ?その私がこんな森の奥深くで、二匹の毛むくじゃらとカビた壁を相手に永遠を過ごすなんて、宇宙的な損失だわ!」


 拳を握りしめて誰もいない空間に向かって熱弁を振るう。


「世界は私を知る権利があるし、私は世界から称賛される義務があるのよ。それに……そう、この小屋にある文明の痕跡。これが森の外には溢れているはずなのよ。もっと美味しい紅茶、もっと肌触りの良いシルク、そして何より……」


 私の脳裏に前の世界の記憶がおぼろげに浮かぶ、口の中でとろけるような至高の食べ物。


「木の実や焼いた肉だけじゃ満たされない、あの文明の味!それが私を待っているはずだわ!」


 食欲、物欲、承認欲求。人間の三大欲求とは少し違うけれど、私という高貴な存在を突き動かすには十分すぎる燃料ね。


「善は急げよ。思い立ったが吉日、いえ私が動く日がすなわち吉日なのよ!」


 私は高らかに指を鳴らした。長すぎた引きこもり生活についに終止符を打つ時が来たのよ。




 旅の準備でまず初めに浮かんだのが、可愛さね。


 自分でも何言ってるのと思ったけれど、思い浮かんだんだからしょうがないわ。最高の可愛さを追求する私にとって、魔女としての様式美という概念は不可欠な要素よ。


 藍色の魔女の衣装を作ったときには満足してしまっていたけれど、魔女として重要なピースが一つ欠けていたことに気付いたの。


「ズバリ、箒よ」


 といっても掃除する用の箒じゃなくて飛ぶ用の箒ね。飛翔自体は私の途方もない魔力を使えば体一つで普通に飛べるけれど、やっぱり魔女は箒に乗ってこそよね。

「最高の魔女が使う箒なんだから、そんじゃそこらの木を加工して作ったものじゃ満足できないわ」


 私の根っこが引きこもり気質なのか、用事がなければわざわざ遠くまで出かけることもなかった。永い間住んでいるのに、あんまり遠出することはなかった森を、風魔法で飛びながら散策する。


「何か良い木ないかしら」


 しばらく探しながら飛び回っていると、随分離れたところに一際高い木をみつけた。傍に降り立って見上げてみると、一部の枝と幹だけが不思議な銀色の輝きを帯びていた。


 私に電撃が走る。


「ビビッときたわ!あれは私のためのものね!」


 再度飛び上がって銀の枝に向かおうとしたら、遠くから大きい鳥みたいなのがやって来るのが見えた。「おっと」と思いながら一応障壁を展開。


 テディやガウルが下僕になって以来、彼らが露払いをしていたから、周囲の警戒なんて久しくしていなかったことを実感するわ。


 大きな鳥が徐々に近づいてくる。姿がはっきり見えるようになると巨大なタカのような姿だった。タカの勢いは止まらずそのまま私に向かって突っ込んでくる。


「舐めすぎじゃない?」


 動かないでいると、案の定、障壁にドォン!とぶつかって弾き飛ばされた。


「真っ直ぐ突っ込んでくるところをみるに、ただのザコ?」


 弾き飛ばされたタカは距離をとるようにしながら体勢を立て直して、かまいたちのような風の刃を放ってきた。当然、私の障壁に阻まれて霧散する。まぁそうでしょうね。タカは困惑したように私をみている。


「ん~?」


 永らく森に住んでいればわかる。魔法を使う魔獣はそれなりに知性があって、強さも段違いよ。大抵の魔獣は本能でしか動かないし、物理でしか攻撃してこない。


「魔法が使えるっていうことは、テディやガウルと同じレベルのはずよね。何で最高最強可愛さの化身である魔女の私が放つ崇高さに気付いてないのかしら。あの子たちは直ぐに私の高貴さに気付いて戦闘前にひれ伏したのに…」


 あの時と違う点を考えていると、タカは恐怖を感じたのか飛び去ろうとしている。


「う~ん、…魔力感知かしら」


 飛び去るタカは距離をどんどん離していく。全然使っていなかったから思い出すようにして魔力感知を発動する。うん?もう一つ強い反応があるわね、と思いながらタカを範囲内に収めた。


