「江戸を呑む、偽物(パチモン)の毒煙」
【日本橋・丸屋徳右衛門の店——昼】
「殿! お殿様、大変なことになりました!」
丸屋徳右衛門が、なりふり構わず霧島藩の江戸下屋敷へ駆け込んできた。
奥で新作のブレンドに耽っていた孝四郎は、煤けた顔を上げ、のんびりと煙管を置いた。
「旦那、江戸の人間はせっかちだね。……今度は何だい。借金が倍に増えたか?」
「そんな冗談を言っている場合ではありません! 見てください、これを!」
丸屋が差し出したのは、霧島藩の家紋に酷似した「霧に島」の紋が踊る、一包みの吸い物だった。
品名は**『霧島の雫・防虫特選』**。
「……偽物か」
孝四郎がそれを手に取り、鼻を近づけた。
「ええ。昨夜から日本橋の露店や、怪しげな香屋で、うちの半値以下の値段でバラ撒かれているのです。見た目はそっくりですが、中身は……」
孝四郎は、その「偽物」を一つまみ出し、指先で揉んだ。
「……ヒドいもんだ。タバコのクズ葉どころか、ただの枯れ草に、安物の着色料と、喉を刺すような香料をぶっかけてやがる。これじゃあ防虫どころか、人間が先にやられちまうぜ」
【江戸の下町・長屋】
事態は深刻だった。
「安くて美味い霧島の煙」を求めた江戸っ子たちが、その偽物を掴まされ、「喉が痛い」「頭が割れるようだ」と次々に倒れ始めていたのだ。
「霧島の殿様が、毒を売っている!」
「防虫香なんて嘘だ。あれは江戸の人間を殺すための毒煙だ!」
根も葉もない噂が、火のついた油のように江戸中に広がっていく。
背後で糸を引いているのは、もちろん、あの男。知覧藩の宮地紋太夫である。
「くくく……孝四郎。屁理屈でお上を黙らせても、江戸の『民』は騙せまい。自らの名声が毒となって、お前を飲み込むのだ」
宮地は江戸の暗黒街の元締めと手を組み、大量の偽チャバコを製造させていた。
【霧島藩・下屋敷——夕刻】
屋敷の門前には、怒れる江戸の町民たちが詰めかけ、石を投げ始めていた。
「金返せ!」「毒を売るな!」
「……殿、もはやこれまでです」
惣兵衛が、小判の詰まった千両箱を抱きしめたまま、白目を剥いて震えている。
「このままでは、幕府から再び停止命令が下ります。……せっかくの商売が……」
鷹之介は、庭で黙々と刀を磨いていた。
「……孝四郎。命じれば、あの暴徒どもを追い散らしてやる。だが、それで信頼が戻るわけではないぞ」
お鶴は、部屋の隅で泣きそうな顔をしていた。
「私の……私のせいです。私が、知覧にいるときに宮地様が偽物を作っていることに気づいていれば……」
「……みんな、暗い顔すんなよ」
孝四郎が、立ち上がった。
その目は、これまで見たこともないほど鋭く、職人の熱を帯びていた。
「偽物が本物に勝てるのは、暗闇の中だけだ。……お鶴ちゃん、おりん。江戸中の『瓦版屋』を全部集めてこい。……明日、日本橋のど真ん中で、**『公開鑑定会』**をやるぜ」
【翌日・日本橋の袂】
江戸中の人間が集まった。
中央に据えられたのは、大きな二つのかまど。
孝四郎は、堂々と「職人の前掛け」を締めて現れた。
「江戸の衆! 黙って聞いてくれ!」
その一声で、罵声を浴びせていた群衆が、一瞬にして静まり返った。
「あっしの作るチャバコが毒だって噂があるが、それはこの『パチモン』を吸った奴の言い分だ。……今から、本物と偽物の違いを、この場でハッキリさせてやる!」
孝四郎は、偽物のチャバコを一つのかまどに入れ、火をつけた。
モクモクと立ち上がる黒い煙。それは異臭を放ち、そばにいた人間が思わず咳き込む。
「……これが偽物だ。ただのゴミを焼いてるだけだから、身体にも毒だ。……次に、こっちが本物だ」
孝四郎は、自ら作り上げた『霧島の露』をもう一つのかまどに入れ、火をつけた。
白い、透き通るような煙が、空へと舞い上がる。
その瞬間——。
風に乗って流れてきた香りを嗅いだ江戸っ子たちが、一斉に目を見開いた。
「……なんだい、この匂い」
「お茶のいい香りが……胸のすくような、いい匂いだ」
「喉が全然痛くない。むしろ、さっきの毒煙で痛めた喉が、スッとするようだぜ!」
孝四郎は、ニヤリと笑った。
「本物は、煙の形も、匂いも、消え方も違う。……職人は、嘘をつけねえんだよ」
さらに、孝四郎は懐から一通の紙を取り出した。
「丸屋の旦那! 今日から、本物のチャバコの包みには、すべて**『殿様の直筆サインと指紋』**を付けてやる! これがないものは、全部偽物だ!」
知謀70。さらに、包み紙の中に「霧島にしか生えない特殊なシダの葉」を微かに混ぜ、火をつけた時にだけ「青い火花」が一瞬散るような仕掛けを施したのだ。
「おおっ! 青い火花だ!」「本物だ、本物だぞ!」
群衆の怒りは、一瞬にして歓喜へと変わった。
【知覧藩・江戸屋敷】
「……おのれ、おのれ、おのれぇえ!!」
宮地紋太夫は、山積みになった偽チャバコの在庫を前に、発狂せんばかりに叫んでいた。
偽物はもはや二束三文でも売れない。逆に、「偽物を売っていた店」として、宮地と手を組んだ悪徳商人たちは、江戸っ子たちから袋叩きに遭っていた。
「指紋だと? 青い火花だと!? あんな職人の小細工に、なぜ江戸の人間は騙されるのだ!」
宮地の叫びは、虚しく響くだけだった。
【夜・霧島藩下屋敷の屋根の上】
「……孝四郎さん。本当に、すごいです」
お鶴が、隣で空を見上げる孝四郎を見つめた。
「すごかねえよ。……ただ、自分の作ったものを汚されるのが、一番腹が立つ。それだけだ」
孝四郎は、自分の指に残った墨の汚れを、月明かりにかざした。
「江戸の衆は、粋だからな。……いいものを作れば、必ず分かってくれる」
こうして、偽物騒動は霧島藩の「圧倒的勝利」で幕を閉じた。
しかし、追い詰められた宮地紋太夫の目は、まだ死んでいなかった。
彼は、禁じ手中の禁じ手——**「将軍家への直訴」**という、命がけの最後の一手に手をかけようとしていた。




