犯人役は、お断り②
十二時過ぎに、吉野は朝霧堂の裏口から作業場へ入った。
千歳と未明も後に続いた。作業場の奥に、吉野の使っていた棚がある。木べら、型、布巾、使い込んだ銅の鍋。吉野は一つずつ手に取り、新聞紙で包んで段ボール箱に詰めていった。
若い職人が二人、手を止めて手伝いに来た。
「これ、持ってきたんだ」
吉野は鞄から平たい箱を出した。蓋を開けると、焼き菓子が十個並んでいた。どれにも、ひらがなの屋号が押してある。
「くりや、の。最後に食べてもらおうと思って」
若い職人たちが手を伸ばしかけたとき、作業場の入口から折原が入ってきた。
「吉野さん。それが新しいお店の」
「試作です」
「一つ、相談に使わせてもらえませんか。午後のご相談で。終わったらお返しします」
吉野は少し迷ってから、箱の蓋を閉めて折原に渡した。若い職人たちは手を引っこめた。折原は箱を抱えて、二階へ上がっていった。
千歳は吉野の包んだ鍋を箱に入れた。
しばらくして、裏口に包装の業者が来た。若い職人の一人が受け取りに出て、薄い紙の束を持って戻ってきた。
「折原さんの分です。帯の校正」
若い職人はそれを作業台の端に置いた。一番上の紙に、菓子に巻く細い帯が刷ってあった。
朝霧堂監修
その下に注文の数が書いてある。三百。
未明が千歳の肩越しに紙を見た。
「三百」
「三百なんて、よくある数でしょう」
「そうですね」
未明はそれ以上言わなかった。帯の紙から目を離して、作業場の壁を見た。
壁には仕込みの予定表と、もう一枚、手書きの紙が貼ってあった。秋の催事の品書きの下書きだった。区画の欄に「二」とある。一つ目の区画には、栗の羊羹と、朝霧堂の定番の菓子が並んでいる。二つ目の区画には一行だけ。
限定品(未定) 製造:
製造の欄は空いていた。
「吉野さん」
未明が言った。吉野は型を包む手を止めた。
「催事で、朝霧堂と一緒に何か出す話を、聞いていますか」
「いえ」
吉野は首を振った。
「そういう話は、何も」
未明はうなずいた。
*
段ボール箱を裏口の外へ運び出したところで、千歳は未明と二人になった。吉野は若い職人たちと、作業場の中で最後の棚を拭いていた。
「何を考えてるの」
「午後のご相談の中身です」
未明は裏口の扉を見た。
「二つ目の区画で、吉野さんの菓子を出す提案が来ると思います。朝霧堂の監修として」
「帯が三百だから?」
「三百だけなら、偶然かもしれません。でも、朝霧堂が自分の作る菓子に、監修とは書かないと思う。誰か外の人が作るものを、朝霧堂の名前で出す想定です。品書きでは、作る人が決まっていない。そこに、折原さんが吉野さんの試作品を持っていった」
「ほかの店と組むのかもしれないでしょう」
「そうですね。それもあります」
未明はあっさり認めた。
「だから、午後の相談を聞けば分かります」
「分かってどうするの。断ればいいだけでしょう、吉野さんが」
「そうですね」
千歳は段ボール箱の上に手を置いた。吉野の字で「型」と書いてある。
*
二時を十分ほど過ぎたころ、吉野は応接間の扉を叩いた。
柏木は上着を着替えていた。組合の会合へ行く支度らしく、机の上に鞄が置いてある。折原は窓際に座り、膝の上に書類を載せていた。机の端に、吉野の試作品の箱があった。
「親方。紹介状に、署名をお願いします」
吉野が言った。柏木は少し黙ってから、うなずいた。
「出せ」
折原が書類の束から一枚を抜いた。紹介状の用紙だった。必要なことはもう書き込まれていて、署名の欄だけが空いている。柏木は胸のポケットからペンを取った。
「その前に、一つご相談が」
折原が言った。
折原は帯の校正刷りと、催事の品書きの写しを机に並べた。千歳がさっき作業場で見たものと同じだった。
「秋の催事で、朝霧堂は区画を二つ取っています。二つ目の区画で吉野さんの新作を、朝霧堂監修の限定品として出していただけないかと。人の入りは、初出店枠よりずっと多い。売上の分け方も、こちらで案を用意しました」
未明が千歳の方を見た。千歳は見返さなかった。
「初出店枠で出します」
吉野が言った。
「自分の焼き印で。そのために準備してきたので」
「ええ。それも一つの選び方です」
折原はうなずいた。
「ただ、判断に必要な条件を、まだお伝えしていません。初出店枠の場所は、催事場のいちばん奥です。去年の初出店の店がどれだけ売れたか、ご存じですか。こちらの区画は、入口の正面です」
折原は品書きの写しの上に、売り場の図面を重ねた。
「それに、どちらで出すかで、紹介状が要るかどうかも変わりますから。先に決めておいた方が、親方も書きやすい」
「せっかくだから、聞け」
柏木が言った。ペンは机の上に置かれていた。
「折原くんが、お前のために考えた話だ」
吉野は柏木を見た。何か言いかけて、口を閉じた。
折原は説明を続けた。去年の客の数、入口の正面の区画の売上、包装と人手の分担。吉野は聞きながら、二度、初出店枠で出すと繰り返した。そのたびに折原はうなずき、次の条件に移った。
千歳は壁の時計を見た。二時半を過ぎていた。
「親方は、三時に出られるんですよね」
「ああ」
「紹介状の締切は五時。署名済みのものなら、誰が持っていってもいい」
「昨日、事務局に電話で確かめました」
吉野が言った。千歳はうなずいた。
千歳は机の上の紹介状の用紙を見た。署名の欄は空いたままだった。
折原は図面の上で、二つの区画を指で示していた。
「入口の正面ですから、初日だけで——」
「提案を聞くことと、紹介状を書くことは、別の話です」
未明が言った。
折原の指が、図面の上で止まった。
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