 その途端にタカが空中でガクンと、体勢を崩した様子が遠目に確認できた。よろよろとしながら慌てて飛び去っていく。


「なるほどね。魔力感知や威圧を行わないと、魔獣たちには私の気高さが伝わらないのね」


 魔力感知と魔力による威圧は似たような原理だものね。魔力感知は魔力を放射してその反響で相手の情報を読み取る、威圧が魔力を放射して相手を怯ませる。


 どっちにしろ相手に魔力が伝わらなきゃ私の至高さは伝わらないってことね。うん、学びになったわ。


「私に楯突いたことは一度だけ見逃してあげる」


 タカは放っておいて、魔力感知に引っかかったもう一つの反応を見上げる。先程の銀色の枝や幹の部分だ。大木本体には強い反応がみられないけれど、枝の部分や幹の一部にだけ強い反応がある。変異種かしら。


「理由は良く分からないけれど、まぁいいわ。最高の魔女の箒となることを許してあげる」


 銀色の枝の根本から風魔法でスパッと……あれ?固いわね。その辺りの魔獣を狩るレベルの魔力じゃ、表面くらいしか傷つかないわ。


「ふん。根性があっていいじゃない。最高の魔女の箒になるんだからこれくらいはしてもらわないとね。でも私を舐めてもらっちゃ困るわ。私は宇宙一可愛くて最高最強で壮麗・雄大・偉大な魔女よ!」


 魔力を収束して量や密度を数段階上げて風魔法を放つ。


「ウィイイインド……違うわね。……エアリアル・スライス!!」


 ヒュンッ!


 音もなく放たれた風の刃は銀色の枝を通り抜けて、はるか後方の空へと消えていった。やがて枝は何事もなかったかのように音もなく滑り落ち、重力に引かれてようやく地面へと落下した。


「ふふん、完璧ね」


 断面は鏡のように滑らかで木屑ひとつ出ていない。これぞ私の神技よ。満足してそれを拾い上げる。ついでに箒の毛の部分も、大木の皮から銀色の部分だけむしり取る。


「親和性があっていい感じになるでしょう。きっと」




 うきうきの気分で家に戻って素材を見ながら想像する。


「うふふ。藍色の魔女に身を包んで、飛び立つ銀の箒に腰掛ける銀髪碧眼の魔女。この世のものとは思えない美しさをもつ彼女は誰?」


 ぅわたしよ!


 自らの想像に満足して加工を始める。数えきれない期間を引きこもって、窓ガラスの掃除で鍛えた、私の魔力制御は世界最高峰よ!私以外の技術なんて知らないけれどね。


 枝の表面を滑らかに削り出す。この棒の曲がりが私の可愛さをどれだけ引き立てるか、って考えながら完璧なまでの曲線を刻んでいく。


 大木からむしり取った皮も束ねて加工。穂先は細く柔らかくする。掃除用途じゃないから穂先が広がる形じゃなくて、まとまる形へ整える。ニ○バス2000ね!


 加工し終わった素材を合わせて束ね始める。創造の熱意が冷めてきた頃、私の手に残されたのは、息を飲むほどの美しさを放つ一本の銀色の箒だったわ。


「ああ……。なんて美しいの……。私には及ばないけれど」


 私はその滑らかな銀色の柄に愛おしむようにそっと触れた。


「今日から貴方は銀の架け橋(アルジェント・ゲイト)よ」


 この私を世界のあらゆる因果へと繋ぐ、銀色の架け橋になるがいいわ!


 銀色の相棒の作成に大満足した私は、旅立つ気が薄まってきちゃったわ。またしばらく引きこもって自堕落に過ごしたわ。旅って準備している時が一番楽しいわよね。




 しばらく過ごしていたら、旅への気持ちが再燃してきたので準備を再開する。


「まずは荷物ね。持っていくべきものは……」


 私は小屋の中を見回した。愛着のある家具や食器たち。全部持っていきたいところだけれど、さすがに家ごと移動するのは物理的に無理がある。


「厳選に厳選を重ねる必要があるわね」


 私はテーブルの上に持っていくものを並べ始めた。


 まず前の住人が残してくれた書物。これは外の世界で文字を学ぶための教科書として必須。


 次にボーンチャイナ風のティーカップセット。私の優雅なティータイムを保証する聖遺物だから絶対に外せない。割れないように布で三重に包んでおくわ。


 そして私が育てた貴重な極上茶葉。カビていないものを選別済みのエリート茶葉たちよ。


 最後に私の着替え。今着ているヴィクトリアンブラウスや修道女風ワンピースの予備。それと苦労して作った下着類。


 テーブルの上に積み上がった荷物の山を見て、私は腕を組んだ。


「……結構な量になったわね」


 これをどうやって運ぼうかしら。風呂敷のように布で包む?いいえ、却下よ。藍色の魔女を着た最強の魔女が、背中に所帯染みた布包みを背負うなんて、ビジュアル的に敗北だわ。夜逃げか行商人にしか見えないもの。


