殺されなかった男の祝杯①
受付の椅子には、作業着の男が先に座っていた。
膝の上に図面の筒を載せ、紙コップのコーヒーはもう空になっている。千歳が名乗ると、受付の机にいた大柄な男が立ち上がった。四十代の半ばくらいで、背広の肩が少し窮屈そうだった。
「朝瀬署の方ですね。会長から伺っています。少々お待ちください」
戸倉と名乗った男は内線の受話器を取り、短く返事をして置いた。それから作業着の男の方を向いた。
「申し訳ありません。もうしばらくお待ちください」
作業着の男は何か言いかけて、筒を持ち直した。戸倉は千歳と島田に向き直り、奥の扉を手で示した。
「どうぞ」
島田が千歳の顔を見た。千歳は小さく首を振って、扉へ向かった。順番を譲られる理由はなかったが、ここで断っても作業着の男が先に呼ばれるわけではなさそうだった。
朝瀬市の中心部にある複合ビルの二階だった。廊下の突き当たりに「鷲尾」とだけ書いた札が出ている。征吾が会長を退いてから使っている個人の事務所だと、署を出る前に聞いていた。
応接室には二人いた。
窓を背にした机に、白髪の男が座っている。机の脇に杖が立てかけてあった。もう一人は手前のソファにいて、千歳が入ると顔を上げた。
「榧野さん」
久瀬未明だった。
千歳の足が鈍り、後ろの島田が慌てて立ち止まった。
「知り合いか」
白髪の男が言った。鷲尾征吾は六十七歳と聞いていたが、声は張っていた。
「ちょうどいい。探偵と警察、両方に聞かせれば、どちらかは本気で動く」
未明は千歳に会釈しただけで、何も言わなかった。千歳も会釈を返し、名刺を出して名乗った。島田がそれに続く。征吾は名刺を受け取ると、読まずに机の端へ重ねた。
「座ってください」
征吾は携帯電話を机に置き、こちらへ滑らせた。
明日は来ないでください。話し合いはありません。僕が説明します
送信者は鷲尾圭介。日付は今朝の七時四十分だった。
「甥です。二週間前、圭介が言ってきた。柳井が私と和解したがっていると。柳井というのは、昔一緒に会社をやっていた男だ。十年前に喧嘩別れした」
「和解の場所は」
「会社が昔持っていた別荘です。今は保養所として残している。圭介が予約を取って、私を車で連れていくと言った。明日の夕方に」
征吾は指で画面を叩いた。
「それが今朝、これだ。説明すると書いておいて、電話には出ない」
千歳は文面をもう一度読んだ。来ないでください。話し合いはありません。取り消しの連絡にしては、言葉が多い気がした。
「柳井さんには確認されましたか」
千歳が聞くと、征吾は鼻で笑った。
「するまでもない。柳井が私と和解したがるはずがない。だが、もう七十だ。人は年を取ると気が弱くなる。そういうこともあるかと思った」
征吾は杖に手をかけた。
「私は弱くならないがね。私が長生きしているのは、人の親切を信じなかったからだ」
「では、どうして行くことにしたんですか」
未明が言った。
「親切を信じないなら、和解の話にも乗らなかったはずです」
「乗ったふりをした。誰が何をしたいのか、見てやろうと思った」
「そうですか」
未明はうなずいた。それ以上は聞かなかった。千歳は彼の横顔を見たが、何を考えているのかは分からなかった。
千歳は相談の内容を手帳にまとめた。圭介が予約した日時、別荘の場所、征吾が最近受けた連絡。征吾は質問のたびに少し間を置き、答えるより先にこちらの顔を見た。
「最近、身の危険を感じたことは」
「いつもだ」
「具体的に、誰かから」
「恨んでいる人間なら名簿が作れる。必要なら戸倉に作らせる」
冗談なのかどうか分からなかった。征吾は笑っていなかった。
「お話はご相談として伺います。こちらで必要な確認をします。久瀬さんへのご依頼とは別に扱います」
「好きにすればいい。どちらが先に答えを持ってくるか、見ている」
帰りに受付を通ると、作業着の男はまだ同じ椅子に座っていた。紙コップは片づけられていた。戸倉は千歳たちに頭を下げ、それから受話器を取った。
「お待たせいたしました。どうぞ」
作業着の男がようやく立ち上がった。
*
ビルの外で、未明が追いついてきた。
「榧野さんが来るとは思いませんでした」
「私もです」
島田が車を回しに行き、二人だけになった。千歳は声を落とした。
「いつ頼まれたの」
「今朝です。九時ごろ電話がありました」
「警察に相談したのは、その後」
「征吾さんは、僕と警察のどちらが先に答えを持ってくるか、見たいんだと思います」
「競争する気はない」
「僕もです」
未明は少し考えた。
「答えが分かれば、どちらでも」
それは競争する気がないという意味なのか、千歳には分からなかった。島田の車が角を曲がってくるのが見えた。
*
「君が見たものから話して」
翌朝、係長の榎戸はそう言って、千歳の手帳を閉じさせた。
千歳は事務所で見聞きしたことを順に話した。撤回の文面、和解の話、別荘の予約、征吾の言葉。久瀬未明という探偵が同席していたことも伝えた。榎戸は途中で一度だけ「その探偵は、君の知り合い」と確かめた。
「知り合いです。今回は征吾さんが雇っています」
「分かった。向こうの仕事には口を出さない。こちらの情報も渡さない」
榎戸は机の上の紙に、確認先を三つ書いた。柳井。圭介。別荘。
「会合は取り消されてる。でも、誰が何のために組んだ話かは分からない。危ないかどうかは、それが分かるまで決めない」
千歳は柳井に電話をかけた。
出たのは本人だった。和解の話を伝えると、しばらく返事がなかった。
「招待? 知りませんね」
「別荘での会合について、圭介さんから連絡は」
「ありません。あの男が私と和解したがるはずがない」
柳井は征吾と同じことを言った。
「私もしたくない。十年前に済んだ話です」
それで電話は切れた。千歳は受話器を置き、少しの間その言葉を考えた。和解したがっていない二人を、和解の名前で同じ場所に集めようとしていた。
圭介には三度目でつながった。
「叔父が、警察に?」
若い男の声だった。驚いているというより、疲れているように聞こえた。
「ご相談を受けて、確認しています。今日の会合は」
「ありません。叔父にも、別荘にも行きません」
「取り消した理由を伺えますか」
少し間があった。
「今日は、すみません。婚約者の実家に挨拶に行くことになっていて。昨日、向こうの都合がついたので」
「どのくらいかかりそうですか」
「夜まで。明日、署へ行きます。自分で説明します」
千歳は手帳の端に、明日、と書いた。
「やめた理由は、野々村という元同僚にも聞いてもらえれば分かると思います」
圭介は電話番号を読み上げた。千歳はそれを書き取り、もう一つ聞いた。
「今日、別荘へ行く予定の人はいますか。あなた以外に」
今度の間は、さっきより長かった。
「……僕の知る限りでは、いません」
「予約は」
「まだ取り消していません。今日中にします」
電話を切ると、榎戸がこちらを見ていた。
「知る限り、ね」
榎戸は島田を呼び、別荘の管理人に予約を確かめさせた。島田は短く話して、受話器を置いた。
「今日から一泊、鷲尾圭介さんの名前で。人数は二人だそうです。圭介さんと、会長さん」
千歳は手帳の、柳井の名前を見た。
「柳井さんは、泊まらない予定だったのかな」
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