第76話 銀匙が止まるとき
「これはおいしそうですね……」
あまりに豪華すぎる部屋の雰囲気はともかく誠はごく普通に見えるカレーが好きで、目の前にあるのはその理想とするカレーだった。ごろっとした肉、野菜、ジャガイモが食欲をそそった。しかもどこで用意したのかは分からないが、そのルーから香るスパイスの芳香は寮の特製カレーのそれにあまりに似ていた。
「さあ、遠慮なく食べてください。お分かりになると思いますが、皆さんのお住まいの寮のカレーを参考にして、うちのシェフが腕によりをかけて作りました。きっと楽しんでもらえると思いますよ」
かえでは気取らない調子でそう言うと率先して匙を手に取った。ただ一人、かなめだけは明らかにそのカレーが何か特殊なかなめとかえでの間だけで通じる暗号であるかのようにげんなりした顔でかえでを見つめていた。
「じゃあ、遠慮なく……いただきます」
誠はそんな食べる気のまるでないかなめを無視してそう言って早速ジャガイモに匙を入れた。匙を入れると抵抗なく崩れるその柔らかさにうっとりしながらご飯に混ぜて口に運んだ。
辛さと言い、香りと言い、どちらも誠好みの『特殊な部隊』の男子寮特製カレーとそっくりの味だった。
「おいしいわね。でも本当に。でもいつものよりも作った人の腕が良いのか、よりおいしく感じるわよ。本当にありがとうね、かえでちゃん」
アメリアもこのカレーが気に入ったらしく匙を伸ばす速度が上がっていった。それを見てかなめも大きくため息をついた後、渋々カレーを口に運ぶ。
そんな中、一人カウラだけは匙に手を伸ばすことなくカレーを眺めていただけだった。
「どうしたんだね、ベルガー大尉。何か気になることでもあるのかな?」
いつものさわやかな笑顔でかえではカウラに向けてそう尋ねた。
「日野少佐は神前の『許婚』だと聞いていますが……神前はそれをまだ認めていない。その事実を聞くのはどう考えるのか?」
カウラは遠慮した調子でそう切り出した。
「そうだが、この前は薫様にも気に入っていただけた。このまま順調にことを進めて来年中にも結納を済ませたいと僕は思っているが……神前曹長はいかがだろうか?」
突然、急な結納などと言う言葉を聞かされて誠は面食らった。
「そんな!急に決められても困りますよ!それに僕達会ってからまだ半年たってないじゃないですか!こういうことはもっと時間をかけて……」
誠は気の早い話を繰り広げるかえでに向けて、なんとか嫌われない程度の断り方をしようと心がけてそう言った。
「神前曹長。人生は短いんだよ。僕はプレイとしてじらされるのは好きだが、物事を決める時は迅速に決めたい質なんだ。僕の心は決まっている。確かに、僕の心の中にお姉さまへの思いがあるのが気になると言う君の気持ちも分からないではない。でも、決めるべき時は早めに……」
匙を止めて魅力的な笑顔を誠に向けて語るかえでの美しさには誠も息を飲むところがあった。しかし、それ以上に彼女の日頃の変態行為を知っている以上誠にはためらう気持ちが多かった。
「まるですべては決まったように言うんだな、貴君は。神前の意向は無視か?日野少佐」
誠の決断を促そうと早口に話し続けるかえでを遮ってカウラがそう言った。匙を置いて静かにかえでを見つめるその目つきは真剣そのものだった。
「この僕を嫌いになる男はまずいない。だが、僕が好きになれる男は神前曹長が初めてだ。だから、神前曹長は僕の眼鏡にかなう稀有な存在なんだ。僕としてはこの機会を逃したいとは思わない。それにこれは僕のお母様と神前曹長のお母様が決めたことだ。僕のお母様の決定は常に正しい。そして僕の感覚からしてこれまでもその決定は正しかった。だから僕は神前曹長を選んだ。ベルガー大尉に何か思うところでもあるのかな?もしかしたら神前曹長に惹かれているとか……だとしたら諦めた方がいいね、君では僕には勝てない……あらゆる意味においてね」
カウラの言葉に自信たっぷりにかえではそう言った。その視線はカウラの胸にあった。
かえでは巨乳と言うよりもほとんどあり得ないというほどの巨大な胸の持主である。誠もかえでにその変態性があまりにひどいことを除けばその知的な物腰や仕事への熱意、さらにそのどんな男もくぎ付けにする美貌とスタイルに惹かれているのは事実だった。
