犯人役は、お断り①
「謝れって言われたんです。本当に僕が話したのか、誰も確かめてないのに」
吉野弘人は、作業台に置いた雑誌を指で押さえた。
店の中は木の匂いがした。壁はまだ下地のままで、ショーケースの置かれる場所には養生の板が敷いてある。照明だけが先に取りつけられていて、作業台の上を明るく照らしていた。
「それに、紹介状も止められました」
千歳が吉野の菓子を初めて買ったのは、朝瀬署に来た年の秋だった。朝霧堂の栗かのこは毎年九月の終わりに店に並び、十月の半ばにはなくなる。三年目に、包んでくれた職人が作った本人だと知った。それから、店で顔を合わせると少し話すようになった。
吉野から電話があったのは、今日の昼休みだった。相談できる人が思いつかなくて、と吉野は言った。話を聞いて、千歳は仕事の後に行くと答え、それから未明に電話をかけた。
未明は千歳の横で、雑誌を読んでいた。市内の情報誌で、開いた頁には朝霧堂の秋の新商品が写真入りで載っている。栗の羊羹。発売は来週の月曜。
「この記事が、今朝出たんですね」
「はい。親方は、発売まで伏せておくつもりだったって」
吉野は少し声を落とした。
「先週、僕がこの記事を書いた人と話してるのを、親方が見てたんです。店の前で。新しい店の取材の相談だったんですけど」
「それで、吉野さんが話したと」
「明日の十時に、店で話をすることになってます。謝ってもらうって。親方と、相談役の折原さんと」
吉野は携帯電話を出して、一通の連絡を見せた。今日の昼に、折原から届いたものだった。
疑いが晴れるまで、紹介状への署名はお待ちいただくことになりました。締切までには処理いたします
「紹介状というのは」
千歳が聞くと、吉野は作業台の端から一枚の紙を取った。百貨店の催事の案内だった。
「秋に、百貨店で菓子の催事があるんです。毎年。そこに、初めて出る店のための小さい枠があって。応募するのに、もう出てる店からの紹介状が要るんです。親方が紹介者になってくれることになってました。先週」
「締切は」
「明日の五時です」
千歳は案内の下の欄を読んだ。紹介状は紹介する店の店主が署名したもの。持参でも郵送でもよい。
「この催事で、最初に売るつもりだったんです」
吉野は作業台の隅に置いてあった布の包みを開いた。中から、木の柄のついた焼き印が出てきた。先端の金属に、ひらがなで屋号が彫ってある。
くりや
「栗の焼き菓子に、これを押します。手で押すので、一日三百が限度です。初日は三百。それ以上は押せません」
「食べてみたい」
千歳が言うと、吉野は少し笑った。
「店が開いたら」
未明は雑誌から顔を上げた。
「折原さんの連絡は、二つのことを書いていますね。署名は待つ。でも締切までには処理する」
「疑いが晴れたら、ってことでしょう」
「そうですね」
未明はうなずいたが、携帯電話の画面から目を離さなかった。
千歳は雑誌を手に取った。記事の最後に、書いた人の名前がある。
「吉野さん、この人の連絡先は」
「名刺をもらってます」
「今、聞いてみませんか。記事の中身を、どこから手に入れたのか。明日の話は、それからの方がいい」
吉野は名刺を探し、電話をかけた。千歳は横で、聞くことを二つ書いた紙を吉野に見せた。情報の出所と、記事をいつ出してよいと言われていたか。
電話は五分ほどで終わった。
「朝霧堂の広報から来た資料だそうです。西尾さんから。記事は、今日の朝に出していいと言われてたって」
吉野は電話を握ったまま、しばらく作業台を見ていた。
「明日、それを言えばいいんですよね」
「広報の方にも、来てもらった方がいいと思います」
千歳が言うと、未明が雑誌を閉じた。
「僕も行っていいですか」
「何をしに」
「折原さんに会ってみたいので」
吉野は少し笑って、うなずいた。
*
朝霧堂の応接間は、店の二階にあった。
金曜の十時、千歳は吉野と未明と一緒に階段を上った。千歳は休みだった。店の前を通ると、ショーケースの端に、記事に載っていた羊羹の見本がもう並んでいた。
部屋には三人いた。
窓際に座っているのが、三代目の柏木恒一だった。五十を少し過ぎたくらいで、白い調理着の上に紺の上着を羽織っている。仕込みの途中で上がってきたらしく、袖口に粉がついていた。
その隣に、背広の男がいた。三十代の半ばで、髪を短く整えている。立ち上がって、千歳と未明に名刺を出した。
「折原です。朝霧堂さんの相談役をしております」
もう一人は広報の西尾という女性で、膝の上に紙の束を載せていた。
机の上に、一枚の紙が置いてあった。千歳は座りながら、それが何かを見た。
このたびは、発売前の商品情報を外部へ伝え、ご迷惑をおかけしました
謝罪文の下書きだった。署名の欄は空いている。
「先に、こちらから確認させてください」
千歳が言うと、柏木が眉を寄せた。
「あんたは」
「吉野さんの知り合いです。今日は付き添いで来ました」
吉野が、昨夜の電話のことを話した。西尾の顔色が変わった。
西尾は膝の上の紙をめくり、一枚を机に置いた。情報誌に送った広報資料の写しだった。記事に書かれていることは、全部そこにあった。
「解禁日を、木曜とお伝えしていました。月曜の間違いです。私の送った連絡で」
西尾は柏木に頭を下げた。柏木は何も言わずに、資料と記事を見比べていた。
折原が謝罪文の下書きを手に取った。
「では、謝罪の話はなしにしましょう」
折原は吉野の方を向いた。
「吉野さん、申し訳ありませんでした。独立のことも、改めて応援させてください」
あまりに早かったので、千歳は折原の顔を見直した。折原は下書きを二つに折って、自分の書類の束に挟んでいた。
柏木は窓の外を見ていた。
「この下書きは、いつ書いたんですか」
未明が言った。
「昨日の昼です」
「記者に確かめる前ですね」
「はい」
「謝る人と、謝る文面が、先に決まっていた」
折原は未明を見た。気を悪くした様子はなかった。
「親方の気持ちを、先に書類にしておくのが私の仕事なので。確かめた後で捨てるのも、私の仕事です」
「捨てる準備も、していたんですか」
「今、捨てました」
未明の顔が明るくなった。
「吉野さんが署名しなかった場合は、どうするつもりでしたか」
「記者と話した日時と中身を、吉野さんご本人に書いていただく用紙を用意していました。そちらも、もう要りません」
未明は身を乗り出した。折原も、手元の書類を置いた。
「久瀬さん」
千歳が呼んだが、未明は次の質問をしていた。折原は最後まで聞いて、短く答えた。また質問が来た。
千歳は吉野を見た。吉野は二人を見て、それから千歳を見た。
「紹介状のことを」
千歳が言うと、ようやく二人が黙った。
「紹介状は、締切までに処理します」
折原が答えた。
「親方は午前中、仕込みがありますので。午後に」
「三時からは組合だ。戻るのは夜になる」
柏木が窓の外を見たまま言った。
「三時までに戻ってこい。道具も取りに来るんだろう」
「はい」
吉野が答えた。折原は手帳を開いて、何か書いた。
「吉野さん、午後に来られたとき、少しお時間をいただけますか。ご相談したいことがあります」
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