始まりの予感
「――って、ちょっと待ちなさい!ストップ!タイムよ!」
私が高らかに最強の魔女の誕生を宣言して、優雅に裾を翻して歩き出した直後のことだったわ。
ズリッ……ジャリッ……。
私の耳にこの世で最も聞きたくない不快な音が届いたの。私が心血を注いで指にいくつもの穴を開けながら完成させた、至高の聖衣。藍色の魔女であるローブの裾が、地面の土や小石と擦れ合う音だったわ。
慌てて裾を持ち上げて恐る恐る確認した。
――ああ、なんてこと!
「よ、汚れが……!私の、私の神聖な藍色が泥と埃にまみれているじゃない!」
絹のように磨き上げた表面の光沢が、わずか数歩歩いただけで薄汚れて、土埃がついているわ。
私はその場で膝から崩れ落ちたわ。
「嘘でしょう……?こんなペースで摩耗していったら、一年もしないうちに、またあのボロボローブへ逆戻りじゃない!」
私は震える手でローブを抱きしめた。この服を作るのにどれだけの労力を費やしたと思っているの。あの虚無の糸撚り地獄、歪む縫い目との戦い、そして指の痛み。あんな苦行をそう何度も繰り返せるわけがないわ!
テディとガウルが「また始まったか」という顔で、呆れたように鼻を鳴らす音が聞こえる。
「笑うんじゃないわよ!これは国家予算レベルの損失なのよ!」
この藍色の魔女は私の正装。ここぞという時のための決戦用装備よ。日々の畑仕事や下僕の世話、森の散策ごときで擦り減らしていい代物じゃない。
「……封印よ」
これまでにかかった時間や労力を思い出し、私は涙を呑んで宣言した。
けれど私の至高の傑作を、ただの古いタンスに押し込むなんて冒涜は許されないわ。私は小屋の奥にあるクローゼットの前に立って、中身をタンスへ追いやる。
「今日から貴方が『聖櫃』よ」
風魔法で内部の微細な塵を完全除去。火魔法で乾燥させ湿度を完璧に管理。さらに土魔法で密度を高めて頑丈に。仕上げに扉へ封印の紋章を刻み込んだ。てきとーな飾り彫りとも言うわ。
完成からわずか数分で、私の藍色の魔女は聖櫃へと厳重に安置することになったのよ。あまりのショックで裾についた泥を払う気力さえ、失せていた私は「見なかったことにする」っていう最強の現実逃避スキルを発動して、薄汚れたままのローブを聖櫃の奥へと押し込んだ。
「次に貴方を纏うのは、私が真に世界へその名を轟かせる時よ。それまでこの聖櫃の中で眠りにつきなさい……」
私は聖櫃の扉を閉じて、自分の体を見下ろした。そこにあるのは再び露わになった白く滑らかな肌。
「……振り出しに戻ったわね」
結局、私は再びあの麻袋のようなボロボローブを引っ張り出して、屈辱的なスタイルに逆戻りすることになったわ。
「違うのよ。これは仮の姿。世を忍ぶ仮の姿なんだから……!」
誰に言い訳するでもなく呟いて、私はロッキングチェアに深く沈み込んだ。
「もう二度とあんな地獄の作業は御免だわ。このボロ布で十分よ。どうせ見てるのは小生意気なクマとオオカミだけなんだから」
そう私は固く誓ったわ。この時はね。
そこからまた永い永い時間が流れたわ。
季節が巡って森の木々が新緑から深緑へ、そして紅葉を経て白銀の世界へと姿を変えまた芽吹く。それを何度繰り返したか私はもう数えるのをやめてしまった。
私の時間感覚は不老不死という特異性と、終わりのない日常への没頭によって完全に麻痺していたのよ。
この期間は劇的な魔法の進化や命懸けの戦闘があったわけじゃない。ただひたすらに生活という名の、地味で平坦な日々が続いたわ。
畑の世話をして、テディとガウルに餌付けして、たまに魔法の訓練をして(もう伸び代がないけれど)、ロッキングチェアで揺られる。その繰り返し。
最初はそれで満足だったわ。衣食住は足りているし、安全だし、私は可愛い。
けれどあまりにも変わり映えのしない日々の中で、私はかつてない強敵と直面することになったわ。
「……暇すぎるわ」
そう退屈よ。森の小石の数を数えるのも飽きた。雲の形で占うのも飽きた。下僕たちの寝相を観察するのも、もう見飽きたわ。不老不死にとって無限の時間というのは祝福であり、同時に呪いでもあるのね。
私は暇を持て余しすぎて奇行に走り始めた。