もし誠がその変態性を知らなかったとすれば誠はすぐにでもかえでの提案を受け入れていたかもしれない。『モテない宇宙人』である遼州人である誠がこれほどまでに素直に好意を自分に向けて来る女性に出会ったことは無かったし、それでなくてもかえでの美貌はどんな男でも惹きつけるものだろうと誠も思っていた。
「カウラちゃん……もしかして嫉妬?でも私も賛成。かえでちゃんは急ぎ過ぎ。誠ちゃんがまだ早いって言うんだからちゃんと待ってあげないと。いくら母親同士が決めた話だとしても本人の意思を尊重するのが当然でしょ?それと……かえでちゃんの大事なお姉さんはどう思っているのかしら?」
アメリアはそう言うとわざと無関心を装ってカレーに集中しているふりをしているのが見え見えのかなめに声をかけた。
「神前とかえでの決めることだ。もしうまく二人がくっ付いてくれればアタシがかえでから食らうセクハラや、貴重な時間を使って毎月この屋敷に来てやらなきゃならねえ調教もしなくて済む。結構な話じゃねえの……別にどうでもいい……アタシには関係のない話なんだ……アタシみたいな女には……」
かなめはそう言う割に明らかにその口調は動揺していた。
「お姉さま、隠しても分かりますよ。お姉さまも納得できないと……どうやら、皆さんは僕と神前曹長が『許婚』であると言うことを認めないとおっしゃりたいんですかね。少なくとも僕にはそう聞こえるんですが……どうですか?」
かえでの笑顔はさわやかさよりも冷たさが増したものへと変わった。
雰囲気は一気に冷たいものへと変わりつつあった。
「みなさん、喧嘩は止しましょうよ」
険悪な雰囲気に耐えかねて、気の弱い誠はそう叫んでいた。
「喧嘩の原因を作ってる人間がよく言うな!オメエがはっきりしねえからこうなってるんだろうが!オメエがはっきり『許婚なんて認めない』と一言いえば済む話なんだ!それともあれか?この生涯未婚率80%の国で『許婚』が居る幸せに永遠に浸っていたいとでも思ってるのか?慣れねえモテ男を気取るのも大概にしろ!」
止めに入った誠に最初に怒りをあらわにしたのは意外なことにかなめだった。
「オメエが『特殊な部隊』に居るのは誰のおかげだと思ってんだ?アタシだろ?アタシがあの時オメエを止めなければ今頃はどこかの組織がオメエの法術の能力を利用するために実験動物にでもなっていた!それを止めてやったアタシを差し置いて、かえでと結納?笑わせてくれるねえ!」
かなめはそこまで言うと、カレーを一気に口に流し込んだ。
「確かにかなめちゃんの言うことも一理あるわね。私達三人は誠ちゃんがこの部隊に入った時からの付き合いなの。それを横から出てきてはい、『『許婚』でございます』。なんて私は認めない。カウラちゃんもでしょ?」
強い調子のアメリアの言葉を受けたカウラは一瞬戸惑ったように誠の顔を見た。
「私は……私は……」
カウラは戸惑っていた。自分の心とかえでをはじめとするこの場に居る人々の思いがあまりに違いすぎることにどうすればいいのか分からずにいた。
「日野少佐。とりあえず、お時間をください。僕は『モテない宇宙人』である遼州人です。こういう状況には慣れていないんです。ですので、自分と言うものが良く分かるようになるまで待っていただけませんか?今の僕に言えるのはそれだけです」
誠ははっきりとそう言った。その言葉にカウラは自分の心が決まったかのように誠の顔を見つめた。
「神前。よく言ってくれた……私も私の気持ちが良く分からない。その結論が出るまで日野少佐には待っていただきたい」
カウラはようやく自分の言葉で自分の気持ちを表すことが出来た。このような経験はカウラにとっては初めての事で、カウラ自身が驚いていた。
「良いでしょう。私も神前曹長から強欲な女だとは思われたくない。それにこういう駆け引きがあった方が僕としても神前曹長と結ばれた時の喜びは大きいでしょうからね。よろしいです、お待ちしましょう……ただし、神前曹長の童貞だけは僕が貰うつもりです」
そうかえでが笑顔で言い切った時にカウラの銀匙が止まり、ルーの表面に小さな波紋が残った。
「そのことだけはお忘れなきよう……僕の魅力の前で僕を手に入れたいと思わなかった男はこれまで一人としていないのですから。まあ、どれも僕には単なる遊び相手程度にしか見えない馬鹿な男だったとその男に別れを告げた今では思っていますが」
