第80話 演劇
『本日は道仏高校文化祭にお越しくださいまして、誠にありがとうございます』
幕の外から聞こえてくる一年生の子の声。密やかな騒めきの止まない体育館に、キィンとマイクのハウリングが響く。
舞台前の挨拶を聞きながら、舞台上で私達は右往左往していた。セットの位置は大丈夫か、小道具の準備は大丈夫か、あちこち走り回って確認する。ドレスを着た一条さんが何度も自分の顔を見てメイクの確認をしていた。
「ねえちょっと、メイク崩れてない?」
「大丈夫大丈夫。皆バッチリ、格好良く決まってるよ」
鈴木さんが私達全員を見て微笑む。そう言う彼女は慣れた手付きで私達の衣装の乱れを整え、後ろに撫でつけた髪をサッと直す。無造作にセットした掻き上げスタイル、身に纏った西洋風の男装、眼鏡を外しコンタクトを入れた鈴木さんから、普段の面影は一切ない。
男役を演じる私と鈴木さんは一年生の女の子にメイクを施してもらっている。男装するならそれなりのメイクを、と張り切った彼女の腕前は素晴らしかった。最終確認として鏡で自分の姿を確認するが、何度見ても自分の顔だと思えない。
「そろそろ開幕かな」
導入の挨拶が終わって聞こえてくる拍手を耳に、真っ黒な紳士服を着た一年先輩が言った。開幕、という言葉に一層緊張が増す。台詞を忘れてしまったらどうしよう、失敗したらどうしよう、そんな不安に胸をぐっと握った。
大丈夫、と鈴木さんが私達の不安気な姿を見て白い歯を見せた。そのとき、幕の外から一年生の二人がやって来る。配置に着こうとする彼らを呼び止め、鈴木さんはくるりと私達に円陣を組ませた。
「今までの成果を信じてやれば、きっと成功する。精一杯楽しめば大丈夫! さあ、劇、始めるよ!」
ぐっと手の平を合わせて小さなかけ声を合わせる。それから皆は散り散りに散らばった。一年生の二人は照明と音響それぞれの方向に走っていく。舞台の上には鈴木さんが残り、私達は袖へと引っ込んだ。舞台上のみに付いていた照明も消え、辺りは暗闇に包まれた。
幕が上がる。観客席から聞こえていたお喋りは段々と静まり、シンと水を打ったような静寂が広がる。それを待っていたかのように鈴木さんへとスポットライトが照らされた。
「『ああ、馬鹿げた恐怖で、全ての顔が警官に見える!』」
私達の舞台が始まった。
暗転する舞台。再度付いた照明が照らすのは、舞台の中央で椅子に座り、絵画に筆を走らせる私の姿だ。昨日美術室で見た、一年先輩が描いた小道具の絵。色を塗るフリをして乾いた筆を走らせながら、私は大きな声で台詞を言う。
「『番人よ、そこで何をしている』」
「『アンジェルスを唱えているのです。……おや? この絵は…………なんと、あの女の肖像か!』」
足りない登場人物の声を、放送室にいる音響役の子が代わりに喋る。私は筆を動かして台詞を続けながら、チラリと横目で会場を見た。
来客用に設置された椅子はほとんど埋まっていた。道仏高校の学生、教師、来賓の大人、子供……。何十もの視線が私に注がれている。中には見知ったクラスメートの顔もあり、少し照れくさかった。
「『この女は美しい。だがこうして他の女を描いているとしても、私の想いは、愛するトスカ、君だけに注がれているのだ!』」
何度も練習した台詞だって、この人混みの中に掻き消えてしまいそうで、いつも以上に大声を出すことに必死だった。照明は思っていた以上に熱く、じわりと汗が滲んでしまう。メイクが崩れないかが心配になるほどだ。
緊張する私とは裏腹に、出番になって舞台にやって来た一条さんは涼しい顔をしていた。綺麗な笑顔を会場に振りまき、会場から聞こえてきた彼女の名を呼ぶ声に手を振り返す。鮮やかな赤色に塗られた唇が台詞を喋る。遠くまで通る声、力強さに満ちた演技。主役に張り切る彼女は本番でもその姿勢を崩さなかった。
