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第94話 眠り姫

 チャイムを鳴らしてしばらくしてから、あざみちゃんのお母さんが玄関に顔を出した。

 私の姿を見たその目が僅かに歪む。気落ちしたような小さな声で溜息を吐いた。


「ああ……和子ってあなただったの」

「あのっ、あざみちゃんは……」

「どうぞ、上がって」


 促されて私は家に上がり込む。上品な花の香りが漂う玄関。しかし気のせいか、所々の掃除は行き届いていないように思えた。

 先を歩くあざみちゃんのお母さん。最初に来たときは綺麗な化粧を施し自信に満ちた風貌をしていた。だが今は化粧もしていないし、少しやつれたようにも見えた。

 あざみちゃんの部屋に辿り着く。ノックもなしにお母さんは扉を開ける。赤とピンクで整えられた可愛い部屋。その隅に置かれたベッドで、あざみちゃんが眠っていた。


「あざみちゃんっ!」


 思わず叫んで駆け寄った。ベッド脇に膝を突き、彼女の顔を覗き込む。

 一見、健やかに眠っているだけに見えた。長い髪をシーツに垂らし、すぅすぅと寝息を立てて目を閉じている。

 何度か名前を呼んでみてもあざみちゃんは一切反応を示さなかった。恐らく大声で呼んでも、激しく揺さぶったところで、起きやしないだろう。


「ずっとこうなんですか?」

「三日前からよ」


 震える私の問いに、あざみちゃんのお母さんはぼそりと答えた。


「急に目覚めなくなったの。病院に連れていっても原因不明らしくて、入院も勧められたけど、どうせなら家で看たかったから……。すぐ起きてくれるだろうと楽観視してたところもあったのよ。でも」


 でも、の続きは言わずとも分かった。あざみちゃんはずっと目覚めない。いつまでたっても、眠ったまま。

 どうしてなの、とお母さんの声が震えた。


「どうして起きてくれないの。おはようママって、どうして言ってくれないの」


 細い手が縋るようにあざみちゃんの頬を撫でる。慈しむような手付きは、母親の愛情そのものに思えた。

 あざみちゃんのお母さんは決してあざみちゃんのことが嫌いなわけじゃない。ただ愛情がいき過ぎているだけなんだ。この人はこの人なりに、あざみちゃんを愛している。

 けれどいくら頬を撫でられようが、そのぬくもりはあざみちゃんには届かない。


「お願い、起きてちょうだい、あざみ」


 あざみちゃんの静かな呼吸だけが、彼女の応える全てだった。



 お茶を淹れてくるから、と言ってあざみちゃんのお母さんは部屋を出ていた。恐らくしばらくの間彼女は戻ってこないだろう。部屋を出る間際のその唇は、何かを堪えるようにキツク引き結ばれていたのだから。

 あざみちゃんの手をそっと撫で、私は立ち上がった。目を擦る。部屋の中を見れば、あざみちゃんが眠りにつく直前まで何をしていたのか明らかだった。

 机だけでなく床にまで散らばった教科書や参考書。眠気覚まし用のガムのボトルや栄養ドリンクの空き瓶。床に落ちていた参考書を拾い、私は曖昧な笑みを浮かべた。


「ずっと勉強頑張ってたから疲れちゃったのかな? たまにはゆっくり眠りたいよね」


 参考書を机に置き、消しカスで汚れていた机上をサッと払う。簡単な掃除をしながら私はベッドに向かって語りかけた。


「あざみちゃんはいつも頑張りすぎなんだよ。成績が上がったってあざみちゃんが倒れちゃったら意味ないよ。だったら成績が下がっても自分が幸せだったらいい、そうじゃない?」


 隅に張られていたはずのプリクラがなくなっていた。剥がされたのか、剥がしたのか。四角い日焼け痕を残したその部分は、他と僅かに色が違っていた。


「今はゆっくり眠るといいよ。それで、元気になってさ。元気になってまた遊ぼうよ。一緒に遊園地にでも遊びに行こうよ。まだあざみちゃんと行きたいところいっぱいあるんだから。だから……だからさ…………」


