第10話 シュルツガルトの血脈
軽い喉の渇きを覚えて、アナトは腰に吊り下げた皮袋を取り出し、口を縛っていた紐を緩めて中身を口内へと流し込んだ。食料や水分補給はそう必要としない体質ではあるのだが、流石にこう長時間太陽の下を歩き詰めとなるとそうも言っていられない。
アナトが現在腰を落ち着けているのは、古びた民家の軒先だ。屋根がちょうどいい具合に直射日光を遮ってくれるので、時折吹く風が気持ちいい。周囲も、古びてはいるが穏やかな田園風景が広がっていて、ここ数日兵団から質問攻めにされて疲弊していた心を癒してくれるようだった。
一応アナトも訓練兵として日々地獄の鍛錬に身をおいてはいるので多少の環境には順応できるのだが、なにぶん数日部屋から出ることを禁じられていた身としては、久々の日差しに多少が疲れが出たとしても文句を言われはしないだろう。
あれから四日。アナトは、イルシアとファランとともに、故郷である今は亡きジュスクという地に向かって今朝キリルハイトを後にしていた。
訓練兵舎を出立してから数時間経ち、目的地ももう目の前、というところで足を止めたくはなかったのだが、同行者たちがあの様子では致し方あるまい。
「まぁ、しばらく見ないうちに一段とお綺麗になられて。イルシア様が健やかにお過ごしなされているようで安心ですわ」
「イルシア様、兵団での暮らしは大変でねーですか。おらたちはいつでも戻ってきていただいてかまわねんですから」
「ねーねーイルシア様、この一緒にいるお兄ちゃんだれー?」
「うぉぉ、顔引っ張んなガキども!」
こじんまりとした村の中央に突如できた人だかり。その中心にいるのは、キリルハイト兵団連隊長でありアナトの守護者である少女、イルシアの姿だ。
老若男女さまざまな村民から口々に話しかけられても、戸惑うことなく穏やかに応対している姿は、素の少々テンパりやすい彼女を知っている身からすると、やはり少し意外ではある。
ちなみに、最後に聞こえてきた声の主はアナトの友人兼護衛のファランだ。子どもは侮っていい相手が直感的にわかるというが、村の少年たちは彼をおもちゃにしていい対象だと判断したようだ。ついでにどさくさに紛れて、マロンも鼻頭を甘噛みしているのはご愛嬌といったところだろう。
護衛とはいったものの、その護衛対象をみすみす死ぬような目に合わせてしまったのだから、下手をすれば除隊の命令が下る可能性もあった。幸いアナトに大事がなかったこともあり(いや結構大事ではあったが)、数日の謹慎処分止まりになっていたのだが、こうしてこっそりとアイリスから二日ほど護衛の任務を交代してもらっているのがバレたら、今度こそ『鉤爪』から弾き出されてもおかしくはない。
そんなリスクを負ってもアナトの頼みを聞いてくれたのだから、やはりなんだかんだで頼りになる友達ではあるのだった。
そんなことを考えながら軒先でぼんやりとしているアナトの耳朶を、口やかましい鳥の囀りが震わせる。足元では、近くの山から降りてきたのであろう野うさぎが、何匹かで草を食んでいた。
「平和だな...」
五日前の兵団の空気とはがらりと変わった穏やかな空気に、アナトは思わずそうひとりごちる。国が戦争をしていて、兵団では大変な事件が起きているというのに、ただ日々を生きる人びとはこんなにも素朴だ。
なんのために戦っているのだろうか。この光景を見ると、改めてそう考えてしまう。大義を理解して剣を手に取っているものなんて、兵の中にもそう多くはないはずだろうに。
そんな思索に沈んでいたアナトの意識を、
「あーもう我慢できねぇ!」
という一際大きな叫びが現実へと引き戻した。
視線を向けると、先ほどまで大勢の子どもたちに囲まれていたはずのファランの姿が、突如消え失せている。遊び相手を見失った子どもたちが、不思議そうな顔をしてあたりをしきりに見回していた。
「ふう、いやひでえ目にあった。あのガキども、こっちが手ぇださねのをいいことに散々まとわりついてきやがって」
直後頭上から降ってきた声に、アナトは頭をあげて視線を向ける。
「にしてもファラン、《ティグリス》まで使って抜け出すのはちょっとやりすぎじゃないか?あの子たち驚いてるぞ」
「うるせえ、能ある鷹が爪を隠すのは、いざってときに奇襲するためなんだよ。そしてこれはオレのメーターが振り切れかねんギリギリの緊急事態だった」
「仮に振り切れても子どもに手は出すなよ、危ない奴だな」
言外にキレたら何をするかわからない、みたいなことをアピールしてくるファランだが、人格はともかく常識は持ち合わせているのでおそらく心配はないだろう。
