第28話 大好きな人の生まれた日
一月十六日の午後六時。ちょっとした用で駅に来た私は、そこで見知った顔を見つけて声をかけた。
「冴園さんっ!」
「……お、和子ちゃん?」
ぼんやりと駅の広告を見つめていた冴園さんが声に気付いてこっちを見る。私を見て、疲労を漂わせていた顔に笑みを浮かべた。
私が駆け寄ると、冴園さんは私の頭に抱き付いてくる。わしゃわしゃとひとしきり頭を撫でてから髪に顎を埋め、ああ癒される、と深く溜息を付いた。
「仕事帰りですか?」
「ううん、これから。最近忙しくて中々休めなくてさ」
離れて見た彼の顔色は芳しくなかった。やつれた顔にへらへらと浮かぶ笑みが逆に痛々しい。背伸びをして青く染まった髪を撫でると、甘えるように肩に顔を埋めて頬を摺り寄せてくる。東雲さんよりも背丈の大きい彼が甘えてくる様子は、大型動物がじゃれてくるようで、何だか母性本能が擽られる。帰宅途中の人で混む時間帯の駅だからそれなりに視線が注がれるけれど、私も冴園さんも特に気にならなかった。
「和子ちゃんほんっと癒される。部下と大違い」
「部下?」
「俺これでも上司格なんだけど、部下が俺のことすーぐ舐めてきてさー!」
参っちゃうよと不貞腐れたように頬を膨らませる様子に、声を上げて笑ってしまった。
彼の仕事のことはよく分からないけれど、勉強を教えてもらったときの経験から冴園さんの頭がいいことは分かる。多分出世にもあまり苦労しないタイプだろう。だけど同時に、ちょっと子供っぽいところは確かに部下にも舐められてしまいそうだと思った。
そういえば何の仕事をやってるんですか? と聞こうとする前に、冴園さんがふと思い出したように話題を振ってくる。
「ところで明日は何かするの?」
「明日?」
何のことだか分からずキョトンと目を瞬かせる。明日といえば一月十七日。何かあるんですか? と逆に尋ねてみると、今度は冴園さんの方が驚いたように目を丸くした。
「聞いてない? …………ああ、言わなそうだもんな、咲は」
「咲……東雲さんが何か?」
首を傾げる私に苦笑し、冴園さんが人差し指を立てながら答えてくれる。
「明日は咲の誕生日なんだよ。二十五歳の」
「へえ、そうなんですか」
アナウンスが流れ、電車が駅に入って来た。大勢の人が降り、大勢の人が乗り込み、駅が一時混雑する。それからすぐに扉が閉まり、電車が駅から離れていった。電車の風がスカートをはためかせる。
「本当に?」
「本当に」
「マジですか」
「マジです」
明日っ!? と素っ頓狂な声が駅に響く。そんな私に冴園さんが笑いながら言う。
「あいつ自分から誕生日言ったりしないもんなぁ。和子ちゃんが言っても『聞かれなかったから』なんて言うぜ、きっと」
むぅ、と片頬を膨らませてここにいない東雲さんに怒る。言ってくれれば良かったのに、という気持ちと、冴園さんが言った通り誤魔化すのだろうな、という気持ちが入り混じっていた。
「冴園さんは何かします? プレゼントあげたりとか」
「家に寄ってプレゼントでも贈ろうかとは。ただ、仕事が終わってからだから、夜中になっちゃいそうだなぁ」
明日中に間に合えばいいんだけど、と溜息を付く彼に、東雲さんはどういう物が好きなのかと尋ねてみた。小学校からの幼馴染である冴園さんなら東雲さんの好みそうなプレゼントが分かるんじゃないかと思った。今までに私が祝った誕生日なんて中学校時代までの友達しかいないし、その全てが女の子だった。まさか男の人に、それも大人に、可愛いアクセサリーやぬいぐるみをプレゼントするわけにもいかない。
冴園さんは顎に手を当て、しばし唸るように考え込んでから首を傾げる。
「好きな物ねぇ……咲はあまり好き嫌いハッキリ言わないから…………高いコーヒーとか煙草とか、喜ぶかも」
「む、難しいですね……冴園さんは何を?」
「俺はとりあえずブランドの腕時計を贈ろうかなって。でも和子ちゃんはまだ高校生だし、あまり高いのもなぁ」
難しい顔で考えてから、冴園さんは途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
