第17話 リミットは二日間
悪魔の出現から数時間後。
アナト、イルシア、レイモンドの3人は、キリルハイト兵団本部の2階に位置する小部屋でテーブルを囲んでいた。
だが、この場にいる全員が浮かない表情をしている。襲撃のショックを、まだ引きずっているのだ。
特に、もろに悪魔の攻撃を喰らったアナトの脇腹は、まだズキズキと鋭い痛みを訴えている。不死者の回復力がなければ、まだベッドで悶絶していてもおかしくなかったほどの傷だ。
一方、爆発による破片で背中を負傷したとはいえ、レイモンドは見た目には軽症だ。だが、その傷を如実に感じさせるかのように、心なしか苦しげな面持ちをしている。
視線を地面に落としたまま、レイモンドが唇を震わせて言葉を絞り出す。
「まさか、堂々と罠の中心に飛び込んでくるとはね。しかも、第三試合に魔術師が出ることも織り込み済みで。そこに転移の魔法陣を混ぜこまれたんじゃ、到底こちらも手に負えない。アナトが気がついてくれて本当に助かったよ」
「たまたまだよ、ぞっとしない話だけどな。ただ、罠を張ってたこと、俺にくらいは伝えておいて欲しかったけど」
「すまない、敵がなんらかの方法で君から情報を抜き取っている可能性もあったからね」
釈然としない表情で不満を溢すアナトに、レイモンドが申し訳なさそうに弁明する。
罠、というのは、この武術大会そのものを指しているのではなく、さらに狭い領域の話だ。
敵がアナトを殺せないと悟った以上、同じ愚を犯すとは考えにくい。そうなれば、次に敵の標的となるのは、他ならぬアナトの守護者である、イルシアのはずだ。彼女を殺せば、アナトの命も否応なく奪われるのだから。
そう予想した兵団上層部は、イルシアに、できるだけ目立たない格好で観客席に立つことを要求したのだ。
そもそも正体不明の敵に囮作戦を仕掛けるだけでもハイリスクなのだ。あまつさえ、不死者でない彼女をそんな危険な役回りに当てるとは、兵団はどういう神経をしているのか。
兵団への苛立ちが募り、唇を噛み締めるアナト。
その唇に、隣に座るイルシアが手を伸ばし、柔らかく人差し指を押し当てた。
「アナト、いいの。私が自分で志願したことなんだから。それよりも、今考えなきゃいけないのは、敵が次どう動くかよ」
穏やかに、しかしはっきりと諭され、アナトはそれ以上言葉を続けることができない。
イルシアの言う通り、今は他に勘案すべき事柄が存在する。
逃走した悪魔は、襲撃から数時間経った今現在も見つかっていないのだ。しかし、それも当然。
「まさか、逃げるためにあんな奥の手を用意してたとはな」
思い出されるのは、去り際に悪魔の口から発された単語だ。奴が逃走のために使用したのは、紛れもなく、《リンカー》の能力。
「『共感転移』ね。ようやく、俺を襲った後、奴がどうやって逃げおおせたのか理解できた」
悪魔は、厳重な警戒体制が敷かれたキリルハイトから、気配すら掴ませずに逃走してのけた。それは十中八九、あの空間転移能力のおかげに違いない。ソルグやカイルの警戒範囲を抜け出るほどの距離を転移するとは、一体どれほど途方もない能力なのか。
そのアナトの考えを肯定するかのように、レイモンドが心当たりを口にする。
「何度かそういう《リンカー》の存在を耳に挟んだことはあったのに、迂闊だったよ。契約を結んだ相手のいる座標に、自らの身体を転移させる能力。そんな能力があれば、なるほど、無茶な突撃ができるわけだ」
契約を結んだ相手の場所に転移する。その距離にもし制限がないとすれば、悪魔はルシェナにいる仲間の下まで移動した可能性すらある。それを追跡しようとするのはあまりに無謀だ。
やはり、敵の尻尾を掴むには、兵団内の内通者を炙り出すしかない。
そう考え、アナトは左側に座るイルシアに顔を向ける。
「それで、イルシアが競技場のあの位置で観戦しているのを知っていたやつはどれくらいいたんだ?」
イルシアが襲われたのは、アナトと話した後、客席に移動して二十分も経っていない頃だ。流石にあの大観衆の中、ごく短時間で人目を避けていた彼女を特定するのは不可能だ。予めイルシアが配置されていた場所を、何らかの方法で割り出していたとしか思えない。