 無音の部屋に私の声だけが響くのは、どうにも辛かった。

 ぐっと喉を震わせて、私は無言で机の掃除を続ける。そのとき不意に、壁にかかってあったものに目がいく。

 ドリームキャッチャー。網目が蜘蛛の巣のようだからと、修学旅行のお土産として彼女に買ったものだ。


「かけてくれてるんだ」


 こんなのどこにでも売ってるじゃない、と渡したときにツンと唇を尖らせていたあざみちゃん。そんなことを言いながらも飾ってくれていることに、ふっと笑みがこぼれた。

 ドリームキャッチャーは悪夢を払ってくれるらしい。もしもあざみちゃんが悪夢を見ているとしたら、それを払ってくれないか。

 壁から外したそれを枕元に置く。そっと網目に指を這わせて、願って目を伏せた。




「突然目覚めなくなる病気というのは、過去にもいくつか事例があるらしいけど」


 薄命先生はそう言って引っ張り出してきた資料を眺めながら言った。連絡なしの突然の訪問にもかかわらず、先生は親身になって相談に乗ってくれた。


「クライン・レビン症候群。眠れる森の美女症候群とも名付けられている病気でね。突如として長い眠りに落ちてしまい、中々目覚めない。今の一縷さんの症状と似ている」

「じゃああざみちゃんはその病気に……?」

「断定するのはまだ早い」


 薄命先生が考え込むように顎を撫でた。一拍置いて、実はね、と彼は続ける。


「他にも、一縷さんと同じようにずっと眠ったままの人がいるらしいんだ」


 えっ、と息を呑んだ。膝の上で拳を握り、先生へと身を乗り出す。


「うちに入院している方から話を聞いたんだ。お孫さんらしいんだけどね。半月前、家にいるとき突然倒れて今は病院に入院しているらしい。別の人のお孫さんも塾で同じような症状になって、同じく入院しているそうだ。それぞれ半月前と、一週間前だね」

「二人とも目が覚めてないんですか?」

「一人目の方は一昨日目が覚めたらしい。特に変わったところはないようだが、念の為にまだ検査中らしいよ。自分の身に何が起こったのかも、よく分かっていないみたいだが」


 突然深い眠りに落ちて目覚めなくなる。それが薄命先生のいう病気だとするのならば話は終わるが、こうも短期間の間に続けて何人もの人間が眠ってしまうことなどあるのだろうか。

 何かが関係しているに違いない。しかし、それが何かは分からない。……今はまだ少人数だが、もしかするとこの先更に多くの人間が起きてこなくなってしまうこともありうる。

 特殊な病気が蔓延しているのか、それとも、その三人に何か共通点があるのか。


「そろそろかな」


 ふと薄命先生の言葉に思考を停止させた。予約が入っているんだよ、と先生が私に微笑む。


「じゃあ私は出ましょうか」

「いいや、大丈夫さ」


 ん? と私が首を傾げたのと同時。頃合いを見計らったかのように扉がノックされた。そして返事を待たず、押し開けるようにして二人の人物が入室する。

 仁科さんとネズミくんだった。冬の寒さに合わせたもこもこの厚着をしたネズミくんが、私の姿を見てパッと顔を輝かせ駆け寄ってくる。その体を抱き止めてくるくると回ると、彼は甲高い歓声を上げて喜んだ。軽いけれど、前よりも重くなっている。元気な証拠だ。


「おねえちゃん、ふく、ちがうね。これしってる! スーツっていうんでしょ、スーツ!」

「大正解! よく知ってるね」


 珍しそうにスーツを触るネズミくんの横から、仁科さんも珍しそうな顔で私の服を覗き込んできた。白いパーカー一枚を着た仁科さんの頬は寒さに赤く染まっている。


「これからお葬式でもあるの」

「喪服じゃないんですから……。仕事ですよ。これから、ちょっと正装で向かうところがあって」


 ふぅん、と興味なさそうに仁科さんは頷いた。

 ボディーガードさんから連絡があったのは昨夜のことだ。この前ティパちゃんから伝えられた、別件のライブ護衛依頼。その答えが聞きたいと今日この後呼び出されている。

 あのときは無理矢理私を追い出すようなマネをしておいて、今日呼び出してくるなんて何の心境の変化だろう。よく分からないが、いかねばならない。


「これなーに?」


 ネズミくんがスーツのポケットから取り出したものを見せてきた。白い包装紙に包まれたキャンディー。そういえば、以前ティパちゃんからもらったとき入れっぱなしにして忘れていた。

