第9話 ハヤオの嫁がこんな綺麗なわけないでしょ
――森は、静かすぎた。
葉擦れの音。
どこかで鳴く鳥。
そして――
「おいおい……なんだよこの森……」
黒スーツの男が、露骨に顔をしかめる。
手でぶんぶんと空を払う。
「虫多すぎだろ……無理なんだよ俺、そういうの」
革靴を見下ろす。
「ほら見ろ!!泥だらけじゃねえか!!」
「これな、高かったんだぞ!!」
「イタリア製だぞ!!最高級だぞ!!」
後ろを歩く虎の女が、首をかしげる。
「なんだよ兄貴、その“イタなんとか”って」
「イタリアだよ」
即答。
「ピザが美味え国だ」
「ピザってなんだ?」
「……そこからかよ」
虎徹は大きくため息をつく。
「小麦粉を練ってな」
「パンみたいに発酵させて、その上にトマトソースかけてチーズ乗せて焼くんだよ」
「美味いぞ」
沈黙。
アントニオは、真顔で言った。
「ごめん」
「何言ってるか全然わかんねえ」
「発酵ってなんだよ」
「発酵ってのはな」
虎徹は一瞬だけ真面目な顔になる。
「酵母とか細菌の酵素によって、糖類のような有機化合物が起こす化学反応だ」
沈黙。
風が吹く。
葉が揺れる。
アントニオが腕を組む。
「……今の、暗号か?」
「違うわ」
「もういい、忘れろ」
「うん」
素直に頷く。
そして、少し考えてから言う。
「俺はてっきり、目に見えない小さいやつがな」
「食べ物を小さくして、それで美味くなるのかと思った」
「……」
虎徹が、ゆっくり振り返る。
「お前、たまにすげえな」
「だろ?」
ドヤ顔。
その瞬間。
ぴたり、と足が止まる。
空気が変わる。
「……結界だな」
虎徹がぼそりと呟く。
「さっきから同じとこ歩いてる」
一拍。
「しかもこれ、侵入者を帰さねえタイプだ」
アントニオが周囲を見回す。
「マジかよ」
「全然気づかなかった」
「だろうな」
虎徹はため息をつく。
そして、二本の指を前に突き出す。
空間が――歪む。
ぐにゃり、と。
空気が裂ける。
そこに現れるのは――
巨大な扉。
黒い。
異様な装飾。
二本の刀がクロスし、その中央に――
“目”。
ぎょろりと動く。
生きている。
アントニオが口笛を吹く。
「うわ、趣味悪ぃな」
「同感だ」
虎徹がドアノブに手をかける。
「行くぞ」
「おう」
扉が開く。
闇。
ただの闇。
二人は、迷いなく踏み込む。
――消えた。
扉が閉まる。
そして。
何もなかったかのように、森に静寂が戻る。
――その少し前。
モルテリアの家。
夕食時。
「……」
「……」
気まずい沈黙。
ハヤオとノリヒトが、無言で向かい合っている。
スプーンの音だけが響く。
空気が重い。
そのとき。
――バンッ!!
ドアが勢いよく開いた。
「こんばんわ!!タダ飯食べに来たわよ!!」
空気、崩壊。
白い法衣。
青い髪。
やたらと整った顔立ち。
なのに――全部台無しにする笑顔。
「よっ、ノエル」
ひらひらと手を振る。
「元気にしてた?」
「うん……」
ノエルが小さく頷く。
そして。
クラウディアの視線が――
ハヤオに止まる。
にやり。
「久しぶり〜元気してた?」
「まあな」
「ふーん」
目を細める。
「若い嫁さんもらったんだって?」
くっ、くっ、と笑う。
そして。
ゆっくりと――
セリスを見る。
上から下まで。
舐めるように。
「……鬼人、ね」
セリスが静かに頭を下げる。
「主人がお世話になっております。セリス・ナリカワです」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
「……え?」
クラウディアの顔が、固まる。
「えーーーーーーーーー!!??」
絶叫。
「ちょっと待って!!」
「なにそれ!!」
「ハヤオの嫁って……こんなまともな挨拶できるの!?」
「失礼だろ」
ハヤオが即ツッコミ。
クラウディアは聞いていない。
セリスの肩を掴む。
「あなた……もしかして……」
震える声。
「弱み握られてる?」
「……は?」
「無理やりでしょ!?」
涙目。
「もう大丈夫よ!!」
ぐいっと引き寄せる。
「保護してあげるから!!」
「おい」
「黙りなさい!!」
ビシッと指差す。
「最低よあんた!!」
「昔から非常識で、お金に汚くて、人を平気で出し抜くやつだったけど!!」
「ここまで堕ちるとは思わなかった!!」
「クズだわ!!」
「言い過ぎだろ」
「いいのよ!!」
セリスを庇うように背に隠す。
「こんな綺麗な子に何したのよ!!」
「あー、始まったな」とハヤオ
「いや、その……」
セリスが困惑する。
「違うんです……私の方から……」
「言わされてるのね!!」
即断。
「違います!!」
「いいのよ、もう無理しなくて!!」
「こういう男、私何人も見てきたから!!」
混乱するセリス。
ハヤオが頭を抱える。
「お前な……」
「だって状況が状況でしょ!?」
「鬼人の女が!!」
「こんな礼儀正しく!!」
「ハヤオの嫁って言うのよ!?」
「そりゃ疑うわよ!!」
「偏見がひどい」
そのとき。
セリスが、はっきりと言った。
「無理やりではありません」
「私の方から」
一拍。
「嫁にしてほしいと、お願いしました」
沈黙。
完全停止。
クラウディアの思考が――止まる。
「……え?」
ゆっくり。
顔が歪む。
「ええええええええええええええええええええええ!!??」
再び絶叫。
その声は――
森の奥。
結界の向こう。
闇の中へと、かすかに響いた。
そして――
「……聞こえたな」
闇の中で、誰かが笑った




