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第93話 土砂降りの涙

 にわかに降り出した雨は、瞬く間に土砂降りへと変わった。


「うわ、酷い雨」


 ベランダからいそいそと洗濯物を取り込みながら空を見上げる。厚く立ち込めた雲は日差しを遮り、昼の空はまるで夜のように暗くなっていた。

 外を歩く人々は急な雨に急いで傘を差したり、上着を被り駆け足に去っていく。大変そうだな、なんて考えながら何となく外の様子を眺め続けていると、通行人の人の中に、傘も差さず走りもせず歩いている人を見つけた。

 土砂降りの雨がその人に叩き付ける。十一階のここからでも、その人がすっかり濡れネズミ状態になっていることは分かった。茶色い髪の女の子。背中まで伸びた癖っ毛の……。


「…………あざみちゃん?」


 ぼそりと吐いた自分の呟きに、私は大きく目を見開く。咄嗟に玄関へと向かい、お父さんの傘を引っ掴んで部屋を飛び出す。マンションを出た途端傘に叩き付ける大量の雨粒。その中をとぼとぼと俯いて歩いてくる、一人の女の子。あざみちゃんの姿。


「あざみちゃん!」


 私の声に、あざみちゃんはハッと顔を上げた。安堵と怯えを混ぜこぜにした顔だった。傘に招き入れた彼女の肩を抱く。ぐっしょりと濡れた服の張り付く肌は、酷く冷たかった。

 どうしてこんなところに、傘も差さないで。そんな疑問を投げかけようとした私は、抱いた肩が小刻みに震えていることに気が付き、言葉を飲み込んだ。

 寒いのか。そんな疑問は、彼女の口から零れた言葉に掻き消される。


「…………なさい」

「え?」

「ごめん、ごめんなさい」

「あざみちゃん……?」


 ぼそり、ぼそりと彼女の口から謝罪の言葉が流れていく。何を言っているのか。どうして謝るのか。彼女の意図が、さっぱり分からなかった。

 落ち着いて、と宥めてみても彼女は平常を取り戻さなかった。まるで何かに憑かれたかのように、視線を彷徨わせながら謝罪を繰り返す。あざみちゃんの頬から幾筋もの水滴が流れていく。揺らぐ両目から零れる水滴は、雨粒だと誤魔化しきれない。

 あざみちゃんは肩を震わせてその場に蹲ってしまう。慌ててしゃがみ込んだ私の服を強く掴み、あざみちゃんは顔をくしゃくしゃにして声を震わせた。


「ごめんなさいぃ………!」


 手から滑り落ちた傘が、足元の水溜りに溺れる。直に降り注ぐ雨が私達の体を濡らしていく。どんどん体温が冷えていくのを感じた。

 それでも、傘をすぐに拾うことはできなかった。





 温かいお茶を飲ませると、あざみちゃんは少し落ち着きを取り戻した。かじかんでいた指先に朱色が戻っている。

 ここに来る道中に転んだのか、擦り傷ができていた彼女の手に絆創膏を貼った。彼女は痛みも訴えず、黙ってお茶を飲む。

 タオルとドライヤーで彼女の髪を乾かした終えた私は、彼女の隣に腰かけて他愛もない話題を振った。


「テレビでも付けようか? 今面白い番組、やってたかな」


 最初の間、あざみちゃんは首を振るだけで何も言ってはくれなかった。けれどしばらく隣に寄り添っていると、意を決したように彼女は服のポケットから何かを取り出した。

 それはプリクラだった。この間あざみちゃんと撮ったもの、それから、二人で最初に撮った思い出のプリクラ。ただおかしかったのは、それがぐしゃぐしゃに千切られていることだった。