「物じゃなくても、気持ちが伝わるものとか喜ぶと思うな。和子ちゃんがされて嬉しいことをしてあげればいいんじゃないかな?」
「でも、そういうので喜んでくれるかなぁ」
「表に出さなくても絶対喜ぶって。保障する! あいつ和子ちゃんのこと好きじゃん」
「えっ!?」
「普段よく一緒にいる時点で、咲にしては凄いことだと思うよ。普段ほとんど他人と関わろうとしない、どころか、遠ざけたがるタイプなのに」
「す、好きって……それ、それって」
「和子ちゃんのこと、仕事のパートナーとして認めてるんだと思うよ!」
あ、そっちですか。
そうですねー、と生返事をしながらも考える。私が彼にされて嬉しいこと? それって何だろう。東雲さんといると何でも嬉しく感じてしまうから、余計に難しい。
…………そうだなぁ、彼と会って初めて『嬉しい』と思ったことって、一緒にご飯を食べたことだろうか。東雲さんの作ってくれたご飯は美味しくて温かくて、一人じゃない食事ということが幸せだった。そう思えば私が東雲さんに好意を持ち始めたのも、ご飯をきっかけとしてだったのかもしれない。胃袋を掴まれたんだろうか。何だかあまり格好の付かない理由だけど。
でもいつも東雲さんの家に泊まるとき、料理を作るのは彼だ。彼の方が料理の腕は上と言えど、毎度頼りっぱなしでは申し訳ない、それに仕事の後に料理をしていることを考えれば疲れた彼に鞭を振るっているようなものだ。誕生日くらい私がご飯を作ってあげよう。うん、それがいい、そうしよう。
「それじゃあ和子ちゃん、プレゼント頑張って」
「はい。冴園さんも、お仕事頑張ってください!」
私が考えている間に来た電車に、そう言って冴園さんが乗り込んでいった。行ってらっしゃいと手を振って電車が駅を出ていくのを見送り、それから拳を握って決意を固める。
帰ったら早速、東雲さんに電話して明日のことを伝えよう。
「東雲さん明日誕生日なんですよね!」
『…………冴園か』
あの後家に帰った私は、パジャマに着替えてスマホを片手にベッドの上に転がった。発着信履歴をほとんど埋めている電話番号にコールし、三回目にして出た彼に、前置きもなくそう言った。
足を伸ばして座りながら、両手で持ったスマホに耳を傾ける。そこから聞こえてくる声はどこか面倒そうに億劫な色を含ませていた。構わず私は続ける。
「何で教えてくれなかったんですかー? 言ってくれてたら、パーティーの準備とかできたのに」
『聞かれなかったからな』
「ふふ、冴園さんの言った通りだ」
『は?』
いえ何でも、と笑ってからベッドの上で膝を丸める。膝の上に頬を乗せ、少し胸を高鳴らせながら声を弾ませた。
「それでね。明日、東雲さんの家に行きたいんですけど、お昼とか――」
『明日は駄目だ』
早口で告げられた言葉に眉を寄せた。訝しげな気持ちが伝わりでもしたのか、東雲さんは少したどたどしい言葉を続ける。
『明日は…………昼は用があって、出かけるんだ。夜ならいい』
「あ、はい、分かりました……。どこに行くんですか?」
『ちょっとな』
あまり詮索してほしくないのか、簡潔に答えた彼の言葉に渋々頷く。その後数言短いやり取りを交わしてから通話を切る。そのまま枕元にスマホを起き、毛布を被りながらも、東雲さんの何かを隠すような態度が気になってすぐには眠りに付けなかった。
明日の昼に東雲さんはどこへ出かけようとしているのだろう。彼はたまに私を置いて大きな仕事に行くことがあるけれど、明日もそういうことをしようとしているのだろうか。……いや、でもそういう時、彼は正直に私に行き先を隠すことはない。自分から言うことはないけれど、聞かれて誤魔化すことはない。じゃあ、どこに行くんだろう。…………考えても分からないものは分からない。夜は行っていいと言われているのだから、あまり彼の行動を探るのは止して、夜のことを考えることにしよう。何を作ろうかな? やっぱり料理以外に、ちょっとしたプレゼントも買おうかな? 街へ行って見てみようか、たまには少し遠出して、別の区に行ってみるのもいいかもしれない。
