第29話 川の人魚
夜の情報屋。電気の切れかかった電球が点滅し、その灯りの下、二人分の影が現れたり消えたりを繰り返していた。換気扇の回る音が室内に流れるジャズの音に重なり、オレンジ色の室内にゆらゆらと流れている。ぼんやりと落としていた視線を上げ、壁にかかった時計を見つめた。前に見たときから既に十五分が経過していた。にも関わらず、私の姿勢はカウンターに寄りかかっている状態から、少しも動いていない。
点滅する光が影の主たる人物を照らす。一人は長身の男性、一人は彼ほどではないにしろ同じく長身の女性。説明するまでもなく、それは東雲さんと真理亜さんのことだった。
「どうして納得できないの」
「納得できないからだ」
「……意味が分からない」
二人は互いの顔を見上げ見下ろし、鋭い視線を交差させていた。火花というよりは氷花が降ってきそうなほど凍てつく視線。十五分間互いに、一度も目を逸らしていないのが怖いくらいだった。
視線を横に逸らすとカウンターに座る如月さんと目が合った。彼は唇を上げて困ったように肩を竦め、身を縮め込ませている私に苦笑する。彼の目の前にあるパソコンから放たれる光が、かけている眼鏡に反射していた。
再度東雲さんと真理亜さんに目を向けると、二人はまだ睨み合っている最中だった。一向に話が終わる気配がしない。
「今晩あの子と組むのは私。もう決まったことでしょう? 今からうだうだ言わないで」
「お前が和子を上手く使えるとは思えない」
真理亜さんが苛立ったように髪を掻く。一触即発の空気を漂わせる二人を見て、私は静かに溜息を吐いた。
そう、二人が争っているのはある意味私のせいなのだ。
殺し屋は本来それぞれが別れて仕事をする。あざみちゃんや真理亜さんのように単独で仕事をする人もいれば、私と東雲さんのようにグループとして行動する組。けれど時に例外がある。仕事の難易度や仕事のしやすさによって、他の殺し屋と手を組んで仕事をする――つまりは共闘をすることがあるのだという。
今回もそのような感じの依頼だった。東雲さん単独の仕事が一つと、真理亜さんと私が組む仕事が一つ。要するに今日の私は真理亜さんの手伝いだ。だけどそれを告げられたとき、何故か東雲さんがそれを拒絶した。それに真理亜さんが怒って、今に至る。
「――いい加減にして。そんなに和子と離れたくないわけ? 一匹狼はどこにいったの?」
「勘違いするな、そんな意図はない」
「じゃあ理由を言いなさいよ」
「お前が何かしそうだからだよ」
「何かって何よ」
まだ睨み合っている二人に呆れ果てる。初めて真理亜さんと会ったときから思っていたけれど、どうして二人ともこんなに仲が悪いんだろう。
今にも突然どちらかが手を上げそうな雰囲気だ。そうなる前に一度深呼吸をして、二人の間に割って入る。ピリピリとした空気に萎縮しそうになりながら、気を振り絞るように言った。
「二人とも落ち着いてくださいよ! 早く行かなきゃ、仕事に遅れちゃうでしょ?」
東雲さんと真理亜さんが怒気を削がれたように私を見下ろす。東雲さんの手を握り、彼の目を覗き込む。
「東雲さんも何がそんなに嫌なんですか? 私一人じゃ仕事なんてできないから、東雲さんがいない間、真理亜さんと組むのは当然じゃないですか」
殺さない仕事ってのもあるけどね、と後ろで如月さんが呟くように言う。東雲さんは腑に落ちない顔で私を見つめ、それからそっぽを向いた。
私は一人じゃ殺し屋の仕事ができないから、誰かと組むしかない。それは東雲さんが一番よく知っているはずだ。それに私が残って彼だけが仕事に行くということはこれまでにも数回あったのだし、私と離れるのが嫌だとかそういう理由ではないはず。ということはやはり、私を他人と組ませたくない……真理亜さんが私と組むことがそんなに嫌なのか。