情報を統制し、容疑者を特定の範囲まで絞り込むこと。これが、兵団が武術大会を決行した真の狙いだったのだ。
そのアナトの問いかけに、イルシアは小さく首を縦に振る。
「狙い通り、ほとんどいなかったわ。ただ、私と、護衛のファランくん、レイモンドくん、アイリスの3人を除けば、大隊長クラス以上の兵員しか知らなかったはず。やっぱり、軍の上層部に敵の内通者がいるのよ」
内通者は、兵団内で、それなりの役職に就いている人物。
その絶望的な事実に、自然とアナトたちの表情は暗くなった。
本当に内通者が幹部級の人間ならば、思い切った尋問を行うことも難しい。その上、手がかりを追っている組織自体が、その人物に取り込まれてしまっている恐れすらあるのだ。
権力という壁に阻まれては、一般兵士に過ぎないアナトたちではどうすることもできない。
解決のための足がかりすら分からず、八方塞がりな状況にアナトは頭を押さえる。
「くそ、どうすればいい?このままじゃ、いつまでも敵に先手を取られ続けるぞ」
焦りが、自然とアナトの思考回路を曇らせていく。
どうすれば敵に先手を取れる?どうすれば相手の思惑を見通せる?どうすれば間者の正体を見抜ける?
どうすれば、どうすれば、どうすれば。
堂々巡りする思考。まるで底なし沼のように、もがけばもがくほど、深淵へと引き摺られていく。オーバーヒートする神経回路の発火が、焦燥感を際限なく駆り立ててーーーー
「どうするか、なんて決まっているんだよ、アナト」
氷のように冷え切った声が、アナトの加熱した思考を一瞬で冷却した。冷えた刃を突きつけられたかのような感覚に、アナトは咄嗟に視線を上向ける。
そのアナトの赤色の双眸が、対面に座るレイモンドの黄色の瞳に捕らえられる。かつて見たことがないほどに鋭いその視線に、思わずアナトは身を固くした。
そして直感する。自分以外の二人は、次に何が起こるかを悟っているのだと。
しばしの沈黙。そして、感情を抑えた声音で、イルシアが口を開く。
「間者が誰なのか、もう兵団はどうでもいいみたい。今回の件で決定的になったのは、間者が深く入り込んでいる以上、どれだけ警戒していても無駄だということ。そして、悪魔にアナトの《リンク》が切れなかったのは、偶然じゃなかったということ」
説明しながら、イルシアは指を一本ずつ立て、明らかになった二つの事実を指摘する。それはアナトも了解している事柄だが、それが兵団の思惑とどう結びつくというのか。
合点のいかないアナトに、レイモンドが軽く息をついてイルシアの言葉を補足する。
「悪魔は殺すつもりで君を刺した。それでもやっぱり《リンク》は切れなかった。理由は分からないが、君は世界でただ一人の、本物の不死者だ。これが意味することを、まさか知らないわけじゃないだろう?」
「それが一体何に…、まさか!」
イルシアとレイモンドの言葉、両者を合算して導き出された結論に、アナトは瞠目する。
なぜ今まで忘れていられたのだろうか。
自分は、一人で王国との戦争を終わらせかねない、公国のジョーカーだという事実を。
ようやく理解に辿り着いたアナトに、レイモンドは言葉を続ける。
「戦争を有利に進められる駒があると分かっていながら、みすみす敵に攻撃させるのは、これ以上ない愚行だ。それに、アナト自身は不死身でも、守護者であるイルシアが殺されてしまえばどうすることもできない」
「…イルシア、兵団は何をする気だ?」
絞り出すようなアナトの問いかけに、イルシアの表情はどことなく沈んでいて。
「明後日の夜、アナトの力を使って、悪魔の拠点に総攻撃を仕掛けるそうよ。特攻同然の攻撃が来るなんて、いくらルシェナでも即座に対応できるはずがない。前線が崩れれば、そこから先は一瞬」
「まあ、戦争さえ終われば、犯人探しは後からいくらでもできる。妥当な判断じゃないかな」
レイモンドの意見は正論だ。アナトの力が確定した以上、これを使わない手はない。『拡大共感』を使って不死身の兵士を増やすことができれば、一年近くに渡り続いてきた戦争は確実に収束に向かうはずだ。ひいては、十年以上前から続いていたルシェナからの抑圧、それの終焉を意味する。
だが、その考えには、決定的な観点が抜け落ちていることにアナトは気づく。
