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明日の展示室には何もない(連載版)  作者: 白川 透


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11/15

殺されなかった男の祝杯③

 未明の事務所の階段では、新しい鉢植えがまだ枯れずにいた。


 圭介は応接用の椅子に浅く座った。千歳は彼の少し後ろ、壁際の椅子に座った。未明は二人の顔を見比べ、千歳にだけ短く会釈した。


「僕が説明します、と書いていましたね」


 未明が言った。


「征吾さんは、まだ説明を聞いていないと言っていました」

「だから来ました」


 圭介は署で見せたのと同じ画面を出した。未明はそれを受け取り、時間をかけて読んだ。千歳は未明の表情を見ていたが、文面に驚いた様子はなかった。


「叔父を、死なせたくなかったんです」


 圭介が言った。


「途中で怖くなって。こんなことをしたら、取り返しがつかないって。それで、やめました」


 未明は画面から目を上げた。


「やめたのは一昨日の朝ですね」

「はい」

「その前の日に、何かありましたか」


 圭介は千歳を振り返り、少し迷ってから、画面を切り替えて別のやり取りを出した。


  井槻さんがお前の昔の話を聞きに来た。あの飲み会のこととか


「野々村です。前の会社の同僚で」


 未明は二つのやり取りを交互に読み返した。三週間前の共謀のやり取りと、三日前の夜の野々村の連絡。翌朝の撤回の文面は、征吾の事務所で見ている。


「征吾さんを殺すつもりだとは、その前から聞いていた」


 未明は画面を最初のやり取りに戻した。


「三週間前から、あなたはそれを知っていた。予約も取った。征吾さんにも和解の話をした」


 それから、もう一度野々村の連絡を出した。


「野々村さんの連絡で初めて分かったのは、沙和さんがあなたの昔の発言を集めていたことですね」


 圭介は答えなかった。


「飲み会で、何を言ったんですか」

「……あの人が死なない限り、俺はどこにも行けないって。酔って」

「ほかにも」

「たぶん、いくつか。覚えてないのもあると思います」


 未明はうなずいた。声の調子が少し上がった。


「征吾さんが別荘で亡くなる。連れてきたのはあなたです。その後で、あなたが昔言った言葉を覚えている人の名前が並ぶ」


 圭介の手が膝の上で止まった。


「沙和さんが、責任をあなたに負わせる準備をしている。そう思ったんじゃありませんか」


 部屋が静かになった。


 千歳は圭介の背中を見ていた。肩が一度上がって、下りた。


「……井槻さんは、僕を信用してなかった」


 圭介は画面から目を離さずに言った。


「僕は前に一度、叔父のところから出て、また戻ったんです。仕事がなくて。井槻さんはそれを知ってる。だから、何かあったら、僕がやったことにする気なんだと思った」

「沙和さんに確かめましたか」

「確かめられるわけないでしょう」


 圭介の声が初めて大きくなった。それから、自分で驚いたように口を閉じた。


「叔父を助けたかったのも、嘘じゃないです」

「それは否定していません」


 未明はあっさり言った。


「あなたがやめたから、征吾さんは今日も事務所にいる。それは事実です。僕が分からなかったのは、どうして一昨日の朝だったのか、ということで」

「分かったんですか」

「今、あなたが話してくれたので」


 未明は携帯電話を圭介に返した。


 千歳は、自分が少し身を乗り出していたことに気づいて、座り直した。未明が言ったことは、署で日付を並べたときに千歳も考えたことだった。ただ、圭介が叔父を助けたかったと言ったとき、千歳はそれをそのまま聞いていた。


「沙和さんが実際に何を考えていたかは、僕には分かりません」


 未明は付け加えた。


「あなたがそう思って、やめた。分かるのはそこまでです」


 圭介は携帯電話をしまいかけて、しばらく握っていた。


「葵さん、という方は」


 未明が言った。圭介が顔を上げた。


「征吾さんから、婚約されていると聞きました」


 圭介はうなずいた。


「葵は何も知りません。昨日、葵の両親に会ってきました。来年の春に」


 圭介はそこで言葉を切った。


「叔父が怖いんじゃありません」


 未明は黙って聞いていた。


「あの人が誰に話すかが怖いんです」

「葵さんに、ですか」


 圭介はうなずいた。


「知られたら、終わりです。僕がしようとしたこと。やめたとしても」


 未明は少しの間、圭介を見ていた。それから言った。


「征吾さんには、確認できたことを報告します」

「僕がやめたってことは」

「報告します。あなたがやめた理由も」


 圭介は立ち上がり、未明に頭を下げた。千歳にも下げた。扉の前で一度振り返りかけたが、そのまま出ていった。


*


 バス停までの道を、未明はついてきた。


「この計画については片づきました」


 未明は満足そうだった。千歳は、片づいたのは計画の方で、圭介と沙和の扱いはこれからだと思ったが、口に出すことではなかった。そのあたりを決めるのは榎戸たちで、未明ではない。