恋仲であるカヴァラドッシの浮気を疑うトスカ。カヴァラドッシ演じる私はそれを慰めるべく、甘い言葉を彼女に囁く。
「『君以外の女などいない。誓おう、私の愛しい人』」
「『聖母様の前でキスをするの?』」
「『駄目かい?』」
「『いいえ、彼女はとても優しい方だから』」
私は一条さんの頬にそっと唇を近付ける。寸前の所で止めるが、観客席からはキスをしているように見えるだろう。キャアッと黄色い歓声が上がる。顔を離すとき、一瞬一条さんが顔を顰める。私も思わず苦笑し、肩を竦めた。原作通りにキスをしていたら殴られていたんじゃないだろうか。
劇は進み、中盤に入る。檀上で演じる一条さんと一年先輩を見ながら、舞台袖で台本を読み返す。
今のところ劇は順調に進んでいた。会場にも更に人が集まってきているようで、最初に見たときより明らかに人数が増えている。席に座れず立って見ている人達もいる。思わず頭を押さえ、感動と緊張が混じった溜息を吐いた。
「凄い人だね、くらくらしそう。劇が好きな人ってこんなにいるんだ」
「歩くのに疲れて座りに来たってだけの人も多そうだけどね。でも、役者目当てで来たって人もいるみたいだよ」
「ああ、一年先輩のファンとか……」
準備中に、先輩が劇をやるんだと騒いでいる子も見かけた。一年先輩のファンは多い。彼目当てに来る子だってたくさんいるだろう。
けれど鈴木さんは首を振る。子供っぽい笑みを浮かべ、檀上にいる一条さんに指を差す。それから私にも同じように視線を向けてきた。
「一条さんの友達や後輩の子とかもいるみたい。それから、秋月さん目当ての人もね」
「え、私? どうして」
「なんでも、格好良い人がいるって話題になってるみたい」
それはなんとも複雑だった。可愛いと言われるならまだしもそう言われるなんて、どう反応していいか困る。
舞台から一条さんが捌け、一年先輩の独演が続く。そろそろだよ、と鈴木さんの背中を叩かれ、私は頷いて舞台上に出た。
「『暴力に任せ私を連れてくるなど、大した人非人だなスカルピアよ』」
「『騎士殿、どうぞ椅子に腰かけお寛ぎください』」
彼の有無を言わさぬ力のある言葉が私の耳朶を打つ。西洋風の黒い衣装、不敵な笑み。役に入りきった一年先輩はマントを翻しながら、ねっとりとした重みのある声で私に言葉を投げかける。ほう、と一年先輩の演技にうっそりと溜息を零す様子を観客席からもいくつか感じられた。
演技だと分かっているのに、目の前で行われている劇は本物なのだと錯覚するような雰囲気。その空気を生みだしているのはセットや音楽だけじゃない、一年先輩自身が描く演技にも、きっとその力はあるのだ。
「『答えなさいカヴァラドッシ。逃げ出した政治犯、アンジェロッティはどこにいる? あのネズミをどこに匿った?』」
「『知らない!』」
「『食べ物の慈悲を認めないと? 衣服は?』」
「『認めない!』」
やっぱりこの役は一年先輩に最適だ。愛する女のために非道なことを平気で行う男スカルピア。少なくともこの学校に、彼ほどこの役が当てはまる人はきっといない。
「『別宅の隠れ家は? そこにネズミが隠れていることは?』」
「『認めない! 認め』……うぇっ!?」
「和子ちゃん?」
何気なく観客席に落とした視線。そこに映った光景に、私は思わず体を硬直させた。混乱で喉が詰まって言葉が出てこない。台詞を忘れたわけではない。舞台袖から不安気にこちらを見る鈴木さん、そして苛立った顔を見せる一条さんにも答えることはできなかった。