「もっとスタイリッシュで、私の可愛さを損なわないアイテムが必要よ」


 以前ストラップシューズを作るために、下僕ズに狩らせたイノシシの皮。その残りがまだあるはずだわ。……あった。黒く染め上げた、分厚く頑丈な革の端切れが数枚。


「これを使えば耐久性とデザイン性を兼ね備えた、いい感じの鞄が作れそうね」


 私は意気揚々と革を広げたけれど、この革ものすごく硬い。針なんて通そうものなら折れちゃうわ。靴を作った時も苦労したのを思い出したわ。


「でも風呂敷を背負う屈辱に比べれば……!」


 私は覚悟を決めて作業に取り掛かった。裁断は風魔法のカッターでスパッと。これはお手の物。


 問題は縫製だけれど今回は力技で行くことにしたわ。風魔法でドリルのように革に小さな穴を等間隔に空けていく。ヴィィィン!という高い音と共に革屑が舞う。そこに同じ革を細く切り出して作った革紐を通して、編み上げるようにして繋ぎ合わせていくの。


「これなら針も糸もいらないわ。無骨なステッチが、逆にワイルドで冒険者っぽいこなれ感を演出してくれるはずよ!」


 数時間の格闘の末、完成したのは黒革のショルダーバッグ。蓋の部分はあえて革の端の自然な形を活かしたフラップ式。肩紐は幅広にして重さを分散させる設計。そしてマチをたっぷりとって容量を確保したわ。これならティーカップセットも余裕で入る。


「完璧ね。これなら高貴な私が持ち歩いても恥ずかしくないわ」


 出来上がったバッグに厳選した荷物を詰め込む。ズシリと重いけれど、革がしっかりしているから型崩れもしない。私はそれを肩にかけて鏡代わりの窓ガラスの前でポーズを取った。


「悪くないわ。旅慣れた魔女って感じね」




 装備は整ったわ。けれど、ただ漫然と外に出るのは危険よ。


 私には人間嫌いという根本的な性質と、不老不死っていう隠すべき事情がある。トラブルを避けて快適な旅を楽しむためには、確固たる行動指針が必要だわ。


 私はロッキングチェアに座り、指を立てて一つずつ確認していく。


 名付けて、魔女の旅の心得(ウィッチズ・ルール)よ。


「その一!可愛さは正義、安全も正義」


 私は不老不死だし最強の魔力を持っている。物理的に傷つくことはないでしょう。でも痛いのは嫌だし、服が汚れるのも嫌。何より面倒な争いごとは、私の優雅な旅を阻害する要因でしかないわ。


 だから基本的には危険には近づかない。魔獣が出たら瞬殺するけれど、人間同士の争いや、国家間の陰謀みたいなドロドロした場所には近寄らないこと。私はあくまで観光客として振る舞うのよ。


「その二!文明の甘い汁だけを啜る」


 人間は嫌い。集団心理も、裏切りも、悪意も大嫌い。でも彼らが作る美味しい食事、美しい服、快適な宿屋は大好き。この矛盾を解決するには、深入りしないに限るわ。


 商売としての付き合いはするけれど、情は移さない。彼らを利用こそすれ依存はしない。適度な距離感を保って美味しいとこ取りをする。これぞ賢い魔女の処世術ね。


「その三!正体は徹底的に隠蔽する」


 これが一番重要かもしれないわ。私が不老不死だったり、最強の魔力を持っていることがバレたらどうなるか。崇拝されるならまだマシ(貢物がもらえるから)だけど、権力者に目をつけられたり、実験動物として狙われたりするのは絶対に御免だわ。


 私の見た目は十歳の少女。これを最大限に利用する。旅の途中で師匠とはぐれた見習い魔女とか、実は見た目より少しだけ年上の天才少女くらいの設定で行きましょう。間違っても、数百年森に住んでる伝説の魔女、なんて自己紹介はしないこと。


「よし。この三か条を守れば、私の旅は薔薇色間違いなしよ!」


 完璧な作戦立案に私は一人で満足げに頷いた。これで心の準備も万端ね。




 さて、いよいよ出発……の前にやるべきことが残っているわ。この小屋のことよ。


 私が長い時間をかけて改装し、思い出を積み重ねてきた魔女の隠れ家。これを無防備なまま放置していくなんてありえない。私がいない間に野盗に荒らされたり、魔獣の住処にされたりしたら、帰ってきた時にショックで寝込んじゃうもの。