「征吾さんには、いつ報告するの」

「明日の十時です」

「どこまで」

「圭介さんがやめたこと。やめた理由。理由を説明するには、圭介さんが何を一番恐れていたかも要ります」


 未明は歩きながら指を折った。


「沙和さんに責任を負わされること。それから、葵さんに共謀を知られること」


 千歳は足を止めた。


「葵さんのことまで話す必要がある?」

「やめた理由を説明するには要ります。何を恐れたのかを抜くと、ただ気が変わっただけになる」

「圭介さんは、叔父さんが誰に話すかが怖いって言ってた。その叔父さんに話すの」

「征吾さんは、婚約していることはもう知っています」

「知られたくない中身は知らない」


 未明は少し考えた。


「依頼は、圭介さんが何をしようとしていたか、です。やめた理由もその答えに入る。聞かれたことの半分だけ答えることはしません」

「圭介さんには、それを言ったの」

「やめた理由も報告します、と言いました」


 千歳は事務所での圭介の顔を思い出した。報告します、と言われて、圭介は頭を下げていた。


「伝え方は考えて」

「正確に伝えます」


 バスが来た。千歳は乗り込む前に振り返った。


「お疲れさま」

「榧野さんも」


 未明はバスが角を曲がるまで、停留所に立っていた。


*


 署に戻ると、榎戸が千歳を呼んだ。


「井槻沙和から話を聞いた」


 別の係の担当者が、昼から聴取していたという。沙和は圭介とのやり取りがあったことは否定しなかった。ただ、ほとんど何も話さなかった。


「一つだけ、自分から言ったことがある」


 榎戸は手元の紙を読んだ。


「圭介さんは一度、叔父のところへ戻った人ですから」


 千歳は未明の事務所で聞いた圭介の言葉を思い出した。僕は前に一度、叔父のところから出て、また戻ったんです。


「それで、何をするつもりだったかは」

「言わない。弁護士と相談すると」


 島田が別荘の早瀬に電話をかけていた。受話器を置いて、こちらを向く。


「昨日の夕方、圭介さん本人から取り消しの連絡があったそうです」


 榎戸はうなずいた。


「会合はない。予約もない。計画をやめたことは、本人の説明と記録で一致してる。沙和の方は、これから」


 千歳は未明の事務所での話を、未明の質問も含めて、順に報告した。榎戸は一度だけ途中で止めた。


「探偵の推理と、本人が認めたことを分けて」

「はい。圭介さんが認めたのは、沙和さんに責任を負わされると思ったこと。沙和さんが実際にそうするつもりだったかは、本人も知りません」

「それでいい」


*


 翌日は午前の聴取が長引いた。


 千歳が署の近くの定食屋に入ったのは、一時半を過ぎてからだった。昼の客がほとんど引けて、奥の席だけ空いていた。生姜焼きを頼んで水を飲んでいると、入口の戸が開いた。


「ここだと思いました」


 未明だった。千歳の向かいに座り、品書きを最後まで読んでから、鯖の味噌煮を頼んだ。


「どうしてここだって」

「島田さんに聞きました。署の前で」


 島田には後で何か言っておこうと思った。


「報告、済んだの」

「十時に。四十分ほどでした」


 未明は湯呑みを両手で持った。機嫌がいいのは、顔を見れば分かった。


「乾杯を勧められました。殺されなかった祝いだそうです」

「朝から?」

「戸倉さんが冷蔵庫から出してきました。いいお酒らしいです。昼の酒は断りました」


 鯖の味噌煮が来た。未明は箸を取り、珍しく黙って食べ始めた。千歳の生姜焼きより先に半分なくなった。


「征吾さんは、何て」

「圭介さんがやめた理由を聞いて、笑っていました。あいつらしい、と」


 未明はご飯をおかわりした。


「君は、ここによく来るんですか」


 千歳は箸を止めた。君、と呼ばれたのは初めてだった。


 未明の方は、気づいている様子もなかった。答えを待って、こちらを見ている。


「……週に二回くらい」

「生姜焼きが多い」

「なんで分かるの」

「店の人が、聞く前に生姜焼きの皿を出そうとしていました」


 千歳は返事をせずに、生姜焼きを食べた。


 店を出ると、未明は午後は休みにすると言った。片づいた事件の後は、次の事件が来るまで何もしないことにしている、と。


 千歳は署へ戻った。二時を少し過ぎていた。


 三時前、島田が刑事課の部屋に駆け込んできた。


「鷲尾圭介さんが、けがをして病院に」

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