第81話 修学旅行
しまってあった携帯が着信を告げたのは、お喋りオウムを出てすぐのことだった。
普段、仕事中に鳴ってはまずいからとマナーモードにしている携帯。これから仕事に向かうのだからいっそ電源を切ってしまおうかと名前表示を見た途端、私は弾かれたようにそれを耳に当てた。
「もしもしっ、お母さん?」
お母さん、と浮かんでいた表示画面。あっちから電話がかかってくるなんて久しぶりだ。和子? と少し懐かしさも覚えてしまうお母さんの声が聞こえる。
「うん、私。どうかしたの? 何か用事でもあった?」
『会社の人に言われて気が付いたのだけれど。あなた、もうじき修学旅行でしょう』
修学旅行、小さな声で繰り返す。そうだよと同意の声を投げかけた。
今年二年生である私達の学年は、文化祭が終わってすぐ修学旅行が控えている。まだどこに行くかという発表も何も決まってはいないが、皆、浮き足立ち始めた頃だ。
行くの行かないの、と簡素にお母さんが尋ねる。即答はできなかった。曖昧に言葉を濁す私を特に気にした様子もなく、電話の向こうの声はこう続ける。
『積立は払ってあるから、もし行かないんだったらそのときは連絡しなさい。来月分の生活費と一緒に旅費の方も振り込んでおくから、行くならそれを使ってね』
「うん、うん……分かった。ありがとう」
じゃあね、とお母さんはすぐ電話を切った。連絡事項だけを述べた最低限の電話。切れた画面を見下ろして溜息を吐き、そこで横に立っていた東雲さんがこちらを見つめていることに気が付いた。
「すみません仕事前に」
「修学旅行か」
「はい、今年は十一月の中頃にあって」
「行くんだろう?」
どうかな、と私は苦笑した。
文化祭は楽しかった。クラスの皆とも少しずつ打ち解けることができたし、祭自体を楽しむことができたし。けれどそうは言っても修学旅行となればまた話は変わってくる。
一年生時から誰もが既に仲良しのグループができあがっている状態。あぶれ者の私を受け入れてくれるところなどあるのだろうか。
「せっかくだ、行ってきたらどうだ。高校が終われば次は大学か就職か、どうにせよ修学旅行なんてもう機会がないんだから」
「東雲さんは高校のときどこに行ったんですか?」
「俺は沖縄だったな」
太陽の照りつける白い砂浜と、透き通るような青い海。咲き誇るハイビスカスに屋根の上のシーサー。東雲さんは沖縄で、冴園さんや美輝さんと海で泳いだりしたんだろうか。
沖縄もいいなぁ、とぼんやり思う。私達の代はどこに行くのだろう。考えるといい、という東雲さんの言葉に頷きながらそう考えた。
五時間目と六時間目を使ったロングホームルームで修学旅行の話し合いが行われる。
四月に取っていたアンケートの結果、行き先は広島になったらしい。三泊四日の修学旅行だ。平和学習として一日目は原爆ドームや記念公園に向かい、二日目は厳島神社に行き……。金井先生が職員室で渡されたらしき資料を見ながら説明する。
話し終えた先生は出席簿と全員の着席を確認し頷いていた。幸か不幸か、今日は全員欠席することなく教室に揃っているようだった。
「では、グループ決めをしましょう」
待ってましたと言いたげな歓声と、沈鬱な溜息の両方が聞こえてくる。勿論私は後者だ。
「ええと、では五人か六人ずつのグループを作って。男女混合で、ちょうど三対三になるようにバランスを……」
金井先生が喋っている最中に既に皆席を立って移動を始めていた。早く話しかけなければ仲が良い子と離れてしまう。そんな危機感を抱いているのか、少し焦り気味な顔がいくつも見える。
仲のいいグループにいても大変なんだなぁ、と私は自席の傍に立ち尽くしてぼんやりとその様を眺めていた。
どうせ一緒に組もうと話しかけられるような子もいない。どこか人手の足りないところに余り者として入れられるのだろう。だったらここでぼーっとしている方が得策だ。
「和子」
突然背後から肩を叩かれる。面倒な心境に陥っていた私は、潤んだ両目を瞬かせて振り向いた。
「グループ決まってないなら、私達と組まない?」
早海さんと鈴木さんが微笑みを私に向けていた。何度も瞬きを繰り返しながら、でも、と私は言葉を詰まらせる。
「二人とも他の子と組むんじゃないの?」
「私は別に、そういう特定の子とかはいないんだ。でもグループになるなら、秋月とがいいな」
「わたしもだよ。それにいつものグループの子達とは、人数的にどうしても別れちゃうし。だったらいっそ普段遊ばない子達と組むのもいいかなって思って」
「……私でいいの?」
二人は何を言っているのかと言いたげに顔を見合わせ、くすりと笑いながら声を合わせて、和子が良いんだよ、と言った。