「これ…………」


 思わず呟くと、あざみちゃんは怯えるように肩を震わせた。勢い良く首を振り、感情を押し殺したような声で吐く。


「ママが……」


 そう言って、また涙を堪えるように唇を閉ざす。お母さんが? と繰り返すと、彼女は俯くように頷いた。

 小さな指先が破れた写真を撫でる。そうすれば、全部元通りに直るとでも期待するように。決してそんな魔法は起こらない。


「テストに集中、できなかったから」


 感情を必死で抑え込むように、何度も口を閉ざしながら、ゆっくりとあざみちゃんは言葉を紡いでいく。雨音に掻き消されそうな弱々しい声に、私はじっと耳を傾けた。


「最近、上手くいかなくて。授業に集中できないし、夜はすぐ、眠くなるし。それで成績も、思ったように上がらなくて。昨日返ってきたテストの成績、今までで一番悪くて。順位、二桁になっちゃったから」


 テストの順位が二桁だなんて普通のこと、むしろ人によってはいい方だ。私だって十位に入ったことはないし、太陽くんなんて三桁から脱出したことはないと陽気に言っていた。

 でもあざみちゃんにとっては違う。彼女にとって成績というのは、自分の人生を大きく変えることにもなるものなんだ。

 例えば、それによって小動物を、果てに人を殺してしまうくらいになるまでは。


「テストの最中に寝ちゃうなんて、初めてで。パパとママに、凄く、怒られたの。それで、あたしが最近集中してなかったのが、悪い、って。遊んで、ばかりいたのが、駄目だったって。それで部屋に入ってこられて、その、プリクラも、見られて、それで…………」


 それで、破かれた。

 あざみちゃんのお母さんに会ったのは一度きり。だけどあのときの言動を考えれば、あざみちゃんに何を言ったのかなんてすぐに察しがついた。

 こんなものにお金を使うのなら参考書を買いなさい。お友達と遊んで成績が下がるようなら、そんなお友達とは縁を切りなさい。あざみ、分かってちょうだい。私はあなたのためを思って言っているのよ。


 ひぐ、と喉を震わせる音がした。ぶるぶると震えるあざみちゃんの拳にいくつもの水滴が落ちる。うぅぅ、と低く唸っていた彼女の声に段々嗚咽が混じり出した。

 コップの縁ギリギリまで満ちていた水が決壊したようだった。いや、もしかしたら、既にたくさんのヒビが入っていたコップが砕けたのかもしれない。子供のように顔を真っ赤にして泣きじゃくるあざみちゃんを見て、私は唇を噛み締めながら彼女の体を抱きしめた。


「もう嫌、もう疲れた。もうこれ以上頑張れない」


 嗚咽に紛れてあざみちゃんの本心が溢れ出す。両親に言えない思いを私へとぶつけるように、その声は酷く熱っぽく掠れていた。


「これが本当にあたしのためなら、どうしてこんなに苦しいの? なんでこんなに悲しいことばかりなの?」

「あざみちゃん…………」

「ねえ、和子、教えてよ」


 あざみちゃんは縋るような表情で私を見上げた。泣き腫らして真っ赤になった目が、ゆらゆらと揺れる。


「あたし、何のために頑張ってるのかなぁ?」


 結局このとき、私は彼女の問いに答えられなかった。

 もう大丈夫だからと疲れた笑顔を浮かべてあざみちゃんが私から離れたときも、貸した傘を差して彼女が帰っていくときも、彼女の満足できそうな答えを言うことができなかった。


 それからあざみちゃんとは連絡が取れなくなった。





「なによ辛気臭い顔しちゃって。悩み事?」


 ティパちゃんの声に我に返る。慌てて顔を上げると、怪訝そうなティパちゃんの顔が間近にあった。後ろの座席からは、ぼんやりしている私を叱咤するようなボディーガードさん達の目。何もないです、と急いで首を振った。

 仕事場へ向かうための送迎車の中。ティパちゃんの要望といえ彼女の隣に座る私には警戒の視線が突き刺さってくる。その重圧から逃れようと外の景色を眺めていた私だったが、こうしてぼんやりして叱咤されるのだったら結果は同じだったかもしれない。


「ちょっと考え事しちゃって」

「考え事? 恋人のこととか?」


 違いますって、と私は苦笑する。考えていたのはあざみちゃんのことだ。あの雨の日、家に帰ったあざみちゃんはそれからどうしたのだろう。どうなったのだろう。

 テスト期間中は簡単な連絡くらいならやり取りしていたものの、今は連絡までも付かなくなった。メールも電話も応答がない。あの日の彼女を思い起こすと、どうにも胸騒ぎがして落ち着かなかった。