「仲良くしましょ? ね? ほら、握手握手」
そう言って真理亜さんの手を握り、左右に握る二人の手を同じ高さに上げる。けれど二人はそのまま手を引っ込め、唾を吐くように言葉を吐いた。
「何で私が男と握手しなきゃいけないのよ」
「迂闊に手なんか握って、武器でも仕込まれてたらどうする」
東雲さんの言葉に私は笑った。真理亜さんみたいな細くて綺麗な手の持ち主が、その手のどこに武器を仕込めるって言うんだろう。
「おいネコ。そいつに変なことを吹き込まれても、耳を傾けるんじゃないぞ」
「負け犬の遠吠えね」
出口へ爪先を向ける真理亜さんの毒に東雲さんは何も言わなかった。そのまま私達は情報屋の外に出る。静かな夜に扉の閉まる音が響いた。
終電に乗ってやって来たのは第六区だった。電車から降りたのはたった数人、駅にも人はあまりおらず閑散としていた。キョロキョロと周囲を見回す私に真理亜さんが問いかける。
「どうかした?」
「いや……変な人がいたりしないかなって」
数字の大きさと治安の悪さが比例する明星市。第六区はその中でも比較的悪い部に入っているが、それ以上にこの区には精神的におかしな人が多いのだ。見た目は普通でもちょっと常識外れの人や、突拍子もない行動を取ってしまう人など。精神病院の数は市内一。それが関係していると思いたくはないが、残虐な事件でいえば第六区が一番多く発生していた。例えば死体なんかだと目玉が抉られていたり、アートのように加工されていたり。
そこまで悪い人はそんなにいないわよ、と真理亜さんが微笑みながら先を歩く。駅を出て夜も遅い道をスタスタと慣れた足取りで進む。仕事でも私はあまりここにはこないけれど、この分だと真理亜さんは慣れているのかもしれない。
真理亜さんが足を止めたのは駅からさほど離れていない場所だった。大きな川と、それを渡る橋。向こう側の橋の手前で、一台の車が停まっているのが見えた。そこから二人の人間が降りている。何かを車の中へ向かって話している様子だが、何を話しているのかは聞こえない。
その人達が車の中から体を起こし、それから数秒後に車がゆっくりとUターンして走り去っていく。それを見届けてから真理亜さんがゆっくりと歩き始める。私もあくまで自然な足取りを装ってその横に続く。視線が挙動不審に動いてしまわぬよう、白い汚れが付着していたり色が落ちた欄干を横目で見つめていた。向こう側の彼らも同じようにこっちに向かってくる。
一人はブラックスーツ姿の恰幅のいい男、歳は四十代程で、不機嫌そうにムッとした顔は怒っているのかそれとも素なのか。もう一人はその男の斜め前を歩く大柄で色黒の男、濃いサングラスをかけているせいで年齢や表情はよく分からない、同じようなブラックスーツを着ているがサイズが合っていないのかパツパツだ。
私達と彼らが擦れ違う。そうして三歩歩いたところで、真理亜さんが足を止めて振り返る。今しがた擦れ違った彼らに声をかけた。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいのですけど」
振り返った彼らは怪訝な顔をしていた。互いに顔を見合わせて、それからサングラスの男の方が「何でしょう」と言ってくる。野太い声だった。
「終電を逃してしまって。安いホテルを探してるんですけど、どこか知りません?」
「……分かりませんね。失礼します」
「じゃあ、漫画喫茶でもいいんです。分かりませんか?」
言いながら真理亜さんが彼らに半歩詰め寄った。特に違和感を覚えない動作だったけれど、それでもサングラスの男は僅かに体をずらし、恰幅のいい男を自分の体で隠した。警戒しているのは見て取れる。