鼻の奥がツンと痛くなり、思わず俯いた。駄目だったかなと不安そうな声を出す鈴木さんに勢い良く首を横に振り、それから今度は何度も縦に振った。
「うんっ、よろしくね、二人とも!」
二人の手を取って喜びに顔を破顔させた。
その後人が足りなかった新田くんと荒木くんとグループを組み、五人グループとなった私達は修学旅行の話で盛り上がる。自由行動でどこを回ろうか、神社に行ってみたいな、と語らう。
教室中が嬉々とした喧噪に包まれていた。その合間を縫うように、あの、と金井先生が声を発する。
「最後に一つ、お話がありまして」
先生の声を聞こうと声を潜める人は少なかった。まだ大分うるさい教室に、先生の言葉が投げられる。
「基本的に行動はグループで行ってもらうことになりますが、三日目に泊まるホテルの部屋割りは少し特殊でして。男女別、名簿順に四人ずつが同室という形になります」
わっと不満のブーイングが沸いた。それまで先生の話も聞こうとしていなかった子達が一斉に怪訝な視線を金井先生に注ぐ。どうしてですか、と連発する疑問に汗を滲ませながら金井先生が答えた。
「えー、対象のホテルは前回広島に向かった先輩達も泊まったホテルなんですがね、その際に少し問題を起こしてしまいまして、本校が利用する際にはそのようなルールを指定されまして」
「じゃあ別のホテルを取ればいいんじゃないですかー?」
「えっと、その、それは予算や日程の都合上難しくて、ええ……」
顔が青いぞ和子、と心配そうに早海さんが顔を覗き込んできた。大丈夫だよと答える声は弱々しかった。
名簿順の寝泊り。仲が良くもない、話したことのない子達と同室になる。それはまあ仕方がないことだし別にいい。それよりも問題なのは。
チラ、と窓際に視線を向ける。何故かこちらを見ていた一条さんとバッチリ目が合い、私達は同時に視線を逸らした。
秋月和子と、一条えりな。問題なのは名簿で一つ違いである私と一条さんが、同室になるということだった。
「着替えでしょ、お風呂セットでしょ、それから携帯の充電器でしょ」
グループが決まってからは残りの計画もスムーズに進み、気が付けば修学旅行当日となっていた。出る前にもう一度荷物を確認する。集合時刻まではまだ余裕があるものの、早く言って早海さん達と会いたくて、いそいそと仕度を整えた。
旅行用のバッグを背負い、行ってきますと静かに声を上げて言えを出る。集合場所の駅前広場には既に半数以上もの生徒が集まっていた。明け方の夜も明けたばかりの時間帯、眠そうに目を擦ったり、地面に置いたバッグに座って眠りこけている人までいる。グループの数人を見かけ、おはようと手を振りながら駆け寄った。
電車で市外に向かい、そこから新幹線に乗り込む。談笑したりトランプをしている間に新幹線が広島に着いた。広島の地にはしゃぐ皆に、先生が指示を出す。
「えー、まず班の全員が揃っているか確認するように! 一般の方に迷惑をかけないようにするんだぞ。現地の高校生と問題を起こすなんてもってのほかだ! それから、杏落市なんかの治安が悪い所は絶対に行かないように……」
先生の話を半ば聞き流して、私はふと隣に立つグループの皆を見る。皆興奮を抑えきれないようなキラキラと輝く目で周囲を見回している。荒木くんと目が合い、二カリと微笑まれた。
今日から始まる修学旅行。あれほど行きたくなかった旅行が、今はとても楽しみに思えた。
疲れたぁ、とベッドに寝そべった鈴木さんが大きく息を吐く。三つ編みを解いてシーツの上に長い髪を泳がせながら、鈴木さんはお腹を擦って笑う。
「夕食の牡蠣美味しかったねぇ。流石名物なだけあるよ」
「公園の景色凄かったー。明日は厳島神社でしょ? 何かお守りとか買おうかな」
修学旅行一日目が終わり、後は寝るだけとなった時間。部屋でまったりしながら私達は早海さんがお風呂から上がるのを待っていた。
ベッドに腰かけて今日の思い出を語り合う。しばらく話していると、不意にどちらも口を開かない静寂の間が生まれる。その沈黙の中に、廊下から、数人の女子らしきくすくすという笑い声と廊下を歩いていく音が聞こえてきた。
大浴場にでも行くのかな、なんてぼんやり考えていると、寝転んだままの鈴木さんが天井を見上げたまま言う。
「男子の部屋にでも行くのかな?」
「ああ、そっか。そういう人いるもんね」
「修学旅行の醍醐味だよー。秋月さんどうする? わたし達も新田くん達の部屋行く?」
「行っても何するの?」
「枕投げとか」
思わず吹き出して笑ってしまった。修学旅行といえばそれでしょと頬を膨らませる彼女に、確かにそうだねと肩を竦めて返す。枕投げをするというのはよく聞くけれど実際にやる人なんていないんじゃないだろうか。