 キャンディーは好き? とネズミくんに訊ねる。だが彼はひくひく鼻を引くつかせると、唇を尖らせてキャンディーを仁科さんの手に包み込ませた。


「マスターこれあげる」

「え、いらない」

「はいあーん」


 有無を言わさずネズミくんは包みからキャンディーを取り出し、仁科さんの口にぐいぐい押し付ける。君には糖分が必要だと思うよ、という薄命先生の言葉に促されたのか、仁科さんは面倒そうに口を開けてキャンディーを食べた。

 コロコロとキャンデイーを口内で転がしていた仁科さんが、ふと怪訝に眉を顰めた。一瞬頬の動きが止まる。


「嫌いな味でした?」

「……………………」


 彼は黙って顎を動かし、キャンディーを噛み砕く。それから私に言ってきた。


「これ食べた?」

「え? いいえ?」

「ならいい」


 話は終わったとばかりに仁科さんは私から顔を逸らす。ちょっと待った、とその肩を掴んで引き留めた。


「何が言いたいんですか? そのキャンディーに、何かあるんですか?」

「……知りたい?」

「教えてください」


 不穏な空気が漂う。仁科さんが私に向き直って、それじゃあ、と口を開く。

 じわじわとした予感が胸の中に生まれていた。ティパちゃんからもらったキャンディー、怪しい態度のボディーガードさん達、公にされないライブ。

 仁科さんが告げた。


「多分、変な薬が入ってる」

「薬……?」

「麻薬とか、覚醒剤とか、そういうタイプのもの」


 一気に空気が凍り付いた。なんだって、と薄命先生が驚きに声を上げる。私も同様に目を見開いて仁科さんを見つめた。ネズミくんは一人呆けた顔で私達を交互に見つめている。包み紙を手で弄びながら仁科さんは続けた。


「調べてみる? そんな多量には入ってないと思うけど、少しなら入ってるはずだよ、そういう薬」

「キャンディーに薬って……どうして分かるんですか。それに、そんなことして何の意味が……」

「これ誰からもらった?」


 私の強張った反応を見て仁科さんが小さく顎を引いた。頭の先からつま先までジロジロと眺めた彼は、溜息にも似た息を吐く。

 そして言った。


「これから行こうとしている所。行かない方がいいんじゃない?」





「遅かったのね。待ってたわ」


 指定された場所は森の傍にある大きな施設だった。小さな小学校を改造して使っているような造りの建物だ。入口の受付をしていた職員さんに場所を尋ね二階の会議室らしき場所に着くと、椅子に座ったままティパちゃんは両手を広げながら笑った。すみません、と頭を下げつつ私は周囲を見やる。幾人かのボディーガードさん達が警戒の目を私に向けている。椅子を勧められたが断ってその場に立った。

 仁科さんにはああ言われたものの、呼び出された手前行かないわけにはいかなかった。それに聞きたいこともあったから。しかしこの状況はまさに蛇に睨まれた蛙。訊ねたいことを、簡単に言い出せるような雰囲気ではない。