真理亜さんがチラリと私を流し目で見る。口角を上げて微笑み返すと、彼女も薄く微笑んでくれた。
「急いでいるので」
「そうですか……」
素っ気ない対応で話題を切り上げようとする男に真理亜さんが肩を落とす。しょうがない、頑張って探しましょうか、と私に向かって言いながら、スッと右足を僅かに引いた。
「呼び止めてしまってすみません。ありがとう――」真理亜さんのブーツの底が、僅かに砂利を踏みにじる音。「――ございましたっ」
爆発的な俊敏さで、彼女の靴が男の脛を蹴り付けた。警戒していたにも関わらずその男は鋭く襲う痛みにぐっと肩を張り詰めた。真理亜さんは動きに暇を取らぬまま右足を地面に突き、流れに乗せるように左足と右肘を男の体に叩き込もうとする。
が、その打撃は男が盛り上がらせた筋肉に受け止められ、ダメージにはなり得なかった。直後、男の太い腕がミチミチと張り上がって真理亜さんの首に伸びる。蛇のように飛びかかる動きに、真理亜さんの反応が一瞬遅れた。
「おらぁ!」
だけど男の手が真理亜さんに伸びた瞬間、私の体は反射的に動いていた。
欄干を掴み地面を蹴ってその場に跳ね上がる。本来手を置く場所である欄干に足を着き、それを軸に大きく足を開いて跳ぶ。ひゅっと空気を裂く音がして、膝が男の鼻っ面にめり込んだ。
「ぐっ!」
空中で腰を捻り、呻く男の後頭部を蹴り飛ばす。前によろける彼を背に私は顔を上げた。状況を掴めずポカンと口を開けていた恰幅のいい男が、そこでようやくハッとしたように後退る。
取り出したナイフで彼に切りかかる。防御のため突き出された手の平を刃が貫通する。皮膚を破って筋肉を切断していく感覚がナイフ越しに伝わってきた。苦痛の悲鳴を背景に、溢れ出した血を潤滑油としてナイフを引き抜く。今度は適確に腹部を狙おうとすると、後ろから物凄い力で手首を掴まれた。背後の男が険しい形相で私の手首を掴んでいた。さっき蹴ったときに壊れたのか、片方のサングラスが曲がり、隙間から血走った目が覗いている。手首がおぞましいほどの力で圧迫され、ギチギチと悲鳴をあげる。腱が捻じ切れそうな痛みに呻き声が漏れかけたとき、不意にその力が抜けた。振り返った先に見えたのは真理亜さんが男の腰に深く突進している様だった。ただの突進じゃない。その手に強く握られた、刃物の柄が深々と男の体に突き刺さっていた。
「真理亜さん!」
思わず叫ぶ。彼女は何も言わず、ただ身震いするほど凄まじい形相をサングラスの男に向けていた。刃で肉を貫かれる感覚にサングラスの男が痙攣し、歯を食いしばり思いっ切り体を回転させる。さっきまで私の手首を掴んでいた手で、今度は真理亜さんの右手首を掴んだ。ぐっと引っ張り自分の左胸に近づけ、真理亜さんの顔と男の顔が近付く。
バスン、とくぐもった破裂音がしたのはそのときだった。サングラスの男がビクッと体を震わせ、その四肢が固く硬直する。太い指がミシリと引き攣ったように空を掻いた。
「ひっ」
後ろで血まみれの手を押さえていた男が悲鳴を呑む。サングラスの男が訳が分からないといった様子で仰向けに倒れたからだ。厚い胸板、その左胸に小さく開いた赤い穴。そこからじゅわっと鮮血が滲み、見る見るうちにその範囲を広げていった。
息を乱した様子もなく立っていた真理亜さん。浅い呼吸を繰り返す彼を見下ろす彼女の手から、月光に照らされてツヤリと薄く光る銃が覗いていた。手の平に収まるくらいに小さな銃。そんな物を見るのは初めてだった。
「怪我はない?」
「あ…………」
真理亜さんが微笑を向けてくる。首を振り、一瞬横目でその銃を見ると、彼女は少しだけ得意げな笑みを浮かべる。デリンジャーって言うの、なんて説明をしながら。
それから私達は腰が抜けたように座り込む男に目を向けた。威圧感のある視線に男は体を竦ませ、荒い呼吸を繰り返していた。