そう言ってかえでは誰もを魅了してきた妖艶な笑みを浮かべて誠を見つめた。誠はただ何も言えずにそのままがっつくようにカレーを食べ終えた。
「みなさん、食事も終わったようですね……神前曹長……いかがだったかな?満足していただけたなら僕としてはうれしいな」
屈託のない笑みを浮かべる金髪のかえでに誠は抵抗できずに黙ってうなずいてしまう。
「それは良かった。別室にお茶の準備がしてあるんだ。カレーは香りはいいがその香りは紅茶にはあまり合わない。部屋を変えた方がいいだろうからね」
そんな言葉を言うとかえでは立ち上がった。つられるように黙り込んでいる誠達もかえでの後ろに続いて食事をしていた部屋を出た。
食事を終えた誠達は再び応接室に案内された。
「どうぞ」
メイドの一人の利発そうに見えた方が誠に紅茶のカップを差し出す。カウラ、アメリア、かなめの順に紅茶のカップが並べられていく。
「中に何も入ってないんですけど」
あまり教養の無い誠の前に台車に乗せた紅茶セットがもう一人の抜けた感じのメイドの手で運ばれてきた。
「紅茶は高温で淹れて初めて香りが立つのよ。覚えておいた方が良いわよ。なんと言ってもかえでちゃんの『許婚』なんだから。まあ、さっき言ったように誠ちゃんの待ってほしいと言う言葉をかえでちゃんも理解してくれたみたいだから。その辺は曖昧にしておきましょう。丁度、この国で法術の存在が曖昧だった時の様に」
嫌味たっぷりにアメリアが誠を冷やかした。誠はふくれっ面をして紅茶が入れられる様を丹念に観察していた。そのとなりでは相変わらずげんなりした顔のかなめがアメリアの様子を伺っていた。
「カレーか……その顔を見るとアメリアはその意味を察してるな。かえでが何をアタシに望んでいるか……神前、オメエはどうだ」
紅茶に入った砂糖をかき混ぜながらかなめは誠にそう尋ねてきた。かなめの下卑た笑みに誠は最悪の予感の中の最悪の物を拾い出して頭の中で展開して見せた。
「西園寺さん……もしかして……ってそれって小学生のギャグ並みですよ、その発想。西園寺さんはそんな変態的な事をかえでさんに教えたんですか?あの物体とカレーは確かに色は似てますがそんなものを一緒にする人は普通いない……ああ、日野少佐と西園寺さんは普通じゃ無かったですね。失礼しました」
誠もただ誠にカレーを食べさせたいだけでかえでが自分達……特にかなめを呼んだわけでは無いだろうとカレーを食べながら思っていた。
「このプレイはアタシが教えたんじゃねえ。アイツが勝手に自分でそうなったんだ。アイツは昔から自分から西園寺御所の食客の便所の肥溜めに突っ込んでいって喜んでいるような変態だった。しかし……」
そこまでかなめが言ったところで紅茶を入れたメイドが出て行った大きな扉からかえでが現れた。
「どうかな、神前曹長。僕のカレーは気に入ってくれたかな?」
かえでは相変わらずのさわやかな笑顔でそう言うと誠を魅了する視線を送ってきた。
「ええ、初めは洋食店とかで出る高級なルーとライスが分かれたのが出て来るかと思ったんですが、寮で食べてるカレーを完全再現しているんで驚きました。それでも作った人の腕が違うんですね、寮で食べるカレーに比べて味はこれまで食べた中で最高の部類に入るカレーです。おいしかったです」
とりあえずかなめのさっき言ったことを忘れて誠は素直にそう答えた。
「それは良かった。うちのシェフもきっと喜んでくれるだろう。僕としてもカレーは好きでね。週に一度は食べるようにしている」
かえではそう言うと誠の正面のソファーに腰かけた。かえでの言葉にアメリアは青い顔をして心配そうな顔をかえでに向けた。
「週に一度しか行かないの?それって身体に悪いわよ。私は毎日行くけど。腸の健康のためにはそれくらいがいいってこの前テレビでやってたわよ。『腸活』とか言うじゃないの」
アメリアは驚いた様子でそう叫んだ。カウラはアメリアの言葉の意味が分からずただいつもの無表情で紅茶を飲みスコーンを食べていた。純粋なカウラにとってカレーが何を指しているのかは理解不能なことなのだと誠は彼女の純粋さにあこがれを抱いた。