かれこれ十分くらい考えていると、流石に瞼が重くなってくる。トロトロと微睡みながらふと窓に目を向けたとき、締めたカーテンのちょっとした隙間から夜空が見えた。ぽっかりと浮かぶ満月の周りに、キラキラと輝く星が散らばっていた。
雑貨屋の棚をじっくりと眺めてから溜息を付く。一風変わった文房具やアンティークな置物は私にとってはそれなりに興味を引かれるものだったが、東雲さんが喜ぶだろうかと考えるといまいち手が伸びなかった。一通り眺めてから店を出る。歩き通しで疲れた肩を回し、特に行く宛てもなく街をふらついた。
一月十七日の昼。東雲さんの誕生日プレゼントを探すために私は第一区にやって来ていた。たまには休日にもあまり行ったことのない所に来てみようとやって来たものの、前に来たのは大分前だったからか、駅前の道も忘れてしまっていた。のんびりぶらりと店を回っているものの、中々いい物は見つからない。駅前以外にも何かあるだろうかと足を伸ばして駅前を離れる。商店街を通り抜け、住宅街まで出たとき、ふと鼻先に冷たいものが触れた。
「うわ、降ってきちゃった」
空を見上げるとそこから白いものがちらほらと降ってきた。軽い綿が風に揺れるように、ふわふわと左右に揺れながら、雪が落ちてくる。元より寒かった気温が更に身に沁みるように感じ、マフラーに鼻を埋めた。
「あれ?」
はたと足を止めて前後左右に首を振る。どこを見ても見知らぬ住宅が広がるばかりで、商店街が見えなくなっている。どうやらいつの間にか住宅街の中に迷い込んでしまったようだ。少し焦って、とりあえず横の道へと進んでみても、通ったんだか通っていないんだかさっぱり分からない。完璧な迷子だった。
この歳で迷子なんて恥ずかしすぎる。とにかく商店街か駅前に出なくっちゃ。
目印になるようなものなど分からない。とりあえず目に付いた方向にどんどん進んでいく。不幸にも道に人気は全くなく、近くに道を尋ねられそうなコンビニや交番もない。
「……どうしようかなぁ」
ぶつぶつと独り言を呟きながら歩く。焦りながら進む度、むしろ一層駅から離れてしまっているのではないかと不安になった。私を馬鹿にするように、雪の粒が段々と大きくなっていく。真新しいアパートの前を通り、工事中のビルの傍を過ぎ、大きな和風家屋の手前を曲がる。寒さで震える足を動かし、薄っすらと雪の積もっていく道路を踏み締める。
かれこれ何分が経ったのだろう。恥を忍んで近くの家の人に道を尋ねようかと考えたとき、道の角を曲がった先によく知ったコートを見かけた。深緑色のモッズコート、それに、黒い短髪の後頭部。もし人違いだったらと考える間もなく私は叫んでいた。
「東雲さん!」
振り返ったその人の三白眼を見て、思わずほっと安堵の息を漏らしながら駆け寄った。膝に手を付いて切れた息を整え、顔を上げてふにゃりと笑う。東雲さんは驚いたように目を丸くしていた。
「ああ、良かったぁ。知ってる人がいたぁ」
「お前……何でここにいるんだ?」
「ぶらぶらしてたら、道に迷っちゃって」
そこまで言ってから東雲さんが手に花束を抱えていることに気付いた。淡い色合いの様々な花が纏められた花束を見つめていると、東雲さんが困ったように肩を竦めた。
「和子。帰り道は分かるのか?」
弾かれたように首を横に振ると、東雲さんは悩むような溜息を吐いた。一瞬視線を泳がせてから、しょうがないなと言いたげに頬を掻く。
ついてこい、と言われて東雲さんの横に付いて歩く。白い息を吐く唇から言葉を零すことなく、お互いに何も喋らない。坂道を上り、枯れ木が左右に並ぶ通りを進む。そうして辿り着いた先にあったものを見て、私は戸惑いの視線を東雲さんに向けた。彼はそれを無視して花束を手に歩む。その後ろをついて行くと、彼はそのうちの一つの前で足を止め、しゃがんだ。風が吹いて、その手にある花が微かに揺れる。
ここは霊園。たくさんの墓が均等に並んだその一箇所に、私達はいた。『東雲家之墓』と書かれた墓の前に。
「――――……今日は俺の両親の命日なんだ」
私の無言の疑問に答えるように、東雲さんが言った。その台詞に目を丸くしながらも新たな疑問にモヤがかかる。今日は東雲さんの誕生日、それなのに両親の命日とは、どういうことなのだろう。