「疲れたでしょう。駅から大分離れてるもの。甘い物でも食べる? それとも、喉が渇いたかしら」


 ティパちゃんは机に並べられたキャンディーと栄養ドリンクを差し出してきた。椅子と同様こちらも断ると、ティパちゃんは不服そうな顔で私を見上げた。


「普段から運動してるので。これくらい、疲れないんですよ」

「そう。ま、何もしないで強いわけじゃないものね」

「ええ」

「護衛の件考えてくれた?」


 彼女が本題を切り出した。この場の全員の視線が私を射抜く。けれど私はすぐ彼女の問いに答えず、挙手をして質問し返した。


「その前に一つ聞かせてくれませんか」


 問いに答えろ、と誰かが言った。それを制するようにティパちゃんが彼らをじろりとねめつける。静かになったのを確認して、彼女は私に視線でどうぞと促した。


「ティパさん。あなた、そこに置いてある栄養ドリンクのイメージアイドルなんですよね」

「そうよ。最近は色んなドラッグストアやコンビニに並んでるし、売れ行きもまずまずだって」

「原材料は?」

「原材料って……そりゃ、ラベルに書いてある通りだけど」

「本当はそれ以外の物も入ってるんじゃないですか。例えば、違法な薬品とか」


 何言ってるの、と呆れたように彼女は笑った。私の頭がおかしくなったとでも思っているような顔だ。


「面白い映画でも見た? 妄想癖が激しいわよ」

「私の友達がティパさんの大ファンだって言いましたよね」


 以前あざみちゃんへのサインを彼女に頼んだ。結局何だかんだあってサインはあざみちゃんに渡せていないまま、私の部屋に置きっぱなしになっている。


「その子もよくそのドリンク飲んでいたんです。でも今、その子、目が覚めない病気にかかっていて。ずっと眠り続けたまま、目を覚まさない」

「可哀想に。早く良くなるといいわね」

「その子だけじゃない。知ってますか。今、明星市の受験生の何人かが同じ症状に陥っていること」


 仁科さんからキャンディーのことを聞いてから、薄命先生に訊ねたことがある。あざみちゃんと同じ症状にかかった二人の人間がどういった年齢、職業なのかだ。

 結果は中学三年生と高校三生、どちらも真面目な性格の受験生でありティパちゃんのファンらしい。あざみちゃんと似ていた。勉強に勤しむ学生で、ティパちゃんのファン。

 じわじわと浮かび上がってきた疑惑がある。三人の共通点。


『集中力向上、眠気覚まし、疲労回復。受験生のあなたに!』


 それがあのドリンクのキャッチコピー。

 麻薬入りキャンディーと同様に、もしもあの栄養ドリンクに怪しい薬が入っていたら。それを飲んだ人間が、あざみちゃんと同じように眠ってしまうのだとしたら。


「……私のせいだって言いたいの?」


 ティパちゃんが声を上げて笑った。けれど、目には一切光がともっていない。


「憶測で人を悪者にするのはよしてよ。そんなことして、何になるってわけ?」

「そこまでは分かりません。でも、お金儲けとか、自分のファンを増やすためとか……色々あると思って」


 彼女はまだしばらく笑い続けた。甲高い声がずっと部屋に響いているのは、何だか不気味だった。

 気圧されるように私は一歩後ろに下がる。だが背後に感じた気配にハッとなって振り返った。一人のボディーガードさんが私の後ろにいた。サングラス越しの目がどんな感情を湛えているのかは分からない。だが彼から感じる威圧感は、決して好意的なものではない。

 彼の手が私の手を掴もうと伸びてくる。咄嗟に身を翻してそれを避け、出口へと下がろうとした。だが扉の前に立ちふさがる数人を見て頬に汗を滲ませる。彼らは一様に屈強な体躯をしており、スーツの上からでもその厚い筋肉が見て取れた。


「あなたは強いわよね」


 ティパちゃんが唐突に笑うのをやめてそう言った。彼女が手を招くと一人のボディーガードが彼女の傍にかしずいた。彼はサングラスをかけていない。その目はどこか、恍惚とした光を帯びてティパちゃんを見上げている。

 異様だと思っていた。ティパちゃんのことを様付で呼んだり、あまりにも周囲への警戒を強めたり。確かに彼女は有名なアイドルだ。だがそれだけじゃない、異様な雰囲気が彼らには漂っていた。

 例えていうのなら、神様として崇めているような。


「でもこの場の全員を倒して逃げられるほどじゃない」


 連れて行きなさい、と彼女が命じた。途端周囲の二人が私の両腕を掴む。容赦なく強烈な力で締め上げられ苦痛に呻くが、彼らの力は弱められなかった。扉を開けて廊下に出される。このまま外に放り出されるだろうかと淡い期待を抱いたものの、彼らは出口と逆方向に歩き出した。

 後ろから残りの人達もついてくる。その中で彼らに囲まれるように歩くティパちゃんが言った。


「ライブの話を聞いてここに来た時点で拒否権はないの。はいかイエスか、それだけが聞きたいわけ」

「……来なかったところで私を探し出して無理矢理仲間に引き入れるつもりでしたか?」

「よく分かってるじゃない」


 イブのライブというのがどういったものかは分からない。けれど碌なものじゃないはずだ。薬入りのキャンディーを美味しそうに食べるティパちゃんが、刺激的だと言ったライブ。過激なものであることは間違いない。

 私をその護衛に誘ったのは本当に口を滑らせただけなのだろう。流石にそんな情報を漏らし、あっさり私を解放してくれるわけがない。拒否していたとしても無理矢理私を探し出して捕らえようとしたはずだ。