視線の先、立って演劇を観戦する人々の中。他の人々より頭一つ程背の高い二人の男性がこちらを見ている様が見えていた。私と視線が合った彼らは、一人は嬉しそうな笑顔で手を振り、もう一人は無表情を貫いている。冴園さんと東雲さんだ。
「何でここに……」
私が劇をやることも、ましてや文化祭のことすら教えていないというのに。二人の存在に気を取られていると、一年先輩が同じ方向を見て眉をピクリと動かした。
我に返り劇を続けなくてはと思い至る。続きの台詞を言おうと口を開くと、それよりも先に先輩が低い声で言った。
「『愚かな強情だ。白状することで大きな苦しみが避けられぬのを、分かっていないのかね?』」
ぐっと先輩が私の顎を掴んで持ち上げる。私は驚きに丸くした目で先輩を見つめた。台詞は確かに台本通りだが、こんな動作は書いていなかった。思わず後退り、セットのテーブルに両手を突く。
アドリブかと思ったが違う。彼は更に私に顔を近付けてくる。吐息がかかるほど近い距離に頭がパニックになった。キャア、と歓声が聞こえてくる。これも演出の一種だと思われているようだ。
「せ、先輩? あの、こんなシーンどこにも……」
「アドリブだよ」
「いや、あの……っ!」
くっと顎に添えられた手に力がこもる。真剣な眼差しで私を見つめる先輩に、彼は本気でキスをしてこようとしているのだと悟った。
ここで思いっ切り抵抗してしまえば劇がめちゃくちゃになってしまう。私は何も考えられず、体を強張らせて思わず目をキツク閉じた。
「――『マリオ、ここにいらしたのね!』」
ダンダン、と力強く床を踏み付けながら一条さんが袖から飛び出してくる。彼女の出番まであと数個台詞があったはずだが。一年先輩が私にだけ聞こえる大きさの舌打ちをし、私から離れる。擦れ違うようにやって来た一条さんが私の胸に飛び込んできた。良かった、とほっと安堵したのもつかの間、一条さんが非難がましい目でギロリと私を睨んでいることに気が付く。
どう見ても被害者は私だったのではと思うも、恐らくそう言ったところで彼女には関係ないのだろう。観客に気付かれないよう足を小突いてくる一条さんに、私は乾いた笑いを返した。
劇も終盤に入る。スカルピアがトスカが刺されるシーンでは、リアルな血糊と一年先輩の演技に観客席からも大きな悲鳴が聞こえてきた。一条さんが狂気、歓喜、様々な感情へと表情を変え、最後までトスカを演じきる。
主役である彼女を引き立たせるのは私だった。愛する恋人トスカの前で処刑台に立たされるカヴァラドッシ。私はゆっくりと顔を上げ体育館の天井を見上げた。熱く眩しい照明を太陽に見立て、暗い天井を青空だと信じ込む。静かに目を閉じ、音響の子が音声を流すときを待った。
ターンッと長い銃声が轟いた瞬間、私はその場に崩れるように倒れた。頬が体育館の冷たい床にぶつかる。ぐったりと倒れる私の元に一条さんが駆け寄ってきた。カヴァラドッシの処刑は虚偽だと伝えられていたトスカ、だがしかしその処刑は本物だった。恋人が死んでいることを悟り、彼女は悲痛な声で泣き叫ぶ。
スカルピアを殺されたことに気が付いた人々がトスカを捕らえようとやってくる足音が聞こえてきた。一条さんはさっと立ちあがってドレスを翻しながら駆け出すと、高台の頂点に上る。いくつもの椅子を積み上げた、塔に見立てたセットは、作るときに一番時間がかかったものだった。
「『トスカ、あの方の命の支払いは高いぞ!』」
「『私の命で!』」
音響の子が台詞を喋り、それに彼女が答える。頂点に立つ一条さんは決意を露わにした表情で会場を見据え、最後の台詞を大きな声で張り上げた。
「『ああスカルピア、神様の御前で……!』」
彼女の足が足場を離れ、その体が塔の後ろへと落ちて消えた。小さな悲鳴が聞こえる中、倒れている私から見える位置、塔の後ろに設置していたマットに一条さんの体が受け止められたのが見える。
