逆襲のチャバコ大名、江戸に乗り込む
【江戸・品川宿——早朝】
「ここが、江戸……。なんと騒がしく、なんと金のかかりそうな街じゃ……」
惣兵衛が、江戸の入り口で早くも胃を押さえて蹲っていた。
霧島藩の参勤交代列。本来なら数百人の武士が立ち並ぶはずの行列だが、目の前にあるのは、殿様である孝四郎、護衛の鷹之介、女中のおりんと、なぜか付いてきてしまったお鶴、そして震える惣兵衛の、わずか五人である。
「惣兵衛さん、シャキッとしなよ。あっしたちは『防虫香の行商』に来たんだからな」
孝四郎は、大名が乗るはずの駕籠にチャバコの箱をぎゅうぎゅうに詰め込み、自分はボロを纏って歩いていた。
「殿……! 大名が自ら荷を引いて歩くなど、前代未聞にございます! 霧島家の誉れが!」
「誉れで飯が食えるか。……見ろよ、江戸の匂いだ。この淀んだ空気、あっしのチャバコで洗い流してやるぜ」
【日本橋・大店『丸屋』】
「いやぁ、お殿様! よくぞ、よくぞご無事で!」
丸屋徳右衛門が、涙を流して一行を迎え入れた。江戸でも「チャバコ禁止」の噂は広まっており、丸屋の株価は暴落寸前だったのである。
「旦那、泣くのはまだ早い。これを見てくれ」
孝四郎が駕籠から取り出したのは、仰々しく『霧島の露・防虫改』と書かれた、新しい包みだった。
「防虫……香? お殿様、これはまさか」
「ああ。幕府が『吸い物』として禁じたなら、『香り』として売ればいい。中身は同じ、知覧の茶と霧島の茎だ」
孝四郎はにやりと笑い、店先で一本、その「防虫香」に火をつけた。
途端、日本橋の雑踏に、清涼感のある甘い香りが広がっていく。
「おや、いい匂いだねえ」「どこかの香かい?」
足を止める江戸っ子たち、無意識のうちに通行人を惹きつける。
「いいかい、江戸の衆! これは霧島に伝わる秘伝の防虫香だ! 着物の虫除けによし、部屋の浄化によし、そして何より……ちょっと『味見』で吸ってみりゃあ、一日の疲れが吹き飛ぶってもんだ!」
孝四郎の口上に、丸屋が目を丸くした。
「殿……! それはもはや、詐欺の領域では……」
「へえ、嘘は言ってねえ。防虫効果は、タバコと茶の成分で実証済みだぜ?」
【江戸城・老中控室】
だが、その快進撃を黙って見ている宮地紋太夫ではなかった。
知覧藩の資金力を使い、宮地は幕府の老中・阿部伊勢守の前に跪いていた。
「老中様。霧島の若造、あろうことか禁制品を『防虫香』と偽り、江戸の街を汚しております。これこそ幕府への明白な反逆! 今すぐ霧島藩を取り潰し(改易)、知覧にてその権利を管理させていただきたく!」
老中は、冷ややかな目で宮地を見た。
「……防虫、か。面白い屁理屈をこねる大名よな。よかろう、その『防虫香』とやら、明日の登城にて、余の目前で鑑定してやる。……もし、一分でも『吸い物』としての色が勝れば、その場で霧島家は取り潰しだ」
宮地の顔が、暗い歓喜に歪んだ。
【翌日・江戸城 大広間】
いよいよ、運命の登城である。
格式高い江戸城の広間に、孝四郎は相変わらずの「職人前掛け」を袴の下に忍ばせて現れた。
目の前には、幕府の権威を象徴する老中と、嫌な笑いを浮かべる宮地。
「霧島藩主、孝四郎。……その方が売っている『防虫香』、余が直々に確かめてやる。……火をつけよ」
惣兵衛の胃が、過去最大級の悲鳴を上げた。
鷹之介は刀の柄を握りしめ、「もしもの時は、殿を連れて逃げる」と覚悟を決める。
孝四郎は落ち着き払った動作で、盆の上に置かれた特大のチャバコ(防虫香)に火をつけた。
じわりと、白い煙が広間に満ちる。
宮地が叫んだ。
「見なさい! この匂い、この煙! どこからどう見てもタバコ! 吸い物そのものではないか!」
だが、孝四郎は動じない。
「老中様。恐れながら申し上げます。……この煙を、そこの『知覧のお茶』に向けてみてください」
孝四郎は、宮地が献上していた高級知覧茶の茶碗を指差した。
煙が茶葉に触れた瞬間——。
茶葉の隙間から、一匹の小さな虫(茶毒蛾の幼虫)が、苦しそうに這い出し、ポロリと畳に落ちたのである。
「……なっ!?」
宮地が絶句した。
「知覧のお茶は最高級ですが、どうやら管理が悪かったようで。……ご覧の通り、あっしの『防虫香』は、知覧の汚れた虫を、見事に追い出してみせました。……これが、吸い物に見えますかい?」
知謀70。実は昨夜、お鶴から「知覧の献上茶に、微かに虫がついている樽がある」という情報を仕入れ、その煙が最も届きやすい位置を計算していたのだ。
「はっはっは! 見事なり!」
老中・阿部伊勢守が、膝を打って笑い声を上げた。
「宮地、お主の献上茶より、霧島の防虫香の方が、よほど役に立つではないか! これほど鮮やかな防虫、江戸の蔵すべてに配りたいほどよ!」
「……そ、そんな……」
宮地は、畳に額をこすりつけたまま、石のように固まった。
【夕暮れ・霧島藩・江戸下屋敷】
「……殿。心臓が、止まるかと思いましたぞ……」
惣兵衛が、庭先で茶を啜りながら漏らした。
「でも、これで幕府公認の『防虫香』になったわね」
おりんが、ようやく少しだけ笑った。
孝四郎は、江戸の夜空を見上げて、新しいチャバコに火をつけた。
「……お鶴ちゃん、ありがとな。お前さんの情報のおかげだ」
影で控えていたお鶴が、顔を赤くして俯く。
「……私は、ただ、あなたが作る煙を、消したくなかっただけですから」
魅力91。もはや知覧のスパイは、霧島の「お抱えブレンダー」になりつつあった。
借金返済リミット、あと四年と九ヶ月。
江戸の空に浮かぶ月は、霧島で見た月よりも、ほんの少しだけ金色に輝いて見えた。