例えば暖炉の火。ある日やることが特になかった日に、暖炉の火をみていたら好奇心が湧いたのよ。一番長く火が保てるような薪の置き方はどういうものか実験したり、投入する薪はどれほどの時間で燃え尽きるかを計ったりとか、色々な実験をしたわ。
極めつけは暖炉に灯る火をただ見つめていたことね。火は一瞬として同じ状態であることはなく、変化し続けていると聞いたことがあるの。だから丸一日は燃え続けられる程の薪を投入した後は、最初に火をつけてから最後の薪が燃え尽きるまで観察していたわ。ただひたすら。じっとね。
さすがにこれには「廃人と化してない?」と冷や汗をかいたわ。無駄にその辺りを走り回ったり、筋トレして自我を保ったの。
「この揺るぎない完璧な調和こそが、私の魂を深い虚無に沈ませる原因だわ」
たまにはテディやガウルが邪魔でもしてくれないかしらと思う。いえ、いざそんな事があったらボコボコにするけれど。
他には、収穫した茶葉で紅茶を淹れた時ね。かつては最高の満足感をもたらした風味も、その時の私の舌には何度も繰り返された、過去の香りや味としか感じられなかったわ。心に残るのは感動じゃなくて、新しい刺激が欠乏した冷たい虚無感だけ。
昔はカビてない茶葉を探すのに必死だったけれど、刺激欲しさに「あえてカビた茶葉を探そうかしら」と本気で考えた時は焦ったわ。世も末じゃなくて、私も末だと思って、ギリギリで踏みとどまることができたわ。
そして最近の日課である窓の清掃作業。
小屋の窓ガラスは信じられないほどの透明度を維持している。森の景色はまるで透明な空気そのものを隔てているかのように、鮮明で鮮やかに外の世界の全てを映し出す。
私は魔法で普通の視力では捉えられないほどの、微細な塵を探し出して除去する。これは私の心を正常に保つための精神的な儀式となっていたわ。
けれど私は窓に視線をやって、動きを止めてしまう。
「ああ……。本当にお手本のような完全な状態。まるで私のようね」
窓面には何の曇りも何の瑕疵も、何の小さな汚れも存在しない。私が次に実行すべき行動は、何一つとして残されていなかったわ。
私は窓を拭くという行為が、意味を完全に喪失してしまったことを感じてしまった。
ある雨の日の午後。行き場のない退屈を持て余していた私は、ふと部屋の奥にある聖櫃という名のクローゼットに目を向けた。
「そういえば……」
ショックのあまり封印した藍色の魔女であるローブと三角帽子。数え切れないほどの季節が過ぎた今、あれがどうなっているか気になったの。
私は聖櫃の扉を開けた。密封していたおかげで藍色の魔女は当時のままそこに飾られていたわ。
「……汚いわね」
ローブの裾には乾いた泥がこびりついたまま。かつての私が見なかったことにしたツケが今ここに鎮座しているわよ。普段なら見なかったことにして扉を閉めるところだけれど、今の私には無限の時間とそれを埋めるための作業が必要だったのよ。
「……直しましょうか。威厳のために長くしたけれど、実用性がゼロじゃ意味がないわよね」
私はローブを取り出してロッキングチェアに座り、かつての自分の浅はかな見栄を反省しつつ裾上げに取り掛かった。
まずは魔法で丁寧に泥汚れを落とすと、絹のような光沢が戻ってくる。その後に地面に引きずらない長さに合わせて裾を内側へ丁寧に折り返してから、一針一針縫っていく。
びっくりしたのがあれほど嫌っていた裁縫作業が今の私には心地よかったのよ。単調なリズム。徐々に整っていく形。無心になれる時間。
没頭からふと意識が浮上した頃には、完璧に修繕され実用的な長さに調整されたローブが完成していたわ。私はそれを再び聖櫃に戻して満足げに頷いた。
「悪くないわね。こういう時間の使い方も」
綺麗になったローブを見ていたら、不思議と創作意欲が湧いてきた。窓ガラスに映る自分の姿を見る。麻袋のようなローブ。ボサボサになりがちな髪。裸足。
「……ダサいわね」
退屈すぎて思考が自分の粗探しに向かい始めたの。そしてふと思ったわ。この無限に続く虚無のような時間を、ただ天井の木目を数えて過ごすのと、死ぬほど嫌いな裁縫作業に費やすのと、どちらがマシかしらって。
「……はぁ。やりましょう。やるわよ」