何か修学旅行らしいことしたいね、と鈴木さんは同じことを繰り返す。修学旅行らしいことって何だろう。
「肝試しとか、夜遊びとか」
「えー、危ないよ」
「それか……恋バナ!」
んぐ、と言葉を詰まらせる。私の態度の変化に目敏く気が付いた鈴木さんは、おぉ? と疑惑と期待の入り混じった表情を浮かべ、立ち上がって私のベッドまでやって来た。顔を逸らす私の肩を彼女は遠慮なく揺する。
「お、何ですか秋月さん。図星ですか? 誰々、クラスの人? 新田くんとか荒木くんとか?」
「グループの人じゃないよ……」
「じゃあ他のクラスの人? それか先輩、昴先輩とか? それとも後輩とか」
学校の人じゃないよ、と答えようかとも思ったが、それ以上言うとボロが出てしまうかもしれないと口を閉ざした。元々答え自体にさほど興味はなかったのか、鈴木さんは他のクラスの人かなぁ、と声を弾ませて顔を輝かせた。
「いいなー、恋! わたし今好きな人もいないから羨ましい。で、その人はどんな感じの人?」
「どんな感じって……そうだね、まず格好良いでしょ? 普段少し冷たいところもだるんだけど、でも私のことをちゃんと見てくれてて、それから一番はやっぱり優しいところ。後は料理が上手くて……」
ふと我に返って鈴木さんを見る。微笑ましさの含まれたニヤケ顔が私へ向けられていた。
ベタ惚れですね。そう呟かれ、私は自分の顔にみるみるうちに熱が集まっていくのが分かった。ベッドに倒れて枕に顔を埋め、ジタバタと足で空気を蹴る。
「あーもう! もういいでしょ! はい、終わり! 他の話しよう!」
「……何してるんだ二人とも」
いつの間にかお風呂から上がった早海さんが、髪をタオルで拭きながらやって来た。部屋で騒いでいる私達を見て怪訝そうな顔をする彼女に鈴木さんが身を乗り出す。
「今ね、秋月さんの好きな人の話してたの!」
何で言っちゃうの、と声を荒げる。対してそんなことを言われた早海さんは一瞬目を丸くしてから、静かに自分の口元に手を上げた。
「好きな人か」
彼女の細い指先が唇をなぞる。視線を逸らす彼女の頬が赤らんだように見えるのは、多分お風呂上りのせいだけじゃない。
意味深なその反応に、鈴木さんがハッと電撃が走ったように体を硬直させた。直後にガクリと頭を抱え、演技チックな身振りで悲しげな声を出す。
「もしかして好きな人がいないの……わたしだけ!?」
ぬわああ、と鈴木さんが頭を振る。項垂れる彼女を見て、私と早海さんは思わず顔を見合わせ、同時に困ったようにはにかんだ。
「秋月ー、こっち来てみろよ、この饅頭美味いぜ!」
二日目は学年全体で厳島神社を巡った後、自由行動となった。私達のグループはとりあえず近くの商店街でお土産を物色する。ご当地限定文房具などを眺めていると、すぐ近くにいた新田くんが手招きをして私を呼ぶ。
もみじ饅頭を売っているお店の前で、新田くんは出来立てのもみじ饅頭を頬張っていた。一つもらって私も食べてみる。
「あ、美味しいっ」
「なー? こっちのカラス麦クッキーとか川通り餅も中々……」
新田くんの腕に下がった袋には、商店街で買ったたくさんの食べ物が入っていた。お前食ってばっかだなとキーホルダーを眺めていた荒木くんが呆れたように溜息を吐く。
お土産屋には色々な商品が並んでいる。キーホルダーにお菓子にシャツに。このご当地ドリームキャッチャーなんてあざみちゃん喜ぶかな、こっちのはっさくゼリーとか仁科さんとネズミくんは食べるだろうか。
「秋月さんこれとかどう?」
鈴木さんが私の眼前に何かを突き出してくる。少し歪な雫型のストラップだ。淡いピンク色のキラキラとした装飾が施され、可愛らしい。と、彼女はまた別のストラップを見せてくる。それは今見たものと同じ形のものだ。色が水色なこと以外、すべて似ている。
ニヤリと鈴木さんがストラップをくっ付ける。雫型はピタリと合わせられ、ハート形になった。
「ペアストラップ。ほら、好きな人へのお土産にどう?」
「え! し、しないよそんなの!」
「いいじゃん、これ一つでも使いやすいしさー、さり気無く携帯に付けたりしたら相手も秋月さんのこと気にしてくれるかもよ?」
だから買わないって、と顔を赤らめながらそっぽを向く私を鈴木さんがからかう。
東雲さんは今頃何をしているだろうか。仕事中だろうか、それとも家で一人休んでいたり、冴園さんと一緒に遊んでいたりするだろうか。ペアストラップは買わないけれど、二人にはどんなお土産を買っていこう。
皆、お土産喜んでくれるといいな。