墓にかかった雪を払い、東雲さんが花束を飾る。袋から線香を取り出し、火を付ける。そうやって準備をして供えてから手を合わせ、目を閉じた。私もしゃがんでそれをぼんやりと見ていると、しばらくしてから目を開いた東雲さんが語る。
「俺は両親と喋ったことがない」
線香の煙がゆらりと揺らいだ。東雲さんの吐く白い吐息が零れては消えていく。しゃがんだ状態を保とうと近くの段差に手を置いていたけれど、不思議と冷たさが薄れていくようだった。
東雲さんの唇から、吐息ではなく言葉が流れ出す。いつもよりも饒舌に言葉が紡がれる。
「今日みたいな雪が降る日だったらしい。両親が乗っていた車に一台のトラックが突っ込んできた。父さんは即死、母さんも重体で危険な状態。その上そのときの彼女の腹の中には出産予定日を数週間後に控えた俺がいたらしい。母子ともに危険な状態でお決まりの母体と胎児の選択。自分も助かりたかっただろうに、彼女は俺を選んでくれた。結局母さんは亡くなって、帝王切開で生まれた俺も危なくて、数週間も生死を彷徨っていたらしい。両親に兄妹はいなかったようで、俺に親戚はいなかった。唯一の親族として残っていたのは母方の祖母だけだった。祖父は大分前に亡くなっていたらしいからな。連絡を受けて自宅から病院に駆け付けた祖母は、自分の娘の死体を見ても特に取り乱さなかったらしい。ただ保育器でたくさんの管に繋がれていた俺に名前を付けてくれたんだ。今にも死んだっておかしくない孫に」
そう言う東雲さんは、少し可笑しそうに笑って私に顔を向ける。知ってるか? とくすぐったい声で聞いてくる。
「名前には力があると言い伝えがあってな。例えばあまりに馬鹿げた名前の子が死ぬと、閻魔が人間じゃないと思って現世に投げ返したりするんだと。他にも体が弱い赤ん坊には逆の性別の名前を付けると、悪霊が混乱して連れて行かない、なんてのもある。祖母はそんな意味も込めて、俺に咲って名前を付けてくれたんだ。子供のときは女みたいだとからかわれるのが嫌だったが……今では誇りに思っている名前だ」
呼ばれるのは少し恥ずかしいが、と呟く。私は彼の名を初めて聞いたときのことを思い出していた。あのときは思わず偽名かと尋ねてしまったが、そんな事情があったなんて知らなかった。失礼なことをしたなと今更ながら後悔が浮かぶ。
東雲さんのご両親が生きていたのなら、彼にどんな名前を付けたのだろう。そんな思いが僅かに胸に引っかかった。
「じゃあ、東雲さんはおばあさんと暮らしてたんですか」
「ああ、第一区で二人暮らしだった。祖母の家はでかい屋敷でな。冴園が初めて遊びに来たとき、凄くびっくりしてたのが面白かった」
だからお墓がこの区にあるのかと納得した。おばあさんとは離れて暮らしているようだったけれど、恐らく東雲さんのご両親も第一区に住んでいたのだろう。
そういえば冴園さんが、東雲さんはおばあちゃんっ子だったと言っていたっけ。どこか遠くを見つめるその目は、いつもよりも柔らかくなっている気がした。
「俺を育ててくれたのはあの人だ。一人で生活するにも不便がある歳だったろうに、手間のかかる子供を引き取って育ててくれたんだ。感謝してもし切れない」
「どんな人だったんですか?」
「そうだな……凄く、厳格な人だった。少しでも悪いことをすると一時間以上正座させられるんだ」
あれはきつかったな、と東雲さんが思い出すように笑った。だけど優しい人だった、と落ち着いた声で付け足す。
「俺のことを想って育ててくれた。いつ俺が一人になっても大丈夫なように、家事だって教えてくれた。祖母がいなかったら何もできないままだったろうな」
そこまで言って、ふと東雲さんが目を伏せた。
「高校に入って二年目の冬、亡くなったけれど」
雪が一粒東雲さんの手に落ちて溶けた。寒さにスンと鼻を啜ると、空気の冷たさに頭が痺れるような感じがする。
憂いを漂わせる彼の肩に手を伸ばしかけて、途中で下ろした。だって何を言えばいいのか分からない。そんなときにふと浮かんだのは一つの疑問で、空気を変えようと私は尋ねていた。