「僕にとってはそのくらいが一番ちょうどいいんだ。そのくらい貯めないと色々と楽しめないだろ……クラウゼ中佐……」
さわやかなかえでの笑顔が妖艶な色気を帯びてくるのを誠は見逃さなかった。
「私はパス!私は汚いのは苦手!かなめちゃんは好きかもしれないけど、私はそれだけは勘弁!私のエロゲもそっち系のプレイはNGと言うことになってるから!」
アメリアはあからさまにかえでの態度に拒否反応を示した。誠も同意したかったが、ここで言葉を発してしまえば、カレーが何を指していたか誠が理解していることを自白するようなものなので黙っていた。
「アタシは汚い雌豚を口汚く罵るのは好きだが自分が汚れるのは嫌いなんだ。それと……翌日匂いが残るんだよな……あの責めの後は……明日の朝が心配だな。アタシ等はサラの奴に隊にお呼ばれしてるからな」
かえでの言葉を完全に理解しているかなめは、そう言う世界とは無縁なカウラに分からないようにそう言って自分の性癖を暴露した。
「その点は大丈夫です。ちゃんと香水も用意してあります。翌日ににおいが残るような不手際は私、渡辺リンの命に代えてもありません」
いつの間にかかなめの後ろに気配も無く表れたリンに驚いたようにかなめは振り向いた。
「そうか……それは良かった……」
かなめは全てを諦めたようにそう言うと誠、カウラ、アメリアの順に視線を送った。
「今日はアタシはこの屋敷に泊まる。明日はリンの送りで朝には寮に着く予定だ。それでいいんだな!かえで!」
半分やけになったようにかなめはかえでに向けてそう言った。
「みなさん。そう言うことになりましたので、今日の所はこのくらいでお引き取り願えますでしょうか?」
かえでは突然そう言って立ち上がった。メイド二人が出口に向かう扉を開き、誠達が立ち上がるのを待っていた。
「まだ紅茶が途中じゃないの……って我慢してるのね。なんと言っても一週間だもんね……辛いんじゃないの?お腹」
アメリアはリンに向けてカウラに聞こえないようにささやく。
「いいえ、これもすべてはかえで様の為です。それにかえで様とかなめ様のそれを食するのが私の最大の喜びです」
リンの言葉にアメリアは絶望したような表情を浮かべていた。
「食べるの!あのカレーと同じ色をしたものを?それって……かえでちゃんも?」
リンの言葉に驚いたようにアメリアは紅茶をこぼしそうになりながら立ち上がった。
「ええ、かなめ様のモノはまずかえで様から食されます。それに私にとってかなめ様のモノとかえで様のモノ。それぞれ、香りを楽しみつつすべて食します。それぞれに日々食べていたものの違いで味が異なるので非常に興味深いものですよ」
ただひたすら理解できない世界が存在している。アメリアにはそう言う他意の無さそうなリンの笑顔が恐ろしく感じられた。
「それじゃあ、僕達は失礼しますね。カウラさん。帰りましょう」
リンの言葉に恐怖を感じた誠は引きつりつつある頬を無理に矯正して立ち上がった。訳が分からないと言うようにスコーンを食べていたカウラも仕方なく立ち上がって部屋を足早に出て行くアメリアの後に続いた。
「誠ちゃん……本当にかえでちゃんが『許婚』で良いの?アレを喜んで食べる人が身近にいる環境で日常を過ごすことになるのよ?もしかしたら誠ちゃんのも食べたいとか言い出すかもしれないのよ?それ以外の金色の液体をその度に飲みたいってのも確実に言い出すわよね。そしたら……トイレが要らないから便利だけど……それでも良いの?」
螺旋階段のあるエントランスホールまで来るとアメリアは誠の耳元でそうささやいた。
「少し自信が無くなってきました……さすがにアレを僕も食べるところまで行くとは思いませんでした……でも同人誌とかではよくある展開ですよね……アメリアさんもそんなの持ってましたし」
誠はアメリアのコレクションのお気に入りの一冊がそう言う展開なことを忘れてはいなかった。
「言わないで。アレはフィクションだから許せるの。リアルに存在するなんて考えたことも無かったわ……でも……考えてみればトイレが要らない生活ってのは便利かもしれないわね」
アメリアは本心からそう言わざるを得なかった。アメリアもまた自分の膨大なエロ同人誌のコレクション整理について考えざるを得なくなっていた。