「お、お前ら……どこの奴だ……」
「どこのってことは、自分に疚しいところがあるって自覚してるのね。理解が早くて助かるわ」
真理亜さんがデリンジャーと言った小型の銃を彼に構える。指の先よりも小さな銃口に男は全身を凍り付かせたように動かなくなる。
真理亜さんが静かに近付き、私はその後ろでナイフを構える。いつ彼が逃げ出そうとしてもその前に私が足止めをできるように。真理亜さんが確実にトドメを刺せるように。
「西山隆介さんで合ってるわよね? まずは、あなたが会社から持ち出した密書について、聞かせてもらうわ」
「おっ……俺は! 俺は違う! 騙されただけで……」
乾いた破裂音が響き、男の肩にポツリと赤い点ができる。真理亜さんが長い足で肩を蹴飛ばし、仰向けに倒れる彼の、その傷口に靴の爪先を抉り込んだ。迸る苦痛の絶叫に、見ているこっちが痛みを感じてしまい歯を食いしばった。
「騙されたとか、被害者とか、そういうのはどうでもいい。今聞きたいのはあなたの知っていること全て。私達が依頼されたのはあなたから情報を聞き出すことなの」
そうよね、と同意を求める真理亜さんの声に肯定する。
第六区の外れにある薬品製造会社、その幹部の間で計画されている事案について調べることが今回の依頼だ。いくつかの会社の、更に限られた人数の間だけで隠密に示し合わせた計画のにおいがあるらしく、それが何なのか、どういった目的の計画なのか、その全貌を探ろうとまた別の会社が動いているらしい。
観念したのか、それとも元より持っている情報にそれほど価値がないのか、男は意外にも素直に話に応じた。
「わ、分かった、話す、話せばいいんだろ……」
「変な真似はしないでくださいよ」
真理亜さんに倣うようにナイフを男に突き付けると、分かったからと焦った声を上げて男は早口に言った。
「俺が渡した密書の内容は分からない。ただグループの一人に、指定場所まで持っていくように頼まれただけなんだ。本当にそれだけなんだ!」
「指定場所はどこ? いつ?」
「場所、場所は、第四区の鴨枝橋。先月末だった」
「誰に渡したの?」
「知らない! 橋の下に投げろって言われてたから言う通りにして、すぐに下りて見に行ったら、もうなくなってたんだ! これ以上は何も知らない!」
真理亜さんが舌打ちして男の肩から足を退ける。ぐずぐずと鼻を鳴らして涙目をこさえ、男が震える声で尋ねてくる。
「も、もういいだろぉ? 全部話したじゃないか。殺さないでくれよぉ……」
「…………そうね」
パッとあからさまに男は顔を明るくした。それに苛立ったように眉を寄せ、真理亜さんが静かに息を吐く。そして今度は気軽な口調で男に語りかけた。
「あら。ねえ、何か付いてるわよ」
「え」
さり気無く真理亜さんが男の胸元に手を伸ばす。男もひょんとした様子で自分の胸元に目を落とした。パンッと数回聞いたような音が響いたのはそのとき。表情を一切変えないまま、男は細く白い息を吐いた。強張った体から抜けるように力がなくなっていく。
撃ったばかりのデリンジャーを軽く振って、真理亜さんが立ち上がった。振り返らないからその表情がどんなものかは分からなかった。
「悪いわね、これも仕事なの」
本人に語るように真理亜さんが死体に言った。私はそっとナイフを下ろしながら、そんな彼女の背を見つめていた。依頼の中に、口封じのための殺人が含まれていたこと、それを私達は最後まで彼に言わなかった。
それから数秒間、沈黙が流れる。地面に倒れる死体を見下ろす。掃除屋に連絡しなければと考えた。
「真理亜さ――」
突然喉が壊れた。