「物理的に隠すしかないわね」


 幻影で隠すとか、結界で守るとか、便利な魔法があれば楽なのだけれど、生憎と私にできるのは土を動かすことくらい。だったら力技で行くしかないわ。


 私は小屋の外に出た。テディとガウルが昼寝をしている横を通り過ぎて、小屋から少し離れた位置に立つ。


「やるわよ」


 私は大地に手を突いて魔力を練り上げた。イメージするのは埋葬。いえ、もっとポジティブにタイムカプセルよ。


 ズズズズズ……。


 地面が低く唸りを上げ、小屋の周囲の土が大きく盛り上がり始めた。土魔法による地形操作。小屋の壁に沿って土がせり上がり、やがて屋根の上まで完全に覆い尽くしていく。


「もっと硬く。頑丈に」


 さらに魔力を込めて盛り上げた土を岩盤のように圧縮する。ただの土山じゃ雨で流れてしまうから、石材レベルまで硬度を高めるのよ。


 小屋はみるみるうちに巨大な土のドーム……というより、無骨な岩山の中に飲み込まれていった。入り口も、窓も、煙突も、すべて分厚い土と岩の下。物理的に完全に遮断したわ。


「ふぅ……」


 目の前には不自然に盛り上がった小山が一つ。どこからどう見てもただの岩場、あるいは巨大な古墳にしか見えない。これなら中にお洒落なログハウスがあるなんて、誰も想像できないでしょう。


「……帰ってきた時、掘り起こすのが大変そうね」


 自分でやっておいてなんだけど、この圧縮された岩盤を取り除く作業を想像して、少し遠い目になったわ。まあいいわ。その時はその時の私がなんとかするでしょう。未来の私、頑張ってね。




 小屋の隠蔽を終えて私は振り返った。


 そこには巨大な黒いクマと、白いオオカミが座っていた。テディとガウル。彼らは、自分たちの縄張りにあったはずの小屋が、突然巨大な岩山に変貌したのを見て、ポカンと口を開けていた。


 そして次に私を見た。いつもと違う服装。肩にかけた大きな革のバッグ。そして埋められた小屋。それらの情報から、彼らは何が起きているかを察したようだったわ。


 彼らとも永い時間を過ごしたおかげか、何となく言葉が通じているような、意思疎通が出来るようになっている。


「……私は行くわよ」


 私が短く告げると、テディが「フン」と鼻を鳴らした。寂しがる素振り?追いすがってくる忠誠心?そんなものは微塵も感じられない。むしろ「やっと静かになるのか」という、隠しきれない安堵の色が浮かんでいる気がするわ。


 ガウルに至っては、大あくびをしてから後ろ足で耳の後ろをカイカイと掻いている。……ちょっと。これから感動の旅立ちなんですけど。少しは別れを惜しむ演技くらいできないの?


「なによ、その態度は。私がいないと寂しくて泣くんじゃないかと思って心配してあげたのに」


 私が腰に手を当てて言うと、テディは「まさか」と言わんばかりにのっそりと顔を背けた。「腹減った」とでも言っているような気のない唸り声。


 それでも彼らはのろのろと私の後ろをついてこようとした。別れを惜しんでいるわけじゃない。「こいつについていけば、また美味いものが食えるかも」という浅ましい食欲が透けて見えるわ。


「ついてきちゃダメ。あなたたちは連れて行けないわ」


 私がピシャリと言うと、彼らはピタリと足を止めた。「え、マジで?ラッキー」みたいな顔を見合わせた気がするのは、私の被害妄想かしら。


「あなたたちの図体じゃ、人間の街に入れないのよ。それに食費がかかりすぎるわ。私の優雅な旅の資金が、あなたたちの胃袋に消えるなんて耐えられないもの」


 私が理由を並べ立てても彼らは「へー、さいですか」という風に座り込み、早くもくつろぎモードに入っている。


「……いい?基本は自由にしていいけれど、たまにこの岩山の様子を見に来なさい。私が帰ってくるまで、ここを他の魔獣に荒らさせないこと。あと人間が来たらちょっと様子を見てちょうだい。前の住人は多分もう帰ってこないと思うけれど、万が一があるかもしれないわ」


 私が岩山を指差して命じる。意思疎通はなんとなく出来ていると思うけど、細かいニュアンスまでは自信がないので大事なことだけもう一度。


 下僕ズ自由。たまに見回りに来て。魔獣はぶっころ。人間は待て。


 テディは面倒くさそうに片手を上げた。「はいはい、分かってますよ」とあしらうような仕草。ガウルは目を閉じて、岩山の陰で昼寝の体勢に入っている。彼らはどうせここが一番居心地がいいから動かないだけでしょうし。