私は重い腰を上げた。あれほど二度とやらないと誓った糸撚りと縫製地獄。けれど今の私にとって、それは暇つぶしという最高のエンターテイメントに昇格していたのよ。
そこからの私は何かに取り憑かれたように作業に没頭したわ。もう急ぐ必要なんてない。時間は腐るほどあるんだから。
まずは一番肌に近い部分。下着ね。タンスに残されていた白いシーツのような柔らかい布を使って、実用性と可愛さを兼ね備えたドロワーズを作成した。膝上までの丈で裾にはささやかなフリル。ゴムがないから紐で調整するタイプ。一針一針、亀のような歩みで縫い進めたわ。途中で糸が絡まっても以前のように癇癪を起こしたりしない。「ああ、糸を解く作業でまた半日潰せるわ」と感謝すらしたいくらいよ。
次にトップス。別の白い布を活用して首元までしっかりと覆う、スタンドカラーのブラウスに仕立てたわ。肌の露出を抑えることで逆に高貴さと神秘性を演出する作戦ね。そしてこだわりの袖口。ここにはあえて大きく広がる、ベルスリーブを採用したわ。手首の動きをより優雅に、よりドラマチックに見せるための計算し尽くされた広がりなのよ。ヴィクトリアンブラウスみたいね。完成した袖が風をはらんで広がった瞬間、私は虚空に向かってガッツポーズをしたものよ。
そしてメインとなる普段着。私が選んだのはタンスの中で最も量が多かった黒い布。藍色のローブに合わせるなら中はこの色しかないわ。目指したのは修道女のようなシンプルで禁欲的、それでいて体のラインを美しく見せる黒のワンピース。シルエットの美しさを追求するために何度も仮縫いをして、少しでも気に入らなければ全部解いてやり直した。黒という色はいいわね。私の銀髪と碧眼を強烈に引き立てるもの。
最後に足元。ここだけは布ではどうにもならなかったから、テディとガウルに狩らせた、硬い皮膚を持つイノシシもどきの皮を使ったわ。なめし作業の臭いも、退屈な日々に刺激を与えてくれるスパイスだと思えば耐えられたの。完成したのはコロンとしたフォルムが愛らしい、黒革のストラップシューズ。さらに糸撚り地獄で生産した太い糸で編んだ、純白のニーソックスも合わせれば、完璧よ。
そして、気づけば全ての衣装が完成していたわ。
「できた……」
私は完成した衣装を身に纏って窓ガラスの前に立った。白のブラウスとドロワーズ。黒のワンピースと純白のニーソックス。そして黒革のストラップシューズ。普段は清楚で厳格なシスター風。そして決戦時には藍色の魔女を着用することで、完全体となる。我ながら完璧な仕事だわ。
そのあとは藍色の魔女を引っ張り出してきて、自画自賛オブ・ザ・イヤーを連日開催したわ。挙げ句、自分の美しさを確認するために窓ガラスだけでは足りず、森の中にある小さな湖を凍らせて、鏡面化した舞台でファッションショーをしたりもした。
観客はテディとガウル。下僕ズに拍手させながら盛り上げさせた。「テディ、このポーズはどう?」「ガウル、あなたは拍手が足りないわよ!」と無理やり反応を引き出して満足いくまでポーズを決め続けた。
けれど同時に、私は再びあの感覚に襲われた。
「……で、次は?」
作るべきものは作った。やるべき作業は終わった。また無限の暇が戻ってきたのよ。
一応、私はこの安らぎに満ちた日常の重苦しさから脱出するために費やす事を持っている。ただこれに関しては本当に気が進まない。ローブの裾直しなんて鼻で笑って、比較にならないくらい気が進まない。無限のような退屈の中でも、これだけは頑張ってみようする気がまるで湧き上がってこない。
それが唯一残された未解決案件である、読めない文字との対峙。
想像してみて欲しいわ。全く知らない文字を学ぶということが、どれだけ大変か。
前の世界ではロゼッタストーンとかいう石碑が、古代エジプト象形文字の解読の鍵となったらしいわ。あの石碑は神聖文字、民衆文字、ギリシア文字の三種類が使われていたの。その内の一つであるギリシア文字が解読可能であったし、たくさんの優秀な学者たちがいたから解読が進んだのよ。