壮大な音楽が流れ、静かに幕が閉じていく。盛大な拍手が体育館中に響き渡る。幕が閉じ切ったのを確認して起き上がった私の元に、興奮に頬を紅潮させた鈴木さんが駆け寄ってきた。凄かったよ、やったね大成功だ、と感情を昂ぶらせる彼女。その様子を見て私達は顔を見合わせ、胸に広がる心地良い達成感に微笑んだ。
瀬戸川さんと恋路さんと見て回る約束があるから、と一条さんが余韻もなしに去って行く。美術部の出し物に行かなければという一年先輩と、今度打ち上げでもしようねと言い残して劇のセットを片付けに鈴木さん達もいなくなった。
劇が終わった後は十分の休憩を挟んでダンスコンテストが開催される。体育館から人が出て行ったりやって来たりする中、私は冴園さん達がいなくならないうちに急いで観客席へと向かった。衣装姿のまま歩く私を見て、演劇の人だ、と近くの人が話している。二人はまだそこにいた。私が近付いてくることに気が付いた彼らが、こっちを見て手を振る。
「二人とも、どうしてここにいるんですかっ!?」
羞恥で顔を真っ赤にしながら叫んだ。私の疑問に答えてくれたのは冴園さんだった。
「スーパーの店頭に文化祭のポスターが貼ってあってさ。確か道仏高校って和子ちゃんの通う高校だったなと思って」
「じゃあ、どうしてこの劇のことはどうして……」
「この間、オペラを見ていただろう? 入口で配られたパンフレットに同じタイトルの劇が書かれていたからな」
東雲さんが渡してきたパンフレット、体育館で行われるイベントの欄に私達の劇も載っていた。よく見れば役者名までも書かれており、しっかりと私の名前も載っている。これは確かにすぐバレるだろう。
驚いたなぁ、と冴園さんがまじまじと私の顔を眺める。そう言えばメイクをしていたのだということを思い出し、ぎこちなく視線を彷徨わせる。
「まさか和子ちゃんが男の子になってるなんて」
「人数の都合で男役をやるしかなくて。やっぱり、変ですか?」
「逆だよ、凄く似合ってる」
ねえ、と同意を求めるように彼は東雲さんを見た。東雲さんはいいんじゃないか、と簡素な返事をして私から視線を逸らす。素っ気ない態度の彼を茶化すように冴園さんは頬を突く。
「またまたぁ、そんなこと言って凄く驚いてたくせに。聞いてよ和子ちゃん。咲ちゃんったらさ、ぽかんとした顔して、あれが和子なのかって何度も俺に聞いてきてさ……」
うるさい、と東雲さんが冴園さんの口を塞ぐ。照れているのか、その顔は少し赤かった。
せっかくだからクラスの出し物を見に来ませんかと二人を誘う。ペイント、という言葉に面白そうだと冴園さんが笑んだ。興味なさげな東雲さんを冴園さんが無理矢理引っ張って、私達は教室に向かった。
教室までの道のりは長かった。冴園さんは興味津々に辺りの展示物を見て回り、そのクラスの子達に誘われるまま教室に入って遊んでいた。吹奏楽部の演奏を聴いていったり、投げ輪でゲットしたおもちゃのサングラスをかけて遊んだり、クイズ大会に参加して優勝したりと目一杯に文化祭を楽しんでいる。東雲さんも表情にこそ表れないものの久しぶりの高校を懐かしんでいるのか、ゆっくりと展示物を見て回っている。私の格好も相まってか、私達一行を何かの係と勘違いしたのだろうか、女生徒達に写真撮影を求められることもあった。
ようやく二組の教室に辿り着く。今の時間帯はそれほど混みあっていないようで、暇そうに駄弁っていたつなぎ姿の係が数人いるのみだ。そのうちの一人、新田くんと荒木くんが私を見て、秋月ーと手を振る。彼らの声に教室にいた残りの子達も私を見て、秋月さんなの? とか、劇見たよー、などと声をかけてくれた。
