殺されなかった男の祝杯③
未明の事務所の階段では、新しい鉢植えがまだ枯れずにいた。
圭介は応接用の椅子に浅く座った。千歳は彼の少し後ろ、壁際の椅子に座った。未明は二人の顔を見比べ、千歳にだけ短く会釈した。
「僕が説明します、と書いていましたね」
未明が言った。
「征吾さんは、まだ説明を聞いていないと言っていました」
「だから来ました」
圭介は署で見せたのと同じ画面を出した。未明はそれを受け取り、時間をかけて読んだ。千歳は未明の表情を見ていたが、文面に驚いた様子はなかった。
「叔父を、死なせたくなかったんです」
圭介が言った。
「途中で怖くなって。こんなことをしたら、取り返しがつかないって。それで、やめました」
未明は画面から目を上げた。
「やめたのは一昨日の朝ですね」
「はい」
「その前の日に、何かありましたか」
圭介は千歳を振り返り、少し迷ってから、画面を切り替えて別のやり取りを出した。
井槻さんがお前の昔の話を聞きに来た。あの飲み会のこととか
「野々村です。前の会社の同僚で」
未明は二つのやり取りを交互に読み返した。三週間前の共謀のやり取りと、三日前の夜の野々村の連絡。翌朝の撤回の文面は、征吾の事務所で見ている。
「征吾さんを殺すつもりだとは、その前から聞いていた」
未明は画面を最初のやり取りに戻した。
「三週間前から、あなたはそれを知っていた。予約も取った。征吾さんにも和解の話をした」
それから、もう一度野々村の連絡を出した。
「野々村さんの連絡で初めて分かったのは、沙和さんがあなたの昔の発言を集めていたことですね」
圭介は答えなかった。
「飲み会で、何を言ったんですか」
「……あの人が死なない限り、俺はどこにも行けないって。酔って」
「ほかにも」
「たぶん、いくつか。覚えてないのもあると思います」
未明はうなずいた。声の調子が少し上がった。
「征吾さんが別荘で亡くなる。連れてきたのはあなたです。その後で、あなたが昔言った言葉を覚えている人の名前が並ぶ」
圭介の手が膝の上で止まった。
「沙和さんが、責任をあなたに負わせる準備をしている。そう思ったんじゃありませんか」
部屋が静かになった。
千歳は圭介の背中を見ていた。肩が一度上がって、下りた。
「……井槻さんは、僕を信用してなかった」
圭介は画面から目を離さずに言った。
「僕は前に一度、叔父のところから出て、また戻ったんです。仕事がなくて。井槻さんはそれを知ってる。だから、何かあったら、僕がやったことにする気なんだと思った」
「沙和さんに確かめましたか」
「確かめられるわけないでしょう」
圭介の声が初めて大きくなった。それから、自分で驚いたように口を閉じた。
「叔父を助けたかったのも、嘘じゃないです」
「それは否定していません」
未明はあっさり言った。
「あなたがやめたから、征吾さんは今日も事務所にいる。それは事実です。僕が分からなかったのは、どうして一昨日の朝だったのか、ということで」
「分かったんですか」
「今、あなたが話してくれたので」
未明は携帯電話を圭介に返した。
千歳は、自分が少し身を乗り出していたことに気づいて、座り直した。未明が言ったことは、署で日付を並べたときに千歳も考えたことだった。ただ、圭介が叔父を助けたかったと言ったとき、千歳はそれをそのまま聞いていた。
「沙和さんが実際に何を考えていたかは、僕には分かりません」
未明は付け加えた。
「あなたがそう思って、やめた。分かるのはそこまでです」
圭介は携帯電話をしまいかけて、しばらく握っていた。
「葵さん、という方は」
未明が言った。圭介が顔を上げた。
「征吾さんから、婚約されていると聞きました」
圭介はうなずいた。
「葵は何も知りません。昨日、葵の両親に会ってきました。来年の春に」
圭介はそこで言葉を切った。
「叔父が怖いんじゃありません」
未明は黙って聞いていた。
「あの人が誰に話すかが怖いんです」
「葵さんに、ですか」
圭介はうなずいた。
「知られたら、終わりです。僕がしようとしたこと。やめたとしても」
未明は少しの間、圭介を見ていた。それから言った。
「征吾さんには、確認できたことを報告します」
「僕がやめたってことは」
「報告します。あなたがやめた理由も」
圭介は立ち上がり、未明に頭を下げた。千歳にも下げた。扉の前で一度振り返りかけたが、そのまま出ていった。
*
バス停までの道を、未明はついてきた。
「この計画については片づきました」