「でも、そんなことをすれば」
思わず反駁しそうになった口の動きを、アナトはありったけの意志の力で抑え込んだ。
その先の言葉を口にすることは憚られて。
その理想を語る資格は、アナトにはない。そうするだけの理由と、この世界への愛着が、自分には致命的に欠けていることをアナトは承知している。
しかしそれに続く言葉を、ゆっくりと椅子から腰を上げ、強い光を瞳に宿したイルシアが、はっきりと声に出した。
「確かに、戦争は終わるかもしれない。でも、そんなことをすれば、これまでとは比にならないくらい犠牲者が出る。それは戦場だけの問題じゃない。圧倒的な力でルシェナを降してしまえば、その先はきっと、十年前の悲劇の焼き直し。憎悪に曇った人たちが、また同じことをやり返して、憎しみの連鎖は止められない」
それは、幼稚な子どもが語るような理論だった。
戦争を始めてしまった時点で、人の血が流されることは避けられない。そして、報復は報復を生み、戦いは永遠に繰り返させる。それがこの世界の現実なのだから。
しかし、だからこそ、理想を語る彼女の姿は、途方もなく美しい。
それは、三年前の炎の夜に、アナトが憧憬を抱いた彼女の佇まいそのものだった。
「止めなきゃいけない。きっと、これ以上血を流さずに、戦争を終わらせる道はある。目先の利益に囚われて、これから先の平和を投げ捨てるなんてこと、あっていいはずがないもの」
そう言って口を閉じたイルシアに、レイモンドが咎めるような視線を向ける。
「言いたいことはわからなくもないけど、一体どうする気なのかな?君の言ったことを実現させるとしたら、それは兵団、ひいてはシュルツガルトへの背信だ。このままアナトと一緒に、他国へ高跳びでもするのかい?」
淡々と意見を述べるレイモンド。だが、彼の言葉は紛れもない正論だ。兵団が動き出そうとしているのは二日後。それまでに、総攻撃を思いとどまらせるだけの根拠を並べられるとは思えない。
その諦観を孕んだアナトの予想を、イルシアの発言が真っ向から打ち砕いた。
「私に、時間を作ってほしい。お父様を説得して、アナトの力は殲滅じゃなくて、交渉のための武器になるっていうことを分かってもらう。こんな時だけ王族だったことを利用するなんて、虫のいい話かもしれないけれど」
「っ、そうか、公王!最高君主の意見が変われば、兵団も即座に思い切った行動には移れない!」
そもそも、ルシェナの圧政に苦しんでいたとはいえ、戦争が再開されることを国民全員が望んでいたわけではない。それでも休戦など認めない、と強行に主張したのが、君主たる公王、ザルハルト・シュルツガルトその人だった。
戦争を推し進める筆頭人物の意見が変われば、僅かながら停戦への光明が見えてくる。この状況を変えられるとすれば、その希望に縋るより他にない。とはいえ、
「でも、本当にできるのか?たった数日で公王の意見を変えさせることが」
アナトは思わず、その計画の根幹に関わる部分への疑問を口にする。
公王が強硬に戦争の続行を主張したのは、六年前に公国で起きた事件が関係している。ルシェナによる圧政の只中、せめてもの情けで許されていた、年に一度の公国の建国記念式典。そのパレードの最中、王妃が乗る馬車に晶石が投げ込まれ、爆発とともに彼女の命を奪った。下手人もその騒動の中で命を絶ったため、真相は闇の中に埋もれている。しかし、それがルシェナの差金だったのは、様々な背景事実からほとんど疑いようのないことだった。
王妃といえば、イルシアの母親その人でもある。彼女こそ、強く王国を憎んでいてもおかしくないのだ。なぜ、それでも頑なにイルシアが王国との和平を望むのか、アナトも完全に理解しているわけではない。ただ、確かなのは、彼女が生半な覚悟で理想を語る人間ではないということだ。
その予想を裏切ることなく、イルシアは真っ直ぐな視線をアナトに向ける。それは、燃え上がるような自信に満ちた表情で。
「お父様は、憎しみで判断が歪んでしまっているだけ。直接話すことができれば、絶対に意見を変えさせてみせる。そのための時間を、私にちょうだい」
イルシアは、断言する。時間さえあれば、その荒唐無稽な理想を、現実のものとしてみせる、と。