二人のお客さんを連れて私はペイント担当の子が座る席に向かう。ちょうど今の時間が係だったようで、座っていた早海さんが私に小さく手を振った。
「早海さん、この二人のペイントお願いできる?」
「勿論。だけど今の時間、あまりお客さん来なかったから他の子が休憩中でさ、ペイントできる人が私しかいないんだ。だから……そうだ、和子も描いてみないか?」
早海さんの提案に目を瞬かせた。ペイント用の筆を渡され困惑していると、向かいの椅子にすとんと腰かけた冴園さんがニコニコ笑いながら頬を寄せてきた。
「どうせなら和子ちゃんに描いてもらおうかな」
「私、絵心ないですよ?」
「咲ちゃんよりはマシさ!」
「冴園、後で覚えておけ」
どうなっても知らないですよ、と断りを入れてから私は筆でペイント用の絵の具を取る。爽やかな青色の絵の具をペタリと冴園さんの頬に塗ると、くすぐったい、と彼は無邪気に身を捩った。
隣でも早海さんが東雲さんの腕に何かを描き込んでいる。真剣な眼差しの彼女は、まるで本職のようだ。しばらくして完成したペイントを見て、私はよしと頷きながら冴園さんに鏡を見せた。鮮やかな青色で描かれているのは小さな猫のイラストだ。我ながら上手く描けたんじゃないだろうか。
可愛いな、と冴園さんは声を弾ませてくれた。喜んでもらえて良かった。ところで早海さんの方はどうなのだろう……と思いながら隣へ視線を向けた私はおぉ、と声を上げた。
東雲さんの肘から手首までに走るのは、黒い蓮の花。大輪に咲き誇った蓮の花から周囲に伸びる繊細な模様は蔦だろうか。私と同じ時間しかかけていないはずなのに、その出来栄えは圧倒的だった。凄い凄い、と惜しみなく嘆賞する私に早海さんは少し照れたようにはにかんだ。
「すぐ乾くのでシャツには付かないと思います。お湯ですぐ落ちますし、ご心配は大丈夫です」
「蓮の花か……。上手いな」
「黒い蓮の花なんて、あなたには映えるんじゃないかと思ったので。……それにしても、自分で描いておいてなんですけど」
早海さんはそこで言葉を途切らせる。私も何となく彼女の言わんとしていることを察して冴園さんを見ると、彼も苦笑気味に私を見て肩を竦めた。
カウンターからじっと私達を見つめている他の係の子達。その視線に気が付いた東雲さんがそちらを見ると、皆一斉に視線を逸らしてそそくさと散って行く。だが一人、新田くんは好奇心が抑えられなかったのか恐る恐るといった声色でこう尋ねた。
「お兄さんってもしかして……ヤクザ?」
荒木くんが新田くんの頭を叩いて口を塞ぐ。東雲さんが複雑な表情で私達へ顔を戻した。私と早海さんはサッと視線を逸らし、冴園さんは俯いて肩をふるふると震わせている。東雲さんはひくりと口角を引き付かせ、ペイントの描かれた腕をそっと覆い隠した。
今はお客さんそんないないから、という早海さん達の好意に甘えて、私はその後東雲さん達と一緒に文化祭を見て回ることにした。
だが見て回るにしろ、この衣装のままじゃあ動きにくいだろう。先に見ていてください、と二人に行って私は近くの更衣室で着替える。衣装を教室に置いてから再度二人を探そうと辺りを見始めたところで、人混みの中、背後から誰かがぶつかってくる。ごめんなさい、と言いながら振り返った途端、私はその人に力強く腕を掴まれる。
「あんた……」
サイドテールにまとめられた髪の毛が目に飛び込んできた瞬間、嫌な人にぶつかってしまったなと後悔した。一年先輩とのことで何かと私にちょっかいをかけてくる後輩の子だ。
彼女は私の顔をじろじろ眺めた後、ふんと鼻で笑う。
「さっきまで劇やってたんでしょ? 良かったね、上手くいって」
「見ててくれたんだ」
「昴先輩とえりな先輩が出るって聞いたから見に行っただけ、あんたのためじゃないから」
