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第5話 夫婦の寝室と優しい温度

 ――夜。


 湯上がりの熱が、まだ肌に残っている。


 薄く白い湯気のような余韻とともに。


 セリスは――


 静かに、ハヤオの部屋へと足を踏み入れた。


「……」


 灯りは、柔らかい。


 質素な部屋。


 だが、不思議と落ち着く。


 ここが――


「主殿の、寝所……」


 胸が、どくんと鳴る。


 一歩。


 また一歩。


 ベッドへと近づく。


 そして――


 決意したように、衣服に手をかけた。


 するり。


 するりと脱ぎ。


 そのまま、ベッドの外へ落とす。


 白い肌。


 引き締まった肢体。


 だがその顔は――


 真っ赤だった。


「……っ」


 唇を噛みしめる。


 震える手。


 それでも。


 逃げない。


 逃げてはいけない。


「……いざ」


 声が、震える。


 それでも、言い切る。


「いざ――勝負だ!!」



「勝負ってなんだよ……」


 頭を掻きながら、ハヤオはぼそりと呟いた。


 視線の先。


 ベッドの上。


 決死の覚悟の女。


(……あー、これ……)


(完全に無理してるやつだな)


 ため息をひとつ。


 ゆっくりと近づく。


「セリス」


 静かに声をかける。


「俺たち、まだ知り合って半日だぞ」


「そんな無理しなくても――」


 その言葉。


 火が、ついた。


「無理ではない!!」


 セリスが顔を上げる。


 真っ赤なまま。


 だがその目は、真剣そのもの。


「いいか!!」


 拳を握る。


「私はもう、お前の妻だ!!」


「世継ぎを作るのは――義務だ!!」


 言い切る。


 逃げ場を自分で塞ぐように。


 沈黙。


 ハヤオは、ゆっくりとベッドの脇に腰を下ろした。


 そして。


 大きく息を吐く。


「……義務じゃない」


 ぽつりと。


 首を横に振る。


「子供を作らない夫婦だっている」


「それぞれだ」


 静かな声。


 否定でも、説教でもない。


 ただの事実。


「無理はしてほしくない」


 セリスの肩が、ぴくりと揺れる。


「そんな状態で生まれてくる子供が……可哀想だろ」


 優しい。


 どこまでも。


「子供ってのはさ」


 少しだけ空を見上げる。


 遠い目。


「義務じゃない」


 一拍。


「……希望の光なんだ」


 言葉が、落ちる。


「だから」


 セリスへと視線を戻す。


「自分で世界を狭めるような生き方は、してほしくない」


「セリスにも」


「……子供にも」


 その言葉は。


 まっすぐで。


 優しすぎて。


 痛いほどだった。



「……お互い」


 ハヤオが続ける。


「そういう人生だったろ」


 セリスは、少しだけ目を伏せた。


「……ああ」


 小さく頷く。


「だが……後悔はしていない」


「お前は、そうなんだろうな」


 ハヤオは苦笑した。


「俺は……後悔だらけだ」


 軽く言う。


 だが、その奥にあるものは――重い。


 沈黙。


 しばらくして。


「……まあ」


 ハヤオは立ち上がる。


「今日は、別に寝よう」


「セリスにも……気持ちの整理がいると思う」


 そう言って。


 そっと手を伸ばし――


 セリスの額に、軽く口づけた。


 一瞬。


 触れるだけの。


 優しい温度。


「……おやすみ」


 そのまま、部屋を出る。


 扉が、静かに閉まる。


「……っ」


 セリスは、歯を食いしばる。


 悔しさか。


 恥ずかしさか。


 それとも――


「……」


 そのすべてか。



 ――そのとき。


 扉の向こうから、声がした。


「そうそう」


 軽い調子。


「俺だって普通に欲はあるぞ」


 セリスの肩が跳ねる。


「お前は綺麗だ」


 一拍。


「抱きたいと思う」


 心臓が、跳ねる。


「でもな」


 少しだけ、間を置いて。


「今日はやめとく」


 静かに。


「義務じゃなくなったら――教えてくれ」


 足音が、遠ざかる。


 完全な静寂。


「……」


 セリスは、動けなかった。


(義務じゃない……)


 胸に、言葉が残る。


(私は……)


 唇が震える。


(お前の……)


 言えなかった言葉。


(優しいところが……)


(懐の深さが……)


(好きなんだ……)


 拳を握る。


「……くそっ」


 ぽつりと漏れる。


「なぜ……言えなかった……」


 戦場では、どれだけの修羅場を越えてきた。


 だが。


 たった一言が。


 言えない。


「……主殿」


 その名を、小さく呼ぶ。


 返事は、ない。


 ただ。


 胸の奥が、じんわりと熱かった。



 翌朝


「朝餉だ」


 きっぱりとした声。


 テーブルの上には。


 湯気の立つ、味噌汁。


 白いご飯。


 簡素だが、整った食卓。


「おお……!」


 ハヤオの目が、少し見開かれる。


「これは……」


 箸を取り、一口。


「……美味い」


 素直な感想。


「俺の国でも、よく食べてた」


 セリスの顔が、わずかに明るくなる。


「私の故郷の味だ」


「口に合うか不安だったが……」


「全然いける」


 ハヤオは笑う。


「主殿は、転移者と聞いたが……」


 セリスが少し身を乗り出す。


「もしかして……ヒモノトか?」


「だね」


 即答。


「なんでわかる?」


「鬼人の国に、転移門の伝承がある」


「異界の者が来る、と」


「だから鬼の話があるのか……」


「たぶんな」


 穏やかな空気。


 昨日の緊張が嘘のように。


 だが。


「……昨日のことだが」


 セリスが、ぽつりと切り出す。


 頬が、ほんのり赤い。


「義務だけでは……ない」


 視線が泳ぐ。


(私は)


(お前の)


(優しさが)


(……好きなんだ)


 喉まで出かかる。


 だが――


 言えない。


 沈黙。


「……うん」


 ハヤオは、優しく微笑む。


 それだけで。


 すべてを察したように。


「いいから食え」


 照れ隠しのように言う。


「冷めるぞ」


「……ああ」


 セリスは、少しだけ俯きながら頷いた。


 その顔は。


 昨日より、少しだけ――


 柔らかかった。



 こうして。


 戦場では最強の鬼人は。


 恋では、ただの不器用な女になるのだった。


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