「どうせ自分からのこのこやって来ると思ったけど、あなたキャンディー欲しがらなかったし。食べてないんでしょう、前にあげたやつ」

「やっぱりあれに薬が入ってたんですね」

「ええ。この子達も、もうキャンディーがないと生きていけないみたい」


 そう言って彼女がボディーガード達を見る。そういうことかと唇を噛む。あまりにも従順だと思っていたが、彼らもまた、ティパちゃんに騙されて中毒者になってしまった者達なのだろう。だからこれほどまで薬の提供者であるティパちゃんに陶酔している。それだけにしては、少しいきすぎな気もするけれど。

 これから私をどこに連れていく気だろうか。彼女に忠心するような教育でもさせる気だろうか。拷問とか、投薬とか。想像しただけで身震いする。恐らくこの施設自体、彼女達の息のかかった拠点なのだろう。

 両腕を掴まれたまま私は廊下を眺めた。一直線の廊下。突き当たりには窓があり、横に上下へ繋がる階段がある。今歩いている場所にいくつもの窓があり、そこから外の明るい日差しが廊下に差し込んできていた。

 廊下に落ちた幾人もの影を見ながらじっと考える。歯を食いしばり、私は左腕を掴むボディーガードに向かって頭突きを繰り出した。

 上手く顎に衝撃を加えられたらしい。彼はぐっと呻いてよろめいた。その隙に腕を思いっ切り捻る。痛みに呻く彼から腕を抜くのは簡単だった。即座に怒号を上げて右にいた男が腕に力を込めた。血管が破裂するのではないかという圧迫感に顔を顰めつつ、私は右腕を捻ってみる。しかし腕を抜くことはできない。当然それを分かっていた私は、空いた左手の指を彼の目に突き立てた。反射的に目を押さえた彼に二度目の頭突きを繰り出し、腕の拘束を逃れた。


「捕まえて!」


 ティパちゃんの鋭い声が飛ぶ。背後のボディーガード達は出口へは向かわせまいと厚い壁を作り、数名が私を捕らえようと襲いかかってくる。猛然と私は前方へダッシュした。目的は後ろの出口でも階段でもなく、突き当たりの窓だ。

 素早く鍵を開けて窓から身を乗り出す。そのまま飛んだ。追手の手が私の髪を掠めるも、ギリギリで捕まることはなく、私の体が宙を跳ぶ。すぐに体が大木へと引っかかった。枝葉に肌を傷付けながらも、上手く体を地面に滑り下ろす。

 私だって何も考えてないわけじゃない。外を通っている間、ザッと建物の周囲を観察して逃げ道を確認した。それに……。


「いたぞ!」


 施設の職員らしき人が私を見つけて声を上げた。すぐに近くの人間が集まり、私を追ってくる。予想通り。この施設全体の人間がティパちゃんの味方なのだろう。校庭のような造りの庭にでる。出口まではあと少しだが、私のすぐ後ろに追手の手が迫っていた。

 突然出口から、激しいエンジン音を鳴らして黒い車が姿を現した。呆気にとられる職員達に、私達の方向に向けて車が突っ込んでくる。悲鳴を上げて彼らが咄嗟に横に飛び跳ねた。

 だが車は私の目の前で急停止する。目と鼻の先に止まったそれの助手席が開き、運転席にいた男性が私を一瞥した。躊躇うことなく助手席に飛び乗り、同時に鍵を閉める。お願いしますと声をかけると、男性は小さな頷きをもって車をまた急発進させた。

 職員達が私を逃がすまいと窓ガラスにくっ付いてくる。しかし、大きく揺れる車に弾き飛ばされ、地面へと倒れていく。捨て身のようにボンネットの上に飛び乗ろうとした人間を、運転手さんが巧みなハンドル捌きで軽く小突き、腹を押さえて蹲る職員の横を滑るようにして抜けた。


「…………ふぅ」


 追手が来ないことを確認して私は息を吐いた。こちらは車だが、相手は徒歩だ。追いかけようにも追いかけてこれないだろう。

 施設に止まっていた車は数台しかなかったが、タイヤに穴を開けるのは時間がかかった。こんな状況に陥ったときのためにとここに来たとき保険で行ったことだが、やっておいて良かった。


「ありがとうございます、運び屋さん」

「仕事ですから」


 事前に呼んでおいて待機させていた運び屋さんは、簡素な言葉を返事とした。

 車は静かに走っていた。まるで、先程の混乱などとっくに忘れたかのように。

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