私の唇からは真理亜さんの名を最後まで呼ぶ声が出ることはなく、それどころか吐息の一つも零れない。皮膚下の喉仏がゴリゴリと押し潰される音が体内から聞こえ、嘔吐にも似た圧迫感が喉を襲う。脈絡もなく襲いくる苦しみに、私の脳は恐怖と混乱に埋め尽くされた。
「なっ!?」
様子に気付いた真理亜さんが振り返り、私の方向を見て驚愕に目を見開く。その表情に不安を抱いたとき、混乱する意識の端から呻くような声が聞こえた。ハッとする。それはさっき倒したはずの、サングラスの男の声だったからだ。
喉に手を伸ばすと、指がスベスベとしたスーツの生地に触れた。太い腕が私の喉を締め上げているのだと理解する。同時にその腕の筋肉が盛り上がり、万力のような力が私の喉を押し潰していく。
「っ、っ、っ!」
声がでない、息ができない、苦しい。死ぬ、死ぬ、死んじゃう。苦しみに流れた涙が頬を伝う、空気を求めようと開けた口から垂れた涎がスーツを濡らす。赤く染まる意識の中でもがく手足は、固い筋肉によってビクともしない。
真理亜さんがキツい表情でデリンジャーを構え、男の頭部を狙う。けれど直後に男は動いた。だけどそれは私の体を盾にしようとか、そういう意図のものじゃなかった。
筋肉質な手に首だけを掴まれ、私の体が空に浮く。男の手が伸び、そのまま欄干を超えた。私の眼下に広い川が広がった。
あ、落とされる。
そう思っても酸欠状態の体は言うことを聞かなかった。男の手が急に開き、ようやく開いた喉に待ち望んでいたとばかりに大量の空気が流れ込んでくる。一瞬、体をふわりとした浮遊感が纏った。そしてその直後。内臓が上に向かって競り上がるような感覚がして、ゴォッと風を切る音が耳元で鳴った。真理亜さんが叫ぼうとしているのが見えたけれど、その声は大きな水飛沫に掻き消された。
ようやく吸えた空気がゴボリと泡になって水面に上がっていく。酸欠に苦しむ全身が悲鳴を上げ、空気を取り込もうと肺が痙攣する。空気の代わりに無情にも大量の水を飲み込んでしまい、胃が競り上がる。苦しくて苦しくて、水中で必死に手足をもがいても、その力はとても弱々しかった。
泳げないわけじゃない。けれど服を着ているせいと、酸欠のせいで、思うように体が動かない。爆発しそうなほど激しく脈打つ心臓とろくに動かない四肢。意思と裏腹に、私の体はゆっくりと流されながら沈んでいく。
夜の川は真っ暗で、周りの景色なんてほとんど見えなかった。ゴミや泥の浮いた水は悪寒がするほど汚いのに、どうしても開いてしまう口や鼻から大量の汚水が体内に流れ込む。その上刺すように冷たい水が体温を見る見るうちに奪っていった。キィンと思考が痺れる。
…………段々と意識が薄れていく。心なしか、心臓の音もゆっくりになっていく気がした。
このまま、死んじゃうのかなぁ。
滲んでいく視界の中、何か点のようなものが見えた気がした。その点は次第に大きくなって人間の形を形取る。暗い川の中を滑らかに泳いで向かってくるそれを見て、人魚だと、ぼんやりと思った。その人魚がスラリと伸びた手で私の手首を掴む。そのまま水を掻き分け、水面へと泳ぐ。ゆらゆらと揺れる水面が近付いていき、バシャンと水が大きく弾ける音が遠くから聞こえてきた。
「――――覚まして――和子――――しっかりしなさい!」
急に強い力で背中を叩かれビクッと体が痙攣する。喉の奥から熱い物が込み上げ、私は目の前の何かに縋り付きながら、ゲェゲェと大量の水を吐き出した。それからもう一度叩かれ、また水を吐き出す。ドクドクと激しく鳴る心臓を掴みながら、ふらつく思考を必死に留める。それから瞬きを繰り返すと、自分が掴んでいるものが、水に濡れて肌に張り付いた誰かのシャツだと分かった。それを着ているのが真理亜さんだということも。
「ま……りあ、さ、ん…………」
「待ってなさい、すぐ岸辺に連れていってあげるから」
