「凱旋の果て、国境に槍の雨」
【霧島藩・国境(関所)——昼】
江戸での大勝利から一ヶ月。
孝四郎を乗せた質素な駕籠と、千両箱を積んだ荷車が、ようやく霧島藩の領地へと差し掛かっていた。
「いやぁ、空気が美味い! 江戸の煤煙にまみれた肺が、霧島の山風を求めておりましたぞ!」
惣兵衛が、馬の背の上で上機嫌に胸を張る。江戸での心労から解放され、彼の胃袋は今、かつてないほどの健康を取り戻していた。
「……そうですね。お茶の葉も、霧島の水で淹れた方が、きっと美味しい」
お鶴が、荷車の横を歩きながら、はにかむように笑った。江戸を追われ、霧島に骨を埋める覚悟を決めた彼女の横顔には、もう迷いはなかった。
だが、一行を護衛する鷹之介だけは、馬の腹を蹴り、険しい顔で前方の山道を見つめていた。
「……待て。様子がおかしい」
「ん? どうした、鷹之介さん。腹でも減ったか?」
駕籠の窓から顔を出した孝四郎が、のんきに煙管をくわえる。
「静かすぎる。……国境の関所だぞ? 荷止めの役人も、行き交う領民の姿も、一人も見えん」
鷹之介が刀の柄に手をかけた、その瞬間だった。
ヒュンッ! と風を切る音がして、一本の矢が、孝四郎の駕籠のわずか数寸前の地面に突き刺さった。矢羽が、びるびると震えている。
「ひ、ひええええええ!!」
惣兵衛が、馬から転げ落ちて悲鳴を上げた。一瞬にして、彼の胃痛が劇的なカムバックを果たす。
【国境・街道】
山道の左右の茂みから、次々と姿を現したのは、霧島藩の兵ではない。
漆黒の甲冑に身を包んだ、総勢三百を超える武装集団。その旗印に染め抜かれているのは、霧島藩の北に位置する軍事強国、肥後の国人領主の家紋であった。
「……肥後の手勢か!」
鷹之介が瞬時に馬から飛び降り、孝四郎の駕籠の前に立ちはだかる。
「霧島藩主、孝四郎殿とお見受けする!」
軍勢を割って前に出てきたのは、白髪交じりの屈強な老将だった。馬上で大身の槍を誇示し、ギラギラとした目で一行を見下ろしている。
「我らは、肥後を束ねる城主の命により、ここを封鎖しておる。……江戸で莫大な金を稼いだそうだな、孝四郎殿。……霧島の領地を通りたければ、その荷車の千両箱、すべてここに置いていってもらおうか!」
【街道・一触即発】
「な、なんたる理不尽! これは、白昼堂々の追剥(お剥ぎ)にございますぞ!」
惣兵衛が、千両箱の荷車にしがみつきながら叫んだ。
「理不尽、上等! 富める者は貧しき者に分け与えるのが、天下の理よ! 貧乏藩が、分不相応な金を抱え込めば、どうなるか……身をもって知るがいい!」
老将が槍を掲げると、三百の兵が一斉に槍を構え、じりじりと距離を詰めてくる。
多勢に無勢。鷹之介がいくら武勇に優れていても、この人数を相手に、孝四郎たちを守り抜くことは不可能だった。
「……くっ、孝四郎! 私が時間を稼ぐ! 貴様らは千両箱を捨てて、山道へ逃げろ!」
鷹之介が、白刃を引き抜いた。
「——待ちねえって、鷹之介さん」
緊迫した空気を切り裂いたのは、どこまでも気の抜けた、孝四郎の声だった。
孝四郎は、のそりと駕籠から這い出ると、懐から煙管を取り出し、火打ち石を叩いた。
「……おい、霧島の殿様よ。命が惜しくないのか」
老将が眉をひそめる。
「命は惜しいさ。だから、話し合いに来たんだよ」
孝四郎は、三百の兵の前に、丸腰で歩み出た。
その無防備な立ち姿に、兵たちの槍先が、わずかに揺らぐ。
「話し合いだと? 笑わせるな! 我らが欲しいのは、その千両箱の金だけだ!」
「金、ねえ」
孝四郎は、煙をふぅと吐き出し、老将を見上げた。彼の頭の中では、すでに「戦」を「商売」に変換する方程式が完成していた。
「旦那。その千両箱を奪って、お前の殿様はなんて言う? 『よくやった』って褒めて、お前にその金を全部くれるか?」
「……何を言う。主君に献上するのが、家臣の務めだ!」
「だろうな。つまり、お前さんは命を懸けて泥棒をして、手に入るのは『主君の褒め言葉』だけだ。……割に合わねえと思わないか?」
【職人の交渉術】
孝四郎は、荷車から小さな木箱を一つ、ひょいと持ち上げた。
「肥後の山奥は、寒くてひもじいって聞く。……旦那、あんたの部下たち、腹を空かせてるんじゃねえか?」
老将が、言葉に詰まった。兵たちの視線が、孝四郎の持つ木箱に釘付けになる。
「これは、あっしが江戸から持ち帰った、最先端の『チャバコ(防虫香)』だ。……これに火をつけて、胸いっぱいに吸ってみろ」
孝四郎は木箱を開け、兵たちの前にチャバコを並べた。
「……毒ではないか!?」
「毒なら、あっしが先に吸ってねえよ。……ほら、火をつけるぜ」
街道に、チャバコの白い煙が満ちていく。
警戒しながらも、風下にあった兵たちが、その煙を吸い込んだ。
「……う、美味い」「なんだ、この香りは。……体の芯が、じんわりと温かくなるようだ」
寒風吹き荒ぶ山道で立ち尽くしていた兵たちの顔に、安堵の笑みが浮かび上がっていく。
「このチャバコは、江戸の吉原じゃあ一本、十文で飛ぶように売れる。……旦那、もしあんたが、このチャバコの『肥後での独占販売権』を手に入れたらどうなる?」
老将の目が、丸くなった。
「ど、独占販売権だと……?」
「そう。千両箱の金を一回奪って終わるか、それとも、毎月、肥後中の人間が買い求めるチャバコの権利を手に入れて、毎年何万両という金を、永続的に手に入れるか。……どっちが、賢い頭の使い方だ?」
孝四郎は、煙管の雁首で、千両箱の荷車を指差した。
「千両箱を奪えば、幕府は黙っちゃいねえ。霧島と肥後、両方取り潰しだ。……だが、あっしたちが『肥後と貿易協定を結んだ』ってことにすりゃあ、幕府も文句は言えねえ。お前の殿様も、大金持ちになって大喜びだ」
職人の屁理屈。
老将は、槍を握る手を震わせた。
奪うのではなく、与える。武力による略奪を、経済による同盟へとすり替える。
「……霧島の、殿様よ。お主、本当に……タバコ職人あがりか?」
「ああ。だから、計算の合わねえ損な商売は、大嫌いでね」
老将は、ゆっくりと槍を降ろした。
「……兵を、退け。……霧島の殿。我らの主君に、その『貿易協定』とやらを、直々に伝えてもらおう。……城まで、案内する」
「へえ。……お鶴ちゃん、美味しいお茶を淹れる準備をしておいてくれ。肥後の殿様と、一服するからよ」
槍の雨を、一本の煙管が吹き飛ばした。
霧島藩主、孝四郎。
今度は九州全土を、煙に巻く旅が始まろうとしていた。