「最後まで可愛げのない下僕たちね」


 私はため息をついた。感動的な別れなんて期待した私がバカだったわ。野生動物にドライな対応をされる魔女なんて、物語にもならないじゃない。でも湿っぽいのは私の柄じゃないし、これくらい適当な方が気楽でいいわ。


「じゃあね。せいぜい私のいない自由を楽しみなさい。帰ってきたら、また死ぬほど洗ってあげるから覚悟しておきなさいよ!」


 私が捨て台詞のように叫ぶと、テディとガウルは同時にビクリと体を震わせて心底嫌そうな顔をした。ふふん、最後に一矢報いてやったわ。


 太陽が高く昇り森に光の矢が降り注ぐ時刻。私は土に埋もれた元・我が家と呆れ顔の下僕たちを背に、銀の箒に腰掛けて飛び出した。


 行き先は?知らない。地図は?ない。あるのは虹が見えたあの方角だけ。


 背後からはもう遠吠えすら聞こえてこない。きっと今頃「やっとあの騒がしいのがいなくなったぜ」と清々して、二度寝でも決め込んでいるに違いないわ。薄情な下僕たち。でもそれが彼ららしくて、不思議と嫌な気分ではなかった。




 しばらく飛んでいると、見慣れた森の景色が少しずつ変わり始めたので、降り立ってみる。木々の種類が変わって地面の質が変わる。ここから先は私が何百年も閉じこもっていた揺り籠の外。未知の領域。


 向こう側には私の天才的な知性でさえ解読できないほど複雑怪奇で、きっと手に負えないほどの厄介事や混沌が広がっている。


「だからといって、いきなり喧嘩を売るほど野蛮ではないわ。最低限の礼儀は持ち合わせているもの」


 コホン。


「ごきげんよう。私は旅の魔女……魔女……あら?」


 私は永きにわたる時の流れを、ただの「私」という抽象的で特定の意味を持たない存在として過ごしてきて、名前を持ち合わせていないことに気付く。


 下僕たちに名前をつけたり、ボロ布や服や帽子、箒にさえ名前をつけているのに。肝心の自分には名前をつけていなかったなんて。


「……いきなり想定外ね」


 自分の名前を自分でつけるのは違和感がある。けれど、新しい世界へ優雅に飛び出し真剣に向き合うためには、過去の自分から脱却した新しい自分が不可欠ね。


 最高最強可憐魔女としての新しいアイデンティティが必要なのよ。銀色の髪と藍色のローブを纏い、究極の銀色の箒に腰掛けたこの新しい姿に、最もふさわしい響きと意味を持つ記号を定める必要があるわ。


 私はしばらく考えて、最も可愛く、最も威厳があり、そして最も私らしい響きを持つ名前を選定した。私は森の張り詰めた静寂の中で、新しい名前をゆっくりと、けれど確かな響きをもって発した。


「ごきげんよう。私は旅の魔女アリスティア。今後ともよしなに」


 アリスティア。この新しい名前を自らに定めることで、私は過去の安寧に囚われた自分から完全に脱却して、新しい旅の魔女として生まれ変わる。


「響きも文字の並びも完璧ね!可愛さレベルも威厳レベルも最高ランクよ」


 私は銀色の箒の柄を力強い決意をもって握り締めて、藍色のローブの裾が乱れることのないように最も優雅な姿勢を保ち帽子を抑える。この完璧なローブの裾を、みっともなく風に靡かせてはいけないわ。これも淑女のたしなみよ。


「待っていなさい、世界!この宇宙一可愛い魔女様が、貴方たちに文明の素晴らしさと、私の愛らしさを教えに行ってあげるわ!」


 不安がないと言えば嘘になる。人間は怖いし、外の世界の常識なんて何も知らない。頼れるのは自分の魔力と、不老不死の体、そしてこの肩に食い込むバッグに詰まった僅かな荷物だけ。あと宇宙一の美貌。


 でも今の私には無限の時間がある。失敗しても恥をかいても数百年かければ笑い話になるでしょう。


「さあ、冒険の始まりね!」


 私の途方もない魔力で一気に空へと加速させた。箒は音もなく、銀色の矢のように空の最も高い場所へと舞い上がる。その飛行の軌跡は完璧な放物線を描き、私の優雅さを最大限に引き立てた。


 永きにわたる引きこもりの魔女アリスティアは、無限の好奇心と絶対的な力、そして新しい名前を携えて、予測不能な世界へと優雅で力強い飛翔を開始したのよ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

ひとまず第1章は完結となり、物語は第2章へと続いていきます。

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