そうかあの二人目当てかと納得する。劇の最中、何度か熱狂的に聞こえてきた役者の名を呼ぶ歓声。あの中に彼女も混じっていたのかもしれない。
「それにしても、まだ懲りないわけ?」
「え?」
「あんな格好してまで昴先輩に擦り寄って。そういうところが……」
ねちねちと嫌味を吐いてくる彼女から意識を逸らしつつ、まさかまだ言いがかりを付けてこようとしているのかと頭を抱えたくなった。懲りないのはどちらの方だ。
周囲の人々も私達の様子に気が付いたらしく意識を向けてくる。このままここで言い争っているのは視線が気になる。どうやってあしらおうかと考えていると、聞いてるの、と苛立ったようにその子が私に詰め寄ろうとしてきた。
後ろから肩を引かれた。ぽすんと後頭部が誰かの肩に当たり、驚きに目を丸くして私は振り返る。
「こいつに何か用か?」
東雲さんだった。彼は私を自分に寄りかからせたまま、静かな目で一年生の子を見下ろす。だが普通に見下ろしているだけでもかなりの身長差がある上、目付きの悪い彼、初めて彼を見る人間にしてみればその迫力はそれなりのものだろう。
「やあ和子ちゃん、待ってたよ」
「冴園さん」
隣から冴園さんも顔を出す。いつの間にか彼は先ほど投げ輪でゲットしたサングラスをかけており、口元には笑みを浮かべているものの、その瞳がどんな感情に染まっているのか窺い知ることはできない。東雲さんより更に高身長の冴園さん。いつも笑顔だから分かりづらいものの、顔色が分からない今、彼もまた妙な威圧感があった。
目の前の彼女はすっかり気後れした様子で言葉を詰まらせていた。だがおどおどし出す彼女に構わず、東雲さんが畳みかけるように言葉を投げる。
「こいつの友人か何かか?」
「や、う、あの……」
「どうした。ハッキリ言え」
「……………………」
「人酔いでもしちゃった? それとも、暑さでバテちゃったのかな。今日は天気もいいし十月と言えど暑いからね、熱中症には気を付けなきゃ」
冴園さんの言葉に東雲さんも頷いた。今日は暑いからな、と似たようなことを言いながら彼はシャツの袖を捲る。そこから覗く蓮の花にビクッと彼女が顔を青ざめた。
蛇に睨まれた蛙、肉食動物に囲まれた小動物、といった様子の彼女に罪悪感が湧く。大丈夫? と私が訊ねると、ハッと我に返ったように彼女は顔を上げ、潤ませた目で私を睨み付けた。
「もっ……もう知らない!」
吐き捨てて彼女は廊下を走り去っていく。確実に誤解していることは明らかだ。もしかしたら私の変な噂は更に広まってしまうかもしれないが……。
だが、とりあえず危機を脱することができたのなら今はいいだろう。私は振り返り、二人に頭を下げる。
「ありがとうございます。東雲さん、冴園さん」
二人は何のことだか分からない、と言いたげな顔でそろって首を傾げた。詳細まで語ったことはないにしろ、私の事情を知っている二人。さりげない優しさが嬉しかった。もしかしたら今日二人が道仏高校にやって来たのは、文化祭を見るためだけじゃなかったりして、なんてことをふと思う。
「昴先輩とえりな先輩って、一緒に劇をやってた人だよね?」
会話が聞こえていたのか、冴園さんの問いに私は頷く。東雲さんはパンフレットを見返して考え込むように顎に手を当てた。
「一年昴。……カラスか?」
私はもう一度頷いた。カラスという言葉に今度は少し、緊張を伴って。
そうか、と東雲さんはパンフレットを畳んで遠くを見るように目を細める。カラスか、ともう一度東雲さんは繰り返した。
「なら挨拶に行かなきゃな」
不敵に微笑んだ東雲さんを見て、私は思わずごくりと喉を鳴らした。
「あ、来てくれたんだね和子ちゃ…………」