だが、それに対して、レイモンドはどこまでも冷静な態度を動かそうとはしない。
「希望を口にするだけなら簡単だよ。でも、そんなことをどうやって実現させる?動き出した計画は、連隊長の意見程度じゃ止められない」
「間者を、兵団に紛れ込んだ内通者を見つけてほしいの。それが明らかになれば、きっと多少なりとも兵団に混乱を起こせる。総攻撃に移るタイミングを、数日くらいは遅らせられるはず」
「分かっているのかい?二日間で、上層部も特定できなかった敵の間者を見つけ出す。それがどれだけ無謀な挑戦なのか」
「でも、やらなきゃいけないんだよ。このままじゃ、取り返しのつかない悲劇が起こる。そんなの絶対にだめ」
そう言ってイルシアは目を伏せる。レイモンドの言う通り、それがどれだけ不可能に近い行為なのか、彼女も痛いほど理解しているのだろう。
だが、もし仮にそれが成されずとも、彼女は二日で公王の意見を変えさせるべく、無茶な奔走をするに決まっている。イルシア・シュルツガルトとは、そういう少女なのだ。
協力しなければ、彼女は黙って一人で傷つく。イルシアは気づいていないだろう。それがどれだけ脅迫じみた願いなのかということに。
やれやれ、と嘆息し、アナトは立ち上がって、彼女の頭に軽く手をのせる。普段は凛々しく、大きく見える彼女が、今は実際の身長差と同様、ほんの少しだけ小さく見えた。
「分かったよ。最悪できなければ、総攻撃当日に、ガキみたいにひっくり返って駄々こねてやる。俺が協力しなければ、総攻撃もできやしないし、だろ?」
そう口にして、アナトは悪戯小僧のような笑みを浮かべる。とはいえ情けない話だが、実際に兵団の前に立たされれば、頑なに協力を拒み続けることなど、まず出来そうもない。ただ、これで少しでもイルシアの心が軽くなるなら儲けものだ。そしてそれは同時に、自分自身への叱咤激励でもある。
「そんな恥をかくのは御免だからな。二日後までに、敵の尻尾を掴んでやるよ…、死んでも、な」
最後の五文字に乗せたのは、アナトの掛け値なしの本気だ。例え死ぬような目に、それこそ不死身でなければ命を落とすような目に遭ったとしても、絶対に成し遂げてみせる。それが、どうしようもなく気苦労を背負い込んでしまう守護者を持った、パートナーとしてのせめてもの責任だ。
決意の籠った表情で、アナトはレイモンドに視線を向ける。レイモンドの顔からは普段の微笑が消え去り、今はほとんど感情が読み取れない。だが、一瞬のち、その唇が薄く開かれた。
「悪いけど、僕はその話には協力できない。正直、こう言ってしまうのは申し訳ないけれど、ほとんど現実味のない挑戦だと思うからね。……ただ、何か頼みがあればまた聞いてくれ。少しくらいなら、手助けできるかもしれない」
それが彼なりの最大限の譲歩なのだと、アナトは理解する。
「ああ、分かったよ」
そのせめてもの気遣いに短く答えて、アナトはレイモンドに目礼を返した。
話は、纏まった。
それを理解したのだろう、イルシアはアナトとレイモンドの方へ体を向ける。
「そうと決まれば、一秒だって無駄にできない。私は、なんとかお父様に御目通りを許してもらえないか、頑張ってみる」
それじゃ、と二人に手を振って、イルシアは背を向けて部屋を後にしていく。
正直言って、悪魔がどう動くか分からない今の状況で、彼女を一人にすることはあまりしたくない。だが、彼女が対応し切れないほどの相手を、ファランやレイモンドが相手できるはずがないのも事実だ。仮に何かあった時は『特殊共感で伝えるようには言ってあるし、無事を祈るしかないだろう。
イルシアが扉を閉じて出て行ったのを確認し、アナトは改めて椅子に腰を下ろす。これで、レイモンドとテーブルを挟んで真向かいになる形だ。真正面に座るレイモンドと、否応なく視線がぶつかる。
アナトが腰を落ち着けたのを見届けて、レイモンドが話の口火を切る。
「アナト、さっきの話だが、君は本気でやるつもりなのかい」
「本気だよ。まあ、正真正銘の阿呆なのかもしれないな、あいつも、俺も」
自分たちがどうしようもない愚か者なのは言われるまでもない。公王や兵団の方針に真っ向から逆らうなど、反逆者として捕らえられてもおかしくないほどの振る舞いだ。しかも、イルシアはともかくとして、アナトの動機はバカバカしすぎて話にもならない。