 私が家に行ったら余計ややこしいことになるだろうと我慢していたものの、心配でたまらなくなってきた。今日明日はティパちゃんの護衛が入っているから無理だが、明後日、一度家に行ってみようか。そんなことを考えていた。

 しかしそれを説明するわけにもいくまいと、私は不服な顔のティパちゃんに咄嗟に嘘を吐いた。


「来週のことです。ボディーガードとして私や他の人達が雇われたのも、その日のためでしょう?」


 私と東雲さんが依頼された、ティパちゃんの護衛。その目的は明日行われるライブのためらしかった。

 十二月十七日。第三区で、ティパちゃんのライブが開催される。年内最後のライブとあってか大々的に宣伝がされ、明星市中から彼女のファンが集まってくると予想されていた。第一区から第九区まで様々な人間が彼女を求めてやって来る。会場のあちこちで騒動が起こってもおかしくはない。

 大量の警備や護衛が必要なのはそのためだった。普段のライブならばまだしも、今回のライブは特に集客が予想される。あちこちで起こる騒動を必死で押さえるために、スタッフは警備を強化するのだという。


「そうねぇ、来週はライブだから…………」


 だが何故か、ティパちゃんはぼんやりとした口調でそう呟くだけだった。重い溜息を吐く様子を見れば、ライブが面倒なのだろうかと思った。

 今日の彼女はいまいち元気がなかった。ぼーっとしているかと思えば少しイライラしたように貧乏揺すりをしたり。今は綺麗なネイルの塗られた爪をガジガジと噛んで外を見ている。ネイルが取れてしまわないだろうか、と思っていると案の定後ろに座っていた一人がティパちゃんを窘めた。

 すると彼女は途端に不機嫌そうな顔をしたかと思うと、勢い良く前の運転手さんの座席を蹴りつけた。激しい音が鳴る。うるさいなぁ、と声を荒げて彼女は何度も座席を蹴った。


「一々指図しないでよ。鬱陶しいんだけど! 黙っててくれない?」


 綺麗に整った顔が怒りに歪む。怒号を浴びせられたボディーガードさんは困ったように肩を竦め、落ち着いてくださいと宥めるように声をかけた。だがそれはどうやら逆効果だったらしい。


「あああうるさいっ! イライラする! ねえ、まだ着かないの!?」

「もう数分で着きますんで」

「早くしてよね!」


 盛大な舌打ちを零したティパちゃんがチラリと私を見る。彼女の剣幕を驚いて見入っていた私は、反射的に顔を逸らした。

 彼女を落ち着かせるためか、赤信号で止まったときに運転手が、これでもどうぞとお菓子の入った箱を差し出してくる。たっぷり詰められたキャンディーを乱暴に取った彼女は包みを開け、歯を立ててキャンディーを齧る。甘味禁断症のようだ、と横目で彼女を見ながら思った。

 その後無事会場に着いた私達は、収録場所に入った途端に笑顔を浮かべて出演者に挨拶をするティパちゃんの姿を見つめる。愛想良く微笑む彼女の姿は車内とはまるで別人だった。

 変わり身の早さに呆れる私の横で、一人のボディーガードがぼそりと呟いた。


「ティパ様は気まぐれだからな」


 何度も聞いた言葉だ。

 そうですね、と私は溜息まじりに大きく頷いた。




 ライブというのはこんなにも人で溢れるものなのか。

 冬にも関わらず、会場内は人の熱気で溢れていた。酷く騒がしい人の群れを、警備係のスタッフが必死に整列させている。

 インカムから大声で指示が飛び交い、ノイズやざわめきと混じって耳が痛くなる。まだライブが始まってもいないのに、この熱気は凄まじい。

 人ごみを掻き分けて通路を歩いていた私は、ふと他の人々より頭一つ分抜け出てファンを見下ろすスタッフを見つけた。彼の元に駆け寄り、声をかける。


「東雲さん」

「和子か」


 東雲さんは他のスタッフから一人離れ、入場するファンをじっと眺めていた。怪しい人物がいないか、不審物がないか、観察しているのだろう。

 そっちはどうだと聞かれ、大丈夫だという意を込めて頷く。控え室で衣装やメイク整えているティパちゃんはボディーガードさん達に囲まれているし、今のところ不機嫌な様子もない。