濡れた黒髪を頬に張り付かせた真理亜さんは、心配そうに私の顔を覗き込む。ひゅっひゅっと細く呼吸を繰り返す私は、水の冷たさと揺れる脳を必死に堪え、今の現状を把握しようとする。だけどその前に獣のような唸り声が聞こえ、上へと目を向けた。激怒の感情を顔に浮かべた男が、私達を睨みながら足元の石を拾って投げようとしていた。滑稽な姿にも見えたが、手に持つ石はそれなりに大きく、当たったら危険だ。
泳いで岸辺に戻ろうとするが、上手く力が入らずにその場に浮かんでいることが精一杯だった。真理亜さんが急いで私の腕を掴んで泳いでくれるが、その前に男の腕が大きく振りかぶられる。まずい、と弱く唇を噛んだそのときだった。
「ヒーローけんっざあぁん!」
突如、高らかな叫び声が緊迫する空気を貫いた。石を持ち上げていた男が振り向こうとして――その頭頂部に刃物が振り下ろされた。頭頂部から眉間までにパックリと亀裂が入った。
「…………!」
声もなく目を見開く。男の顔が、さっきまで見ていた物から全く異質の物へと変貌していく。頭部に勢い良く落とされた刃物は強烈な力で更に沈む。男の頭部から眉間にかけて、ゆっくりと亀裂が入っていった。刃物がぐるりと一回転し、男の亀裂が更に広がる。パクリと両の目の距離が開き、その間を粘着質な細く赤い糸が伝う。一瞬にして絶命し、崩れ落ちた男の後ろに誰かが立っていた。
暗い夜の中ではほとんど目立たない黒い学生服を着た、中学生くらいの少年だ。彼の手に握られた刃物――先端が赤く濡れた包丁がゆらりと揺れる。
見知らぬ男の子が人を殺す瞬間を目撃した。水に漂ったまま、唖然とその光景を見上げていると、少年が橋の上から私達を見下ろして叫ぶ。
「お姉さん方、大丈夫か! 安心してくれ。悪は倒した!」
そんな言葉を発する少年に、こっちが困惑してしまう。返事をせずただ少年を見上げていると、彼は包丁を持つ手を振った。
「ちょっと待ってろ、今助けに行く!」
「心配しないで!」
咄嗟に真理亜さんが叫んで少年の行動を止める。今にも包丁を手に飛び込もうと橋から身を乗り出した少年を、こっちに来させたくはなかったのだ。
第六区には精神異常者が多くいる。躊躇なく人を殺めた、いかにも学生である彼もまた、そういった人間なのかもしれない。そんな人間が包丁を手にしたまま向かってくるなど、危険でしかない。
「大丈夫だから。酔っぱらって落ちただけだから。すぐ上がるわ、大丈夫、ありがとう」
矢継ぎ早にそう言うと、彼は渋る様子ながらも身を引いた。どこかその顔が残念そうに見えるのは気のせいだろうか。風邪引くなよ、と一言残して彼は橋から去っていく。ぼんやりとそれを見つめながら、私は真理亜さんの手によって川岸へと引っ張られた。
川から上がり、寒さに震える体を擦られながら真理亜さんを見る。彼女は優しい手付きで私の頬を撫でてくれる。同じく冷えているはずのその手は、私の頬より温かかった。
「私の家に来なさい。この近くだから。お風呂に入れてあげる……ちょっと危ないかもしれないわね」
「…………真理亜さんの家、この辺り、なんですね」
慣れた様子だったのはそのせいか、と状況に似合わないことを納得した。ろくに立ち上がることもできない私を真理亜さんが背負って歩き出す。振動に揺られながら、彼女の濡れた背に額を擦り寄せて尋ねた。
「あの子……危ない、人だったんでしょう……か?」
震える声で呟くもしばし返事は帰ってこなかった。真理亜さんの靴音だけがしばらく聞こえ、呟いたことも忘れかけた頃にふと彼女が言う。
「あの子も同じ」
「え?」
「顔を見たのは初めてだけど、前に写真で見た覚えがあるわ」
思わず顔をもたげて彼女の後頭部を見つめる。それに答えるように彼女は静かに呟いた。
「確か、あの子は――――」