美術室に入ってきた私を見た一年先輩は途中で言葉を飲み込み、笑顔だったその顔は一瞬で真顔になった。正確には、後に続いて入ってきた東雲さんを見て、なのだけれど。
二人の視線が交差する。間に火花が散って見えたのは気のせいか。ただならぬ雰囲気を察知した冴園さんは、私の隣でうわあと怯えながら手を握ってきた。
「どうも、オオカミさん」
「こんにちは、カラス」
表面上は淡々としていようが、内面は敵意を剥き出しにした二人の挨拶。噂や話としてお互いのことを知っていても、私が知る限りではこれが二人の初対面だ。
「学生達の文化祭にわざわざあなたみたいな人が来るなんて。何のつもりです? 誰か殺しにでも来たんですか?」
チッと舌打ちをしながら一年先輩が言う。ここまで不機嫌さを丸出しにした先輩の姿は珍しく、正直少し怖かった。
煽りに東雲さんは反応しない。ただ黙って目を閉じ、彼の言葉を聞き流している。子供の戯言に思われている、とでも感じたのだろうか、一年先輩が僅かに歯軋りをした。
「さっきの劇でもずっと和子ちゃんのこと見てましたよね。あなたは彼女の父兄か何かですか」
「……さっきの劇、アドリブが多かったな」
「ああ、見てくれてたんですね、どうも!」
カラス、と呟いて東雲さんはゆっくりと目を開けた。薄い唇から言葉を放つ。
「ネコをからかうのも、いい加減にしておけよ」
え、と私は咄嗟に身を乗り出した。彼の言葉にどうして、と疑問を投げる。
「一年先輩のこと……言ってないはずなのに」
一年先輩のこと。彼がどんな人間なのか、私が今までどんなことをされてきたのか、直接東雲さんに言ったことは一度もないはずだった。それなのにどうして、私と彼の事情を知っているような口振りで。
東雲さんが振り向く。全てを理解しているような薄い笑みが、その口元に弧を描いていた。気付いていないと思っていたのか。彼が何も言わないうちに、そんなことを言われた気がした。
「お前が隠し事や嘘が苦手なのは、今まで見てきて分かっている。何も言わなくても様子がおかしいことくらい気付くさ。それに、同じ業界の人間について、何も調べないのは得策じゃないからな」
あくまで仕事としてだと東雲さんは告げる。人魚、クモ、イヌ、白ウサギ……今までたくさんの殺し屋達を見てきた彼は彼らと共に仕事をしつつも、同様に心の底から信用することはなく過ごしてきたのだろう。カラスの情報だって握っているのかもしれない。私との因縁まで知っているということは、恐らく、大分深いところまで。
「オオカミ直々の牽制ってわけですか」
ふん、と一年先輩が鼻を鳴らす。嫌みったらしく鋭く尖った彼の目が東雲さんを貫く。その反抗心剥き出しの顔に、勘違いするなと東雲さんは告げた。
「誰が牽制だと言った」
低く唸るような声だった。空気が凍り付く。目を見張る私達の前で、東雲さんは静かに一年先輩を見下ろしていた。さっきの子に向けていたような見下す視線とはまるで違う、思わず身震いしそうな姿で。
「これは警告だ。これ以上和子に何かしてみろ。ただでは済まないぞ」
僅かにでも動いたら肌に切れ目が走ってしまう。そう感じるほどに強い緊張が、この部屋に張り詰めていた。東雲さんの冷たい目に宿る畏怖。展示物の飾られた美術室という至って平和な空間が一瞬にして異様なものへと変わってしまった気がする。絵の具のにおいを、胃に飲み込んだ。
一年先輩もたじろいだようにぐっと喉を引き攣らせた。けれどすぐ、気を持ち直したように東雲さんに一歩歩み寄る。
「だからどうした」
力強く彼は言い放った。静かに彼を見下ろし続ける東雲さんに向かって、一年先輩はあまり聞いたことがない、荒い口調で言葉をぶつける。
