殺されなかった男の祝杯④
通報を受けた地域課の警察官からの初動の連絡だった。市の中心部の歩道で、男性が顔から血を流して座り込んでいる、と配送員から通報があった。二時三十五分。男性は意識があり、自分の名前を言えた。救急車で市立病院へ運ばれている。
島田が場所を読み上げた。千歳は自分の手帳をめくった。三日前、相談対応で訪ねたビルの住所だった。
「通報した配送員は」
「大庭さん。病院まで付き添ってるそうです。それと」
島田は報告の紙を見た。
「大庭さんの話では、男性がビルの出入口から出てくるところを見た、と。出てきて三十メートルくらい歩いて、座り込んだそうです」
千歳は榎戸の方を見た。榎戸はすでに受話器を取っていた。
「行って。本人の話を先に聞く。治療が優先」
*
市立病院の救急外来の前に、配送会社の制服を着た若い男が立っていた。帽子を手に持ち、千歳たちを見つけると頭を下げた。
「大庭です。荷物、トラックに置いたままで」
「すぐに済ませます」
千歳は手短に聞いた。大庭は二時半ごろ、ビルの前にトラックを停めて荷物を下ろしていた。出入口から男性が出てきた。顔を押さえていて、足元がおかしかった。少し歩いて、歩道の植え込みの縁に座り込んだ。声をかけると血が出ていたので、救急車を呼んだ。
「二階から下りてきたのかは分かりません。出入口から出てくるところは見ました」
「誰かと一緒でしたか」
「一人でした。後から誰か出てきたかは、見てないです。救急車のことで頭がいっぱいで」
大庭は帽子をかぶり直した。
「あの人、大丈夫ですか」
「今、診てもらっています」
大庭は連絡先を島田に伝え、トラックへ戻っていった。
圭介は処置室の奥のベッドにいた。左の頬が腫れ、唇の端が切れている。医師は、骨に異常があるかどうかは検査の結果を見てから、と言った。
千歳がベッドの横に立つと、圭介は目だけで千歳を見た。
「話せますか。短くていいです」
「……はい」
「何がありましたか」
圭介は天井を見た。
「井槻さんに、呼び出されて」
千歳は手帳を開いたまま、ペンを動かさなかった。
「別荘の近くで。話があるって言われて行ったら、殴られました。車で戻ってきて、そこで、動けなくなって」
「あのビルの前で」
「……駐車場が、近かったから」
圭介は目を閉じた。千歳はそれ以上聞かなかった。看護師が点滴の具合を見に来て、千歳たちは処置室の外に出た。
「別荘から戻るなら、あのビルの前は通りませんよね」
島田が小声で言った。
「通らない。でも、寄ることはできる」
別荘で殴られ、車で市内まで戻り、叔父の事務所のあるビルに立ち寄り、出てきたところで座り込んだ。あり得ないとは言えない。殴られた後の人間が、まっすぐ病院へ行くとは限らない。
「本人が落ち着いてから、もう一度聞く」
島田はうなずいて、手帳に何か書いた。
*
翌日の昼、島田が隣室の聞き取りから戻ってきた。
圭介が出てきたビルの二階には、征吾の事務所の隣に税理士事務所が入っている。そこの職員の三輪という女性が、昨日の二時過ぎに、壁の向こうで男の声が言い争うのを聞いていた。
「長くはなかったそうです。どん、と何かがぶつかる音がして、静かになった。三輪さんは気味が悪くて廊下に出たら、隣の事務所の大きい人が、扉の前に立っていたって」
「戸倉さん」
「名前は知らないそうですけど、いつも受付にいる人だと」
千歳は手帳に、時刻と三輪の名前を書いた。
大庭は、圭介がビルから出てくるのを見た。三輪は、同じ時間帯に征吾の事務所で争う声を聞き、戸倉が廊下にいるのを見た。圭介は、別荘の近くで沙和に殴られたと言っている。
ここまでで分かるのは、圭介が昨日、征吾の事務所にいたかもしれないということだった。誰が殴ったのかは、まだ誰も見ていない。
別の担当者が確認したところでは、沙和は昨日の午後、勤め先の事務所にいた。同僚が三人、それを見ている。
「圭介さんに、もう一度」
千歳が言うと、榎戸はうなずいた。
「本人が話せる状態になったら。急がせないで。それと、事務所の方には、こちらから面会の事実を確かめる」
*
その日の夕方、未明が署へ来た。
受付から呼ばれて一階へ下りると、未明は待合の長椅子に座っていた。千歳を見ると立ち上がった。
「圭介さんが、けがをしたそうですね」
「誰から」
「征吾さんから。今朝、電話がありました」
千歳は未明を空いている相談室へ通した。扉を閉めると、未明は座らずに話し始めた。
「征吾さんは、沙和さんが口封じに圭介さんを襲ったと言っていました。お前もそう思うだろう、と」
千歳は答えなかった。捜査のことを話すつもりはなかった。未明もそれを待っていなかった。
「征吾さんの根拠は、圭介は沙和を恐れていた、お前の報告にもあった、というものです」
「報告したの」
「していません」
未明は即座に言った。
「僕が報告したのは、圭介さんが恐れていたのは沙和さんに責任を負わされることだ、ということです。沙和さんに襲われることを恐れていたとは言っていない。征吾さんは、僕の報告から沙和さんの名前だけを取り出しています」
それから、未明は少し間を置いた。
「僕が報告したことを、正確に言います」
千歳は手帳を開いた。
「昨日の十時から十時四十分ごろまで。征吾さんの事務所の応接室で、征吾さん本人に。戸倉さんは途中でお茶を出しに入って、その後は扉の外にいました」
未明は指を折っていった。
「圭介さんと沙和さんのやり取りのこと。圭介さんが自分でやめたこと。野々村さんの連絡のこと。圭介さんがやめた理由は、沙和さんに責任を負わされると思ったからだということ。それから」
未明の指が止まった。
「圭介さんは、婚約者の葵さんに共謀を知られることを、何より恐れていること。そこまで話しました」
一昨日のバス停で聞いた話だった。千歳は一度聞き返して、それきりにしていた。
「征吾さんは、それを聞いて笑っていました」
未明が言った。
「あいつらしい、と言って。それから、乾杯を」
千歳は手帳の上で、時刻を書いた。十時から十時四十分。婚約者。
「今の話を、正式に聞かせてもらえますか。私じゃない担当者もいるところで」
「そのつもりで来ました」
未明は初めて椅子に座った。
「僕の報告がどう使われたか。それは僕が話さないと、征吾さんの話だけが残る」
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