「用って、お墓参りのことだったんですか」
「ああ」
「言ってくれれば良かったのに」
「格好が付かないだろう?」
彼はそう言って、自虐的に眉を寄せた笑みを浮かべた。怪訝に目を細める私に「殺し屋が墓参りなんて」とそっと答える。
「そもそも誕生日を祝われるのだって、あまり好きじゃないんだ」
「どうして?」
「人を何人も殺してきた人間の誕生日なんて皮肉でしかない。それを祝われる度、今までのターゲットから呪われてしまいそうで、怖いんだよ。『生まれた日』というのは俺には縁がない。祖母も父母も俺の周りで死んでいった、親しい友人が死んだこともある。俺の周りで皆死んでいくし、俺も誰かを殺してる。……死神にでもなった気分だ」
吐き捨てるような彼の言葉には、珍しく荒げた感情が込められていた。今日の東雲さんはよく表情を変える。それはこの霊園という人の死が集う場所にいるせいで、そして自分の大切な人の墓の前だから、感情的になっているのかもしれない。
東雲さんが立ち上がって膝を払う。戻るぞ、と告げるその顔に先程までの饒舌さはまるでなかった。ぼんやりとしたまましゃがみ続ける私を、彼は黙って見下ろしていた。気が付けば口から言葉が零れていた。
「私も挨拶していいですか?」
墓を見ながら言うと、東雲さんは好きにすればいいと言った。ありがとうございます、と礼を言ってから、墓の前で手を合わせる。細く息を吐きながら目を閉じた。
東雲さんの家族。顔も名前も知らないけれど、何故だか他人だとは思えなかった。彼らは東雲さんのことを見守ってくれているのだろうか。墓石は当然何も喋らないから、答えは分からない。だから一方的に心の中で語りかける。
祈り終わって目を開ける。随分と長い間目を閉じていたけれど、横を見ると東雲さんは風に吹かれてもずっとそこにいてくれた。寒そうに吐息を吐き出し、行くぞと墓から顔を逸らす。頷いて立ち上がり、先を歩く彼を追う。最後に一度、撫でるように墓に触れ、小声で呟く。ひたりと冷たい温度が手の内に広がった。
「東雲さんのことは私が守ります」
いつも守られてばかりじゃない。私だって彼を守りたい。だから、安心してください。
まるで結婚前の挨拶のようだと思いながら、小さく微笑んだ。墓から手を離し、東雲さんの隣へ付く。顔を見上げながら尋ねた。
「用はこれだけですか?」
「ああ」と東雲さんは霊園を振り返って白く息を吐いた。「今日は両親の命日だから」
そっか、と頷いて私は前を見る。大粒の雪がふわふわと舞い降りているのを見て、今日は寒いですねと囁いた。
寒いから、早く帰ろう。
温かい部屋に二人で。
今日は私がご飯を作りますと宣言してから約数十分。テーブルに並んだできあがった料理を前にして、私と東雲さんは向かい合って座っていた。
東雲さんの部屋のリビング。大きめのテーブルの上に置かれた深皿に盛られた、肉とジャガイモとにんじんとグリーンピース。
「和子」
「はい」
「何を作ったって?」
「……肉じゃがです」
だよな、と東雲さんが箸で近くにあったにんじんを摘まむ。表はオレンジ色のそれは、ひっくり返してみると真っ黒に焦げていた。
じーっと注がれる視線から顔を逸らしつつ、ぎこちなく言ってみる。
「じ……じっくりやった方が美味しいかなと思ってたんですけど、面倒になって強火でガーッとやったら焦げちゃって」
「たくさん買ってたわりにジャガイモの量が少なくないか?」
「皮と芽の毒が危ないから、念入りに剥いてたら実の方が薄くなって」
「そうか」
「あ、はは……は」
いや、できると思ってたんだ本当に。そりゃあ普段はレンジでチンすればいつの間にかパスタができてる生活を送っていて、まともな料理をした記憶なんか数週間前のものだけど、丁寧にやればいけると高を括っていたんだよ。肉じゃがだったらそんな手間はかからないだろうし、男の人が彼女の作ってもらうと嬉しいランキングに入ってたりするっていう下心もあったけど……それ以前にこれはない。
「ごめんなさい……まだ少し材料が残ってるので、それを使って何か作ってください。これは私が食べますから……」