「和子ちゃんのことを大切に思うのはあなただけじゃない。師弟? 相棒? そんな馬鹿みたいな言葉で和子ちゃんを縛り付けて、彼女の想いを無碍にしているのはどいつだ。そんな奴に渡すくらいなら、意地でも、僕が和子ちゃんを奪ってやる」
止めた方がいいんじゃないか。このままではまずいことになる、そう考えつつも何と声をかけていいのか分からず、おろおろと私は手を彷徨わせていた。
と、真横から激しく手を打った音が聞こえて顔を向けた。私だけでなく視線で喧嘩していた二人も。場にそぐわぬ満面の笑みを浮かべた冴園さんが、笑顔のまま東雲さんの腕を引っ張って一年先輩から引き離す。
「はいはい咲ちゃん、それ以上年下をいじめない。怖がらせちゃ駄目じゃないか」
「だけどな…………」
「咲、戻るよ」
文句を言おうと口を開きかけていた東雲さんも、冴園さんの口調にうぐ、と口を噤む。一年先輩を一瞥し、渋々といった様子で彼に背を向けた。
怖がっていると言われたことが不愉快だったのか一年先輩は複雑そうな目で冴園さんを見上げている。僅かに細められた視線で数秒ほど見つめられた冴園さんは、先輩にも笑顔で軽く手を振った。先輩はふと視線を逸らし、大きな溜息を吐いて顔を手で覆う。改めて私に向けられた顔は爽やかな笑顔であったものの、どことないぎこちなさが漂っていた。
「じゃあね和子ちゃん、今度は一人でおいで」
「……じゃあまた」
行くとは言わないまま私達は美術室を出た。廊下の賑やかな声は先ほどまでの不穏な空気とは対照的で、心を落ち着かせてくれる。
無言で隣を歩く東雲さんの袖を掴む。彼がチラリと私を見下ろしたのを見て、疑惑を尋ねた。
「いつから知ってたんですか?」
東雲さんは何故か、少し気まずそうに視線を逸らした。長い沈黙を舌で転がし、観念したように言葉を吐く。
「……つい最近だ」
「最近?」
「あいつの手前誤魔化したが、この間までカラスのことはそこまで問題視してはいなかった。だがこの学校が襲われたときのことを調べるついでにカラスのことも調べてな……」
東雲さんは呆れたような表情を作る。それ以上口を閉じ、ぐしゃぐしゃと私の頭を撫でた。乱れた髪で視界が見えなくなる。
何するんですかっと頬を膨らませて髪を直す。そんな私の耳に、ぼそりと東雲さんの囁く声が聞こえた。
「気付くのが遅れて悪かった」
唇を噛んで目を大きく見開いた。そんなことない、と強く首を振ったが、声の震えは抑えきれなかった。
「ああ、でもさっきの所の絵、凄かったね。流石美術部だ」
冴園さんが空気を変えるように明るい声で話題を振ってくれる。美術室に飾られていた様々な絵は確かに上手かった。同意して微笑む私の横で、東雲さんは小さく肩を竦める。
「見ていなかったな」
「えー、どれも上手かったのに。さっきの子の絵だって飾ってあったかもしれないぞ?」
「あいつの絵なんぞ、見る気はない」
「はは、一年先輩の絵はほとんどアトリエに運んだって言ってたし、美術室に飾ってあったのもきっと少数ですけどね」
アトリエ、と不思議そうな顔をした冴園さんに昨日先輩から聞いた話を聞かせる。自分だけのアトリエか、と彼は子供のように目を輝かせた。
「俺も自分だけの隠れ家みたいな場所が欲しいなぁ、マンションのワンルームでも買っちゃおうかな」
「無駄遣いにも程があるだろ」
「でもそういうのって男のロマンだろ? ……あっ、ねえねえ二人とも、あっちの教室でプラネタリウムやってるんだって! 見に行こう!」
冴園さんが私と東雲さんの手を掴んで目当ての教室へと急ぐ。手を離せとむくれる東雲さんの顔と、無邪気にはしゃぐ冴園さんの顔を交互に見て、私は声を上げて笑った。
今年の文化祭は私の思い出の中に、いつまでも色濃く残ってくれるだろう。