ともあれ、ファランが《ティグリス》を披露するのは、理由はどうあれ本気になった時だけだ。《ティグリス》はシュルツガルトの西方に伝わる格闘術らしく、その中には相手の視線を正確に読み取って、恰も目の前から消えたように錯覚させるという技術もある。会話が嫌いな奴ではないだけに、そこまでするとはどれだけ子どもが苦手なのだろうか。
幸い、子どもたちはファランの姿を追うことに興味が薄れたようで、イルシアを囲む人垣の中に混ざっていった。
その様子を見て大丈夫だと判断したのか、ファランは先ほどまでいた屋根の上から飛び降りてきて、アナトの横に腰を落ち着ける。
「オレちょっとガキたちの相手するのでも大変だったってーのに、イルシアはすげーな。オレなら数分で限界がくるね」
「まぁ久しぶりに帰ってきたんだし、お互い積もる話もあるんだろ。出発までもうしばらく時間とられそうだが仕方ないな」
「そういうお前はどうなんだよ。一応お前にとっても久しぶりの村なんじゃねーの」
「俺は追っ手に見つからないように隠れて過ごしてたからな...。村人とはほとんど面識ないよ」
あー、と納得したようにファランは頷く。アナトの過去について多少彼には話したことがあるので、この短い説明でも伝わったようだ。
三年前の襲撃で、アナト自身も命を落とすのは時間の問題、というほどの傷を負わされていた。命が助かったのは、その日出会ったイルシアが、《リンク》の契約をアナトと結び、アナトを不死者にしてくれたからだ。
それにとどまらず、彼女は、傷ついたアナトをこの村の隅の小さな自分の家に匿い、実に二年に渡って居場所を与えてくれたのだった。
しかも、その少女がただの村娘ではなかった、というのが、アナトにとって二重の幸運だったかもしれない。 それは、イルシアが村人たちから尊称で呼ばれていることからも明らかだ。
「シュルツガルト公国元第一公女、イルシア・シュルツガルト、か。最初聞いた時には随分と驚かされた」
「天下の公女サマがこんな辺鄙な村で生活してるとか予想だにしねぇもんな。いや、それ知らなかったお前の方にオレはビックリしたけどね」
ジュスクの山奥で隠遁生活同然の暮らしをしていたアナトは知らなかったのだが、聡明で情が深く、時代の公王と目されていた第一公女が、一切の王位継承権や特権を捨てて野に下ったというのはシュルツガルトでは有名な話だ。後ろ盾を失って王位継承権を争うことが難しくなったからだとか、父親である公王との間で何か諍いがあったからだとかいった噂がまことしやかに囁かれているが、実際の理由は明らかになっていない。
とはいえ、元々国民からの信望が厚かったことと、未だに公王への口利きを期待する輩も多いため、連隊長に祭り上げられるなど大変そうなこともあるのだが。
「詳しい事情は俺も聞いたことがないからな」
「マジかよ。お前ほんと野次馬根性ないのな」
驚いた顔をするファランだが、アナトとしても自分の過去を洗いざらい話したわけではないので、一方的に尋ねるのも不誠実だろうと思って、突っ込んだ話を聞いたことはない。
お互い話したい時がくれば話せばいいだろう、というスタンスであり、その気遣いがアナトにはありがたかった。
三年経って、期せずしてではあるが、こうして故郷に足を運んでいるのも何かの縁かもしれない。この機会に、イルシアに昔のことを話してみるのもいいかもしれない、とアナトは思った。
「しかし、この調子だとあと数時間は離してもらえなさそうだな。あまり時間をかけると、兵団に抜け出してきていることがばれそうだし、長居はしたくないんだが」
そう言ったアナトに、目を光らせてファランが応じる。
「お、やっぱそう思う⁉︎いやー、オレはもうちょっとならいいかなって思ってたんだけど、お前がそういうんなら仕方がない」
言質を取った、とでもいうかのように勢いづくファランだが、自分の足元から抜き取った靴紐であやとりを始めようとしていたあたり、この状況に早くも飽きを感じていたのは明らかだ。
そんなバレバレの本音を隠そうともせず、ファランはすくっと立ち上がったかと思うと、懐に手を入れてふわふわの毛玉、否、マロンを引っ張り出して右肩に乗せる。
いきなり外気に当てられたマロンだが、ぶるりと一度体を震わせると、大人しくファランの肩に腰を落ち着けたようだった。
そのまま、ファランはにやりと笑い、勢いよく両手を叩きつけるように合わせた。
これは、ファランの能力の発動態勢___、全共感を使う気だ。
表情をみれば何を企んでいるのか想像はつくが、後々のことを考えると無謀な行いだ。言っても聞かないだろうが、友人として一応の忠告はしてやるべきだろうか。
「ファラン、何をする気だ」
アナトの諦観の籠った力ない問いかけに、ファランはにやっと邪悪な笑みを浮かべて、こう言い放った。
「齧歯類の恐ろしさ、しかと見せてやるぜ」