 飲み物を頼まれたんです、と私は外の自販機で買ってきた飲み物を見せた。東雲さんがふんと顎を引く。


「飲食物を頼むなんて、随分気に入られたものだな」

「ティパちゃんの周りの人達は私のこと信用してないみたいですけどね。すっごく嫌な目で見てくるし」


 飲み物買ってきてよ、とティパちゃんが私に頼んだときのボディーガードさん達の反応を思い出し、苦笑した。

 ティパ様、ティパ様と様付で彼女のことを呼んで。彼女の周りの人々は彼女をまるで神のように崇めている。そりゃ自分達の給料が彼女から出ているといっても過言でないのだから、敬うのは当然かもしれない。けれどいくら部外者の私がやってきたからって、あそこまで邪険にしなくてもいいだろうに。


「もうすぐ開演の時間だ」

「そうですね。じゃあ、私戻ります」

「気をつけろよ」

「そちらも」


 東雲さんと別れ、控え室に戻る。部屋に入った私を着替え終えたティパちゃんが出迎えた。


「あっ、来た来た。ねえ見てよこの衣装。どう? 可愛い?」


 今日の衣装に着替え終えたティパちゃんが私を見てくるりと衣装を見せびらかす。

 普段からモノクロのイメージが強い彼女。今日もまた黒と白を基調とした煌びやかな衣装をまとっていた。ラメが入っているのか、ふわりと広がる黒いスカートは彼女が回るたびキラキラと輝く。


「今日のイメージは、黒と白の動物なの。なんだか分かる?」

「えーっと……シマウマ?」

「ちがーう」

「じゃあパンダ?」

「ちーがーうー」

「あっ、牛!」

「違いますぅ! バクよバク、マレーバク!」

「分からないよ!」


 何とも微妙な動物を出してくる。そう思っていた私だったが、そういえば彼女が今日歌う新曲を思い出して手を打った。


「もしかして今日の歌に合わせてですか?」

「正解っ!」


 今日のライブでティパちゃんが歌う曲は『ドリーム・イン・ザ・ドリーム』。夢を題材とした可愛らしい歌だった。マレーバクと関わりのある中国の神話生物、獏は、人の夢を食べて生きるのだと言われている。それをふまえて作った今日の衣装は、確かに今日のライブに相応しい。

 とても素敵です、と素直に賞賛する。けれど彼女は納得いかない顔付きで私をじとりと見つめた。


「本当にそう思ってる?」

「え? 思ってますって」

「えー、でも何だか、遠い目してたけど」


 鋭い。そんなことないですよ、と笑う私に疑惑の視線を向けつつティパちゃんは離れた。

 ティパちゃんには悪いけれど。彼女を見るたびに、考えてしまうのはあざみちゃんのことだった。彼女の歌を聞いて嬉しそうに笑顔を浮かべていたあざみちゃん。同時に思い出すのは、雨に濡れてぐしゃぐしゃになって泣く彼女の姿。