今回みたいな謎の書物だけ渡されて、何が書かれているかも何種類の文字が使われているかもわからない。協力者も居ない。そんな状況で「どれだけ時間がかかってもいいから」と解読を依頼されたらどうするのかしら。今の私だったら即答するわよ。「いえむり」と。
えぇ、最初は軽く見てたわよ。物語のような翻訳魔法的なご都合主義を期待していたわ。いざ!と思って書物を広げて解読を始めたら、文字たちは私の努力をあざ笑うかのように一貫した法則から外れ続ける。
そうするとね羊がやってくるの。羊が柵を飛び越え一匹、二匹と。下僕たちは何をやってるのかしら。とっちめようかと思って顔を上げると、朝日が私の可憐なお顔を照らすのよ。
「はぁ~……、なんで解読できないのよ」
何度試しても私は耐えがたいほどの睡魔の波に、何度も何度も打ちのめされる。この終わりなき探求によって、私の精神的なエネルギーが見えない深部で激しく枯渇していくのを感じたわ。
また雨の降る午後、私は白のブラウスと黒のワンピースを着て、ロッキングチェアに揺られながら古びたノートを開く。
フワァ……。
……うん、やっぱりダメね。文字を目で追った瞬間に襲いくる強烈な睡魔。これはもうある種の精神安定剤として使えるレベルだわ。不眠症知らずで結構なことよ。
私はパタンとノートを閉じて表紙を撫でた。このノートを書いたのはかつてここに住んでいた小屋の住人でしょう。丁寧に組まれたログハウス。不揃いだけど温かみのある食器。私が服に作り変えた布たち。
ここには確かに誰かの生活があったのよ。
「人間か……」
私は窓の外、雨に打たれる森をぼんやりと眺めながら、自分の心の奥底に沈んでいる前の世界の記憶をまさぐった。具体的なことは変わらず思い出せないけれど、感情の記憶だけは妙に鮮明に残っている。
常に誰かの顔色を窺い続けなければならない息苦しさ。意味のない愛想笑い。理不尽なルールと同調圧力。裏切り、嫉妬、足の引っ張り合い。胸の奥が冷たく濁った泥で満たされるような感覚。
そう。私は思い出したの。私は人間が嫌いだったんだわ。
騒々しくて、汚くて、面倒くさい生き物。自分の利益のために平気で他人を踏みつけにするくせに、表面だけは綺麗に取り繕う。そんな人間関係という名の泥沼に、私は心底うんざりしていたはずよ。だからこそ誰にも干渉されないこの森の生活は、私にとって理想郷のはずだった。
ギィ……ギィ……。
ロッキングチェアの音だけが響く部屋。安全で快適で、誰も私を傷つけない世界。やりたいことは全部やった。この森で手に入る範囲の欲しいものは全部手に入れた。
「それなのに、私の心はどうして乾いているのかしら」
私は立ち上がって窓辺に歩み寄った。雨が上がって雲の切れ間から光が差し込んでいる。森の緑が輝き遠くの空に虹がかかっていた。この森の全てを知り尽くした私でも、あの虹の向こう側がどうなっているのかは知らない。
人間は嫌い。関わりたくない。
でも彼らが作り出した物には心が惹かれる。この小屋にあった紅茶の香り。不格好だけど愛らしい食器。何より私が苦労して服に仕立てた布という素材。
これらは全て森の自然だけでは決して生まれないもの。森の外には私の知らない美味しいお菓子があるのかもしれない。私の魔力でも再現できない美しいレースや宝石があるのかもしれない。私の可愛さをさらに引き立てる、未知のアイテムが山ほど眠っているのかもしれない。
「……ねえ、テディ、ガウル」
私が独り言のように呟くと、外で寝そべっていた二匹がピクリと耳を動かした。
「この森の外って、どんな景色が広がっているのかしらね」
窓ガラスに映る私、は黒い修道女のような姿で静かに外の世界を見つめていた。
「ここを出る?まさか。ここは魔女の隠れ家。私の楽園よ。でも……」
私は窓枠に手をかけ少しだけ身を乗り出した。遠くを渡る風が森の匂いとは違う、微かな異国の香りを運んできたような気がしたの。
「たまには違う景色を見てみるのも、悪くないかもしれないわね」
まだ決意は固まっていない。荷造りもしないし、聖櫃からあのローブと三角帽子を取り出すこともしない。
ただ、私の心の中に芽生えた退屈という名の小さな種が、外の世界への興味という芽を出し始めた。
私はしばらくの間、飽きもせずに虹の彼方を眺め続けていたわ。




