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第35話 逃げ込んだ先にはー肉切り包丁のミノタウルスが!?

「こっちだ!!」


 ハヤオの声が、夜の路地に鋭く走る。


 石畳は濡れ、空気は重い。


 遠くで怒号が響く――追手は、まだ諦めていない。


「……っ」


 虎徹の腕を肩に回し、アンジェリーナが歯を食いしばる。


 その反対側で支えるセリスの手に――


 生々しい血の温もりが伝わる。


(まだ……生きてる……)


 その事実だけが、かろうじて心を繋ぎ止めていた。



 だが――


 その前に、“それ”は現れた。


 道を塞ぐ影。


 いや、壁だ。


 巨大な体躯。


 ねじ曲がった二本の角。


 暗闇の中で、ぎらりと光る双眸。


 ――牛の顔。


 ミノタウルス。


 その手には、常識外れの大きさの肉切り包丁。


 そして。


 血とは無縁のはずの――白衣。


「待っていたぞ」


 低い声。


 だが、その一言だけで空気が張り詰める。


 アンジェリーナの表情が歪む。


「……くそっ、こんなときに……!」


 セリスも一歩前に出る。


 自然と、刀へ手がかかる。


(ここで……戦うしか――)


「ふんっ」


 ハヤオが鼻で笑った。


 そのまま一歩前へ出る。


「遅えよ、“先生”」


 ――空気が、変わる。


 一瞬の静寂のあと。


 ミノタウルスは、わずかに肩を落とした。


「……搬送が雑だな」


 包丁を――下ろす。


「入れ」


 それだけ言って、背を向ける。


 セリスの思考が止まる。


(……は?)


 敵では、ない?


 いや、それどころか――


(“先生”?)


 理解が追いつかないまま、三人は建物の中へと踏み込んだ。



 ■数分後


 白い天井。


 清潔な空気。


 血と死の気配から切り離された、別世界。


 ベッドの上で、虎徹は眠っている。


 全身に巻かれた包帯。だが、呼吸は安定していた。


 ドカッ――


 巨体が椅子に沈む。


 白衣のミノタウルス。


 スキエンティア・ミノクス。


「終わった」


 淡々とした声。


「応急処置だ。命は繋いだが、完治ではない」


 指先で虎徹の脈を確認する仕草は――驚くほど繊細だった。


「然るべき施設で、治療を継続すべきだな」


「……“先生”、助かった」


 ハヤオが短く礼を言う。


 スキエンティアは小さく息を吐いた。


「礼はいらない」


「私は役割を果たしただけだ」


 その声音に、誇張はない。


 ただの事実。



「で」


 ゆっくりと視線が向く。


 セリスとアンジェリーナへ。


「そちらのお嬢さん方は?」


 セリスは一瞬だけ、言葉を失った。


 その圧。


 その存在感。


 だが――


(……違う……)


 “殺気”がない。


 あるのは、観察。


 分析。


「失礼した」


 スキエンティアは胸に手を当てる。


「私の名はスキエンティア・ミノクス」


「医師だ」


 その所作は、あまりにも洗練されていた。


 巨大な角も、筋肉も、関係ない。


 ただ、“理性”がそこにあった。


「こっちは俺の嫁のセリスで――」


「……アンジェリーナだ」


 軽く頭を下げる二人。


 スキエンティアは穏やかに頷く。


「そうか」


「結婚したのか」


「それは――めでたいな」


 その言葉は、驚くほど自然だった。


 セリスの胸が、わずかに揺れる。


(……この人……)


 見た目と、言葉と、思考が――一致しない。


 理解できない。


 だが。


「……ありがとう、ございます」


 気づけば、口にしていた。


 スキエンティアは一瞬だけ目を細める。


「礼儀もある。いいことだ」


 評価。


 それだけのはずなのに――


 なぜか、胸がざわつく。



「さて」


 スキエンティアが椅子に深く座り直す。


「時間も遅い」


「君たちも休め」


 淡々と告げる。


「別室にベッドを用意してある」


 アンジェリーナが眉をひそめる。


「……信用していいのか?」


 当然の疑問。


 スキエンティアは即答した。


「いい」


 一切の迷いがない。


「ここには、連中は来ない」


「なぜなら――」


 一拍。


 その言葉は、重かった。


「ここは“中立地帯”だからだ」


 セリスの瞳が揺れる。


「……中立……?」


「そうだ」


 スキエンティアは静かに続ける。


「ここはクリニックであり、ホテルでもある」


「暗黒街の者たちが利用する“均衡の場”だ」


 言葉が、理屈として積み上がっていく。


「ここで戦闘はできない」


「正確には――“してはならない”ではない」


「“できない”のだ」


 セリスの呼吸が、わずかに乱れる。


(……どういうこと……?)


「もし破れば」


 その声は、静かだった。


 だが。


「裏稼業に生きるすべてを敵に回す」


 ――理解した。


 この場所は、“力”で守られているのではない。


 “合意”で守られている。


 だからこそ、崩せない。


(……そんな……世界が……)


 セリスの中の常識が、軋む。


 力がすべてだった。


 斬るか、斬られるか。


 それだけだったはずなのに――


「ようこそ」


 スキエンティアが手を広げる。


「ホテル・スキエンティアへ」


 その一言で。


 セリスの中の“戦いの基準”が、わずかに崩れた。


(……この人は……未来を見てる……)


 暴力ではない。


 恐怖でもない。


 “構造”で世界を制御している。


 その理解が――


 セリスの心を、静かに揺らしていた。



 その夜。


 久しぶりに――


 剣を抜かずに眠れる場所で。


 セリスは、長く目を閉じることができなかった。


 頭の中に残るのは、あの言葉。


 “中立”


 “均衡”


 そして――


 理解してしまったという事実。


(……私は……何を選ぶの……?)


 答えはまだない。


 だが確実に――


 彼女は、変わり始めていた。



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