殺されなかった男の祝杯②
榎戸の指示で、千歳と島田はその日の午後、別荘へ向かった。
旧社有別荘は、市街地から車で四十分ほど走った山の手前にあった。
木造の二階建てで、玄関の脇に古い社名の入った石が残っている。管理人の早瀬は六十を過ぎた小柄な男で、千歳たちが警察だと名乗ると、なぜか少し嬉しそうな顔をした。
「何か事件ですか」
「確認です。今日と明日の予約を伺いたくて」
早瀬は事務室の帳面を開いた。几帳面な字で日付と名前が並んでいる。
「お電話でお伝えしたとおり、今日から一泊、鷲尾圭介様。会長さんとお二人で、お食事はいらないと」
早瀬は頁を戻した。
「それから、二週間ほど前に下見の方が。井槻様。昔、会長さんの秘書をしておられた方で、ここの予約もよくあの方が取ってらしたんです。懐かしいって、台所まで見て回られて」
早瀬は思い出すように天井を見た。
「勝手口を何度か開け閉めしてましたね。建て付けが悪くなってないか見てくれたのかと思って、お礼を言いました」
島田の手帳が止まった。千歳は帳面の名前を写した。井槻沙和。
車の音がして、早瀬が窓の外を見た。
「今日はお客が多いなあ」
タクシーから降りてきたのは未明だった。
「征吾さんの代理です」
未明は早瀬に名刺を渡し、予約がまだ残っているかを尋ねた。早瀬は先ほどと同じ頁を開いて見せた。未明は鷲尾圭介の名前を確かめると、礼を言って帳面を返した。下見の欄には目を落とさなかった。早瀬がお茶を淹れに奥へ入った。
「柳井さんのこと、聞きましたか」
未明が言った。千歳は答えなかった。
「征吾さんが昨日の夜、柳井さんに電話したそうです。招待なんて知らないと言われて、受話器を投げたと戸倉さんが」
「依頼人の話は、依頼人に返して」
「そうします」
未明は事務室の窓から、別荘の玄関を見た。
「存在しない話し合いのために、征吾さんをここへ連れてくる予定だった。運転するのは圭介さん」
「取り消したでしょう」
「取り消したのは招待です。予約はまだ残っている」
島田が口を開きかけた。千歳はそちらを見ずに、手帳を閉じた。島田は口を閉じた。
「誰と来るつもりだったのか。そこが分かれば、取り消した理由も分かる」
千歳は早瀬の帳面の、下見の欄を思い出した。言わなかった。
早瀬がお盆に湯呑みを三つ載せて戻ってきた。四人いるのに気づいて、もう一つ取りに戻った。
*
野々村は、勤め先の近くのファミリーレストランを指定してきた。
三十五歳前後の、髪の短い男だった。千歳たちより先に来ていて、ドリンクバーのグラスが二つ並んでいる。一つは空で、もう一つは氷が溶けていた。
「圭介から、警察が来るかもしれないって」
「今日、お電話でそう伺いました」
「何かあったんですか」
「確認をしているところです」
「三日前に、井槻さんが会社の近くまで来たんです。昔の秘書の。僕も前にあの会社にいたので、顔は知ってました」
「何を聞かれましたか」
「圭介のことです。昔、圭介が何を言ってたか」
野々村は島田の手帳を見て、少し声を落とした。
「会長の会社のこととか、そういうのを聞かれるんだと思ってたんです。でも違った。圭介が会長のことを何て言ってたか、それだけでした。飲み会のこととか」
「飲み会で、何か」
「五年くらい前の忘年会で、圭介が酔って。あの人が死なない限り、俺はどこにも行けないって」
野々村はすぐに付け加えた。
「本気じゃないですよ。あのころ、会長にずいぶんやられてたから。みんな聞き流してました」
「井槻さんは、それを聞いてどうしましたか」
「誰がその場にいたかって。名前を言ったら、メモしてました」
「井槻さんは、どういう方ですか」
「会長の秘書を十年やって、最後は会長の代わりに謝った人です。市の入札の件が記事になったとき、指示したのは自分だって。会長の名前は出なかった。その後すぐ、辞めさせられました」
野々村はそこで口を閉じた。
「井槻さんが昔の発言を聞きに来たことは、圭介さんに伝えましたか」
「次の日の夜に。気持ち悪かったんで。井槻さんがお前の昔の話を聞きに来たぞって」
「圭介さんは、何と」
「分かった、ありがとう、だけです」
一昨日の夜。圭介が征吾に撤回の連絡を送ったのは、その翌朝だった。
野々村は溶けた氷のグラスを両手で包んだ。
「僕が連絡したせいで、何か起きたんですか」
「何も起きていません」
そのときの千歳には、そう答えるしかなかった。
*
翌日の昼前、鷲尾圭介は自分で署へ来た。
電話の声から想像していたより背が高く、紺の上着の袖口を何度も直していた。面談室の椅子に座ると、携帯電話を机に置いて、両手を膝に下ろした。
「見せたら、僕も同じだと分かります」
圭介は千歳の顔を見た。
「分かってて持ってきました」
画面には、三週間ほど前の日付のやり取りがあった。相手の名前は井槻沙和。
圭介:脅すだけじゃないんですね
沙和:征吾を殺すつもりです。あなたにも分かったうえで連れてきてほしい
圭介:分かりました。和解の話だと言って誘います
島田が息を止めたのが分かった。千歳は画面から目を上げなかった。もう一度、最初から読んだ。
「このやり取りの後、何をしましたか」
圭介は答えた。叔父に柳井との和解の話をしたこと。別荘を予約したこと。井槻さんが下見に行くと言っていたこと。どうやって、とは聞いていない、と圭介は言った。聞かなかったのか、聞けなかったのか、千歳には区別がつかなかった。
「三日前の夜、野々村さんから連絡を受けましたね」
「はい」
「その翌朝に、叔父さんへ取り消しを送った」
「……はい。やめました。それだけは、本当です」
圭介は膝の上で手を握った。
「叔父にも、僕がやめたことを伝えたいんです。でも、会うのは……」
そこで言葉が止まった。
「叔父が雇った探偵さんがいますよね。その人に説明すれば、叔父に伝わる」
「久瀬さんですか」
「その人に話すとき、榧野さんにもいてもらえませんか」
千歳は返事をしなかった。圭介は続けた。
「警察に話したことと違うことを言っていないって、分かってもらいたいんです。叔父は、話を自分の都合で並べ替える人だから」
千歳は面談室を出て、榎戸に相談した。榎戸は少し考えてから言った。
「本人の説明に立ち会うだけ。こっちが調べたことは持ち込まない。向こうで聞いたことは、全部戻って話して」
「はい」
「それと」
榎戸は千歳の顔を見た。
「知り合いだからって、相手の推理に乗らないこと」
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