しょぼんと気落ちしながら言った。作り手である私から見ても、見るからに美味しくはなさそうな肉じゃがを、誕生日プレゼントとして東雲さんに食べさせるわけにはいかない。それに丹精込めて作ったのは確かなのだから。ただちょっと手際が悪くて、焦げてきた鍋に慌てて調味料をぶち込んだり、色が薄いのかと思って大量の醤油を入れたら壮絶なことになったりしただけだ。形としてだけでも完成している方が奇跡のようなもの。
……結局物としてのプレゼントは買えなかったから頑張ろうとしたんだけど。何で私、こんなに不器用なんだろう。
肩を落とす私を、東雲さんは黙って見つめていた。それからふっと息を吐いて、箸で摘まんでいたにんじんを口に入れた。あっと声を零した私の前で彼がそれを咀嚼する。ボリボリと生の野菜を齧るような音を立ててから、それを飲み込んで私に言った。
「焦げてるわりに中は固いし、しょっぱいし、美味いとは言えないな」
「…………はい」
「今度、練習するか」
「えっ?」
呆けた顔で東雲さんを見ると、彼は無言でジャガイモを摘まんでいた。ああはい分かりましたとぼんやりとした返事を返しながら、一拍置いてじわじわと嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
美味しくはない。けれど、だからと言って彼は私の料理を馬鹿にはしないでくれる。それが無性に嬉しくて嬉しくて、ニヤける顔を隠すように固いジャガイモを頬張った。
食事を終えてお皿を拭きながら、隣でスポンジを握る東雲さんの顔を見上げた。視線に気が付いた彼がこっちを見て、何だ? と尋ねてくる。
「東雲さんは誕生日があまり好きじゃないって言ってましたけど」お皿を拭く手を止め、目を細めて告げる。「私は、東雲さんが生まれてきてくれて、凄く嬉しいんですよ」
だって彼がいなければ今の私はいないのだし。
それに、大好きな人の誕生日というのは、とても嬉しいものだから。
「私だけじゃないです。東雲さんのお父さんもお母さんも、おばあさんも。冴園さんだって、東雲さんが生まれてきてくれて本当に嬉しかったと思いますよ?」
いつの間にか蛇口の水が止まっていた。手を濡らした東雲さんが私を見ている。どこか訝しげに眉を顰めて。
信じられないのかな、なんてふと感じた。自分が皆に愛されていることを受け入れられないのだろうか、と。その気持ちはよく分かる。誰でもそんな気持ちを持っていて、特に自分を愛せていない人がなりやすい。
だけど、もしも東雲さんがそんな気持ちを抱いているのだとしたら。もしも東雲さんが自分を愛せていないのだとしたら。解決策は簡単だ。彼に信じてもらえるくらい、私が彼を愛せばいいだけ。
そんな感情を込めて私は彼に微笑んだ。思いの丈を全てぶつけるように、心からの愛を言葉にして伝える。
「お誕生日おめでとうございます、東雲さん。大好きです」
露骨すぎただろうか、と言ってしまってから少し羞恥に頬を赤く染めた。東雲さんは一瞬固まったように動きを止め、僅かに目を見開いた。じっとお互いに見つめること三秒間。そうか、と一言吐いて私から顔を逸らし、スポンジを泡立てる。まともに取り合ってももらえなかったのか、とちょっと寂しく思いつつふと彼の横顔に目を向けた。固く結んだ口と表情は変わらない。けれど髪から覗く耳が、仄かに赤く色付いていることに気が付いた。
「……………………」
「東雲さん?」
「何だ」
「もしかして照れてます?」
「あ?」
「あぁー、やっぱり照れてるー」
「うるさい」
そう言って蛇口を捻った東雲さんだったけれど、捻りすぎてバシャバシャと溢れ出した水流に焦っていた。そんな様子がとても可愛く見えて笑うと、不貞腐れた顔で睨まれる。
ああ、やっぱり東雲さんが生まれてきてくれて、本当に良かった。そんなことを思いつつ、私は東雲さんに微笑み続けた。
「……えへへ」
『あなたのことを愛してます』。そんな言葉は言えないままだったけれど、だけど今は、これでいいと思っていた。
これがいいなって、そう思った。