その希望に手を伸ばそうとする少女のために、自ら身を投げ捨てようというのだから。
あまりにも救えない自分に苦笑する他ないが、こればかりは本当にどうしようもない。
その決意を揺るがすことなく、アナトは脳内のリソースを、取るべき行動指針の決定へと割り当てる。
だが、だからといって突然妙案が浮かんでくるはずもなく、アナトは右腕でテーブルに肘をつき、額に手を当てた。
「しかし、手がかりすらないっていうのは、頭が痛い問題だな。何から探ればいいのか、正直見当もつかない」
「いや、そうとも限らないよ。さっきはあえて言わなかったが、真っ先に疑うべき人間がいるじゃないか」
「そんなやつ…」
「ファランだよ。気づいていないのかい?」
レイモンドの指摘に、アナトは虚を突かれる。今まで頭を過ぎることもなかった可能性に、僅かな衝撃が脳髄を貫いた。目を見開いて固まったアナトに、レイモンドはそう考えるに至った根拠を述べていく。
「エリンとセレーナの護衛についているアイリスはともかく、重要な関係者であるファランがここに呼ばれなかったことを、おかしいとは思わなかったかい?兵団は、彼を重要参考人として見定めているんだよ。今頃は、別室で詰問されているんじゃないかな」
そう、確かに、アナトの護衛を勤めているはずのファランが、事件から数時間経った今も姿を現さないことに疑問をさし挟んでいるべきだったのだ。傷の手当で合流が遅れたアナトはともかく、イルシアとレイモンドはその事実を知らされていたのだろう。レイモンドはさらに言葉を続けて、
「襲撃が起きた時、二度に渡って、ファランは偶然にも席を外していたんだ。それに、最初にアナトが襲われた時、大隊長に呼び出された、と言っていたのが気に掛かる。大隊長が内通者でない限り、ファランの証言はあまりにも不自然だ。だが、彼が嘘を吐いているのであれば、辻褄が合う」
それは、最初の襲撃の時に感じた違和感への解答だ。言われてみれば、確かにあの時のファランの行動は唐突に過ぎた気がする。大隊長自身もその指令を出した記憶がなく、その指令を誰から受けたかもファランが覚えていない、というのはあまりにも不可解だ。だが、それがファランの虚言であったとしたら、簡単に説明がつく。
「それに、僕たちは入団時に書かれた兵士の履歴書を調査していたんだ。ファランのものは、真っ白だったよ。アイツには、この兵団に来る前の経歴が、一切存在しないんだ」
レイモンドの指摘は恐ろしく正確だ。
ファランが入隊した時は戦時下ではなかったものの、ルシェナの圧政により、敵と相争おうという気概を持つ人材が極めて少ない時期だった。それゆえ、あまり過去の経歴を詮索されずに、兵団に入ることができたと当人から聞いたことがある。実際、ファランは兵団に入る前のことをあまり語りたがろうとはしなかった。
怪しさならトップクラス。上層部に入り込むことの困難さを思えば、戦兵とはいえ一般兵士であるファランが内通者である可能性は、極めて高いといえる。
だが、その可能性を、アナトは真っ向から否定した。
「確かに、アイツなら『全共感』の力を使えば、上層部の会議に侵入して、機密情報を盗むこともできる。俺やイルシアの動向も探るまでもなくわかるし、兵団に入団する前、どこで何をしていたかすらわからない。間者である可能性は、確かに一番高いのかもしれないな」
「だったら」
言い募るレイモンドに、アナトはただ黙って首を振る。
「それでも、ファランじゃない。アイツはそんな器用な真似ができる男じゃないよ」
そのあまりにも意固地な発言に、レイモンドは理解できない、とも言いたげな素振りを見せる。それは当然の反応だ。別にアナトも、ファランを容疑者から除外するに足る、決定的な証拠を持ち合わせているわけではない。だが、どれだけ懸念材料を並べ立てられようとも、アナトだけはファランを最後まで信じるのだ。
レイモンドはしばし瞑目して、最後にもう一度、アナトの意思を確認するかのように、
「どうして、君はそこまであの男を信じられるんだ?」
「信じてる、とは違うな。ただ、あいつが見かけより馬鹿なのを知ってるだけだよ」




