殺されなかった男の祝杯⑤
圭介の部屋は、病院から少し離れた古いマンションの四階にあった。
暴行から三日後の午後だった。圭介は前の日に退院していたが、頬の腫れはまだ引いていなかった。圭介は千歳と島田を居間に通し、自分は窓際の椅子に座った。
「久瀬さんには、来てほしくありません」
千歳が座るより先に、圭介が言った。千歳は手帳から顔を上げた。圭介は膝の上で両手を重ね、こちらの返事を待っていた。
「分かりました」
「また説明される気がして」
圭介の視線が手帳へ落ちたので、千歳はペンを止めた。
「何が間違っていたとか、叔父がどう考えたとか。そういうのは、もう」
千歳にも説明できることはいくつかあった。けれど圭介が今尋ねていることは一つもない。
「会いたくないことは伝えます。話す必要があるときも、まず私から連絡します」
「お願いします」
圭介は手をほどいた。片方の袖口を直そうとして、途中でやめる。
「自分が何をしたかは、分かっています」
千歳はうなずいた。
「その話も聞かせてもらいます。今日は、どこまで話せそうですか」
圭介は一度入口を見てから、携帯電話を机に置いた。
葵さんのことで話がある。二時に事務所へ来い
送信者は鷲尾征吾。三日前の十一時二分だった。
「叔父に、呼び出されました」
圭介は画面から目を離さずに話した。二時に事務所へ行くと、戸倉が受付にいて、すぐに奥へ通された。叔父は応接室で待っていた。
「探偵から聞いた、と言われました。お前がやろうとしたことを、葵さんの家に話してもいいんだぞって」
圭介はそこで一度、息を吐いた。
「それから、叔父は奥の部屋に行きました。戸倉さんと二人になって」
島田のペンの音だけがしていた。
「最初に何を言われたかは、覚えてません。気がついたら、床に手をついてました」
千歳は何も言わなかった。圭介が続けるのを待った。
「起きたら、戸倉さんが言ったんです。会長から、って」
「何と」
「沙和にやられたと言え。お前があの女と組んでいたことは、警察ももう知っている。口封じに来た、それで筋が通る。別荘の近くで呼び出されたことにしろ。そうすれば、葵さんには何も言わない」
圭介は早口で言い終えた。何度も頭の中で繰り返した言葉のようだった。
「それで、病院でそう話しました」
「あの日、沙和さんには会っていない」
「会ってません」
千歳は手帳から顔を上げた。
「葵さんのことを、伺ってもいいですか」
圭介の肩がこわばった。
「葵さんに、いつ、何が伝わるのか。それが気になっていると思います」
「……はい」
「私には約束できません。葵さんに話すのは警察の仕事ではないです。でも、この先、裁判になれば、隠しておけないことも出てきます」
圭介は千歳の顔を見た。
「黙っていれば、守れるとは言えません」
千歳には、ほかの言い方が見つからなかった。
圭介は長いこと黙っていた。窓の外を車が一台通り過ぎた。
「叔父の書いた話で、葵に会いたくないです」
圭介が言った。
「訂正させてください」
島田がペンを置き、新しい頁を開いた。
圭介は、事務所での出来事をもう一度、最初から話した。今度は、戸倉の名前も、叔父の言葉も、自分が何を恐れて嘘をついたのかも含めて。途中で何度か言葉が止まったが、千歳は先を促さなかった。
話し終えると、圭介は自分の手を見た。
「僕が先にやろうとしたことは、変わりませんよね」
「変わりません」
「そうですよね」
圭介の口の端がわずかに動いた。
*
戸倉は、圭介が事務所に来たこと自体は認めた。
話をしただけだ、と言った。圭介さんが興奮して、自分でぶつかったのかもしれない。会長は奥の部屋にいたので何も見ていない。会長から何か言われたかと聞かれると、何も、と答えた。
征吾は、甥が来たことは覚えているが、話の内容は戸倉に任せた、と言った。沙和が襲ったという話は、甥から聞いたと思っていた、と。
榎戸は二人の説明を並べて、千歳に言った。
「征吾が何を言ったか。戸倉が何をしたか。別々に固めていく」
「戸倉さんの『会長から』は」
「今は、圭介の証言。それだけで征吾の指示とは言えない。言える材料を探す」
千歳はうなずいた。三輪の証言と、大庭の目撃と、征吾が送った呼び出しの文面と、圭介の訂正。それから、未明が話した報告の中身。戸倉が廊下にいたのを見た人はいる。殴るところを見た人はいない。
*
圭介が訂正してから、一週間が過ぎた。
千歳が駅の近くの洋食屋に入ると、未明は先に来ていた。窓際の席で、品書きを最後まで読んでいた。
「ハンバーグにします」
「まだ何も聞いてない」
「聞かれる前に言っておこうと思って」
千歳も同じものを頼んだ。飲み物を聞かれて、未明は少し迷ってからビールにした。千歳は烏龍茶にした。
「征吾さんとは、契約を終えました」
未明が言った。
「沙和さんが襲ったという説明には、同意しないと伝えました。圭介さんが沙和さんを恐れていたというのは、僕の報告からの引用ではない、と」
「征吾さんは」
「お前は役に立たない、と言われました」
未明はそれを、天気の話のように言った。
飲み物が来た。未明はビールを一口飲んだ。千歳も烏龍茶に口をつけた。
「圭介さん、久瀬さんには会いたくないって」
千歳は言った。伝えると約束していた。
未明はグラスを置いた。少しの間、何も言わなかった。
「そうですか」
「葵さんには、話したんでしょうか」
未明が言った。
千歳は未明の顔を見た。気にしているのか、知りたいだけなのか、顔からは分からなかった。
「それは聞いてない」
未明はうなずいた。それ以上は聞かなかった。
ハンバーグが来た。
「沙和さんは」
「言えない」
千歳はすぐに答えた。未明は顔を上げて、千歳を見た。
「戸倉さんは」
「それも言えない」
未明は少し考えて、うなずいた。
「そうですね」
それからハンバーグを切った。
ビールの泡が消えても、二人ともグラスを合わせなかった。
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