未明は満足そうだった。千歳は、片づいたのは計画の方で、圭介と沙和の扱いはこれからだと思ったが、口に出すことではなかった。そのあたりを決めるのは榎戸たちで、未明ではない。
「征吾さんには、いつ報告するの」
「明日の十時です」
「どこまで」
「圭介さんがやめたこと。やめた理由。理由を説明するには、圭介さんが何を一番恐れていたかも要ります」
未明は歩きながら指を折った。
「沙和さんに責任を負わされること。それから、葵さんに共謀を知られること」
千歳は足を止めた。
「葵さんのことまで話す必要がある?」
「やめた理由を説明するには要ります。何を恐れたのかを抜くと、ただ気が変わっただけになる」
「圭介さんは、叔父さんが誰に話すかが怖いって言ってた。その叔父さんに話すの」
「征吾さんは、婚約していることはもう知っています」
「知られたくない中身は知らない」
未明は少し考えた。
「依頼は、圭介さんが何をしようとしていたか、です。やめた理由もその答えに入る。聞かれたことの半分だけ答えることはしません」
「圭介さんには、それを言ったの」
「やめた理由も報告します、と言いました」
千歳は事務所での圭介の顔を思い出した。報告します、と言われて、圭介は頭を下げていた。
「伝え方は考えて」
「正確に伝えます」
バスが来た。千歳は乗り込む前に振り返った。
「お疲れさま」
「榧野さんも」
未明はバスが角を曲がるまで、停留所に立っていた。
*
署に戻ると、榎戸が千歳を呼んだ。
「井槻沙和から話を聞いた」
別の係の担当者が、昼から聴取していたという。沙和は圭介とのやり取りがあったことは否定しなかった。ただ、ほとんど何も話さなかった。
「一つだけ、自分から言ったことがある」
榎戸は手元の紙を読んだ。
「圭介さんは一度、叔父のところへ戻った人ですから」
千歳は未明の事務所で聞いた圭介の言葉を思い出した。僕は前に一度、叔父のところから出て、また戻ったんです。
「それで、何をするつもりだったかは」
「言わない。弁護士と相談すると」
島田が別荘の早瀬に電話をかけていた。受話器を置いて、こちらを向く。
「昨日の夕方、圭介さん本人から取り消しの連絡があったそうです」
榎戸はうなずいた。
「会合はない。予約もない。計画をやめたことは、本人の説明と記録で一致してる。沙和の方は、これから」
千歳は未明の事務所での話を、未明の質問も含めて、順に報告した。榎戸は一度だけ途中で止めた。
「探偵の推理と、本人が認めたことを分けて」
「はい。圭介さんが認めたのは、沙和さんに責任を負わされると思ったこと。沙和さんが実際にそうするつもりだったかは、本人も知りません」
「それでいい」
*
翌日は午前の聴取が長引いた。
千歳が署の近くの定食屋に入ったのは、一時半を過ぎてからだった。昼の客がほとんど引けて、奥の席だけ空いていた。生姜焼きを頼んで水を飲んでいると、入口の戸が開いた。
「ここだと思いました」
未明だった。千歳の向かいに座り、品書きを最後まで読んでから、鯖の味噌煮を頼んだ。
「どうしてここだって」
「島田さんに聞きました。署の前で」
島田には後で何か言っておこうと思った。
「報告、済んだの」
「十時に。四十分ほどでした」
未明は湯呑みを両手で持った。機嫌がいいのは、顔を見れば分かった。
「乾杯を勧められました。殺されなかった祝いだそうです」
「朝から?」
「戸倉さんが冷蔵庫から出してきました。いいお酒らしいです。昼の酒は断りました」
鯖の味噌煮が来た。未明は箸を取り、珍しく黙って食べ始めた。千歳の生姜焼きより先に半分なくなった。
「征吾さんは、何て」
「圭介さんがやめた理由を聞いて、笑っていました。あいつらしい、と」
未明はご飯をおかわりした。
「君は、ここによく来るんですか」
千歳は箸を止めた。君、と呼ばれたのは初めてだった。
未明の方は、気づいている様子もなかった。答えを待って、こちらを見ている。
「……週に二回くらい」
「生姜焼きが多い」
「なんで分かるの」
「店の人が、聞く前に生姜焼きの皿を出そうとしていました」
千歳は返事をせずに、生姜焼きを食べた。
店を出ると、未明は午後は休みにすると言った。片づいた事件の後は、次の事件が来るまで何もしないことにしている、と。
千歳は署へ戻った。二時を少し過ぎていた。
三時前、島田が刑事課の部屋に駆け込んできた。
「鷲尾圭介さんが、けがをして病院に」
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