 今日のライブもきっと本当は、来たかったはずだろうに。


「ああ、そうだ。飲み物買ってきましたよ」


 ティパちゃんに飲み物を渡すと、彼女は笑顔でそれを受け取った。蓋を開け中身を一気に煽る。直後に、うへぇ、と彼女は顔を苦々しく歪めた。


「やっぱりまずーい! あなたも飲む、これ?」

「……遠慮しておきますね」


 不味いけど癖になる味なのよ。そう言って彼女が飲んでいる物は、以前あざみちゃんがゲームセンターで取ったあの栄養ドリンクだった。

 一気に瓶を飲み干して息を吐いたティパちゃんは、キャンディーを口に入れて上機嫌で私に言う。


「それにしてもあなた、よく働いてくれるわね。助かるわぁ」

「ありがとうございます」

「もし良かったら、次のライブの護衛も頼めない?」

「次のライブ? 来年またやるんですか?」


 確か今日で、ティパちゃんの年内のライブは最後のはずだ。

 彼女は違うよ、と笑いながら私の手を取った。すべやかな肌が私の手を撫でる。


「クリスマスイブの夜、別の所でライブをやるの。今日よりもっと刺激的なライブをね」

「イブ? でも今年のライブはこれで…………」


 ゾクリ、と背筋が泡立った。全身を針で突き刺すかのような視線を感じる。反射的に振り返った私は、目の前に広がる光景にごくりと唾を呑んだ。

 黙って私達のやり取りを聞いていた部屋中のボディーガードさん達。その全員が、私へと殺気立った視線を向けていた。今にも心臓をナイフで刺されそうな、仕事のときに、よく受ける視線。

 ただならぬ緊張感が部屋に張り詰めた。ティパ様、と声を荒げた一人が彼女に詰め寄る。


「何をおっしゃっているんですか! あれほど口にしてはいけないと、申したでしょう!」

「大丈夫だって。この子いい子よ? だって、飲み物買ってきてくれるし」


 状況が掴めていない私でも、ティパちゃんの返答が的を射ていないことは分かった。苛立った顔のボディーガードさんは、これ以上私の傍に彼女を置いては置けないと判断したのか、部屋を出て先に持ち場に着くように私に言う。返事をする前に、数人のボディーガードさんに押されて私へ部屋から追い出された。

 行くぞ、と彼らに有無を言わさぬ口調で背を押される。ピッタリと扉の閉まった控え室から声は一切聞こえない。訝し気に思いつつ、私は持ち場へと向かうことにした。



 警備の数を増やしたのが功を成したのか、ライブは特に問題も起こらず順調に進んでいた。

 ステージの裏で私とボディーガードさん達は、ステージ上で歌うティパちゃんの姿をじっと見守っている。明るい笑顔を振りまいて歌うティパちゃんの姿が、照明でキラキラと輝いていた。

 このまま最後まで何も起こらないといい。そう思っていた私は、突如スーツの胸ポケットから伝わる振動にハッとした。入れていた携帯が着信を告げている。東雲さんから何か連絡だろうか、と思いながらこっそり画面の名前を見た私は大きく目を見開いた。


「あっ……すみません、ちょっと、お手洗いに」


 近くのボディーガードさんに早口で告げた私はその場を離れる。早くしてこい、と冷たい目で告げるその人に一礼をして持ち場を離れた。

 本当はライブが終わるまで持ち場を離れてはいけない。けれど着信画面に表示されていたのは、今最も待ち望んでいるあざみちゃんの名前だった。人気のない廊下に辿り着いた私は急いで携帯を耳に当てた。


「もしもしっ!?」

『もしもし。あなたが和子さん?』


 あざみちゃんではない、とすぐに判断が付いた。声は彼女に似ているものの口調や言い方があざみちゃんではない。

 誰だろうと悩むこともなかった。私は急いていた気持ちを宥め、一呼吸置いてから返答する。


「そうです、秋月和子と申します。……あざみちゃんのお母さんですよね?」

『ええ』


 肯定の返事を聞いて、私は身を引き締めた。どういったご用件でしょう、と固い声で告げる。

 なんとなく次の言葉を察していた。あなた、もうあざみに近付かないで。そんなことを言われるだろうと思っていたのだ。

 けれど予想に反し、あざみちゃんのお母さんはどこか落ち着きない声で話し出した。


『着信履歴に残ってた番号に電話してみているの。ねえ、あなた、あざみとどういう関係? あざみと最後に会ったのはいつ?』

「え?」

『あなた、あざみに何かした? あの子に何があったか知ってる? ねえ、何か、最近のあの子について知ってることはない?』

「……ちょっと待ってください。あざみちゃん、どうかしたんですか?」


 様子がおかしい。胸の奥から、じわりとモヤが広がっていく。

 あざみちゃんのお母さんは、私の言葉に一度黙って、それから言った。


『眠っているの』


 震える声でこう続ける。


『眠ったまま起きないのよ。三日間、ずっと』

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