花嫁を捜すな①
「これ、祝辞じゃないんです」
宮下遥はそう言って、携帯電話を机に置いた。画面は下に向けたままだった。
久瀬未明の事務所は駅から十分ほど歩いた古い建物の三階にあった。名刺の住所を頼りに来るのは千歳も初めてで、階段の踊り場に並んだ鉢植えがどれも枯れているのを見て、ここで合っているのか一度確かめた。
中は思っていたより片づいていた。正確には、片づいた場所とそうでない場所の境目がはっきりしていた。来客用の机には何も載っていない。奥の机では紙が崩れる寸前の高さまで積み上がっている。
「祝辞を頼まれていたんですか」
未明が尋ねた。
「いえ、司会です。日曜の披露宴の」
「では、祝辞でないのは普通のことでは」
「久瀬さん」
千歳が呼ぶと、未明はこちらを見て、それから遥へ向き直った。
「すみません。続けてください」
遥は梓の大学の友人だった。千歳とは梓を通じて何度か食事をしたことがある程度で、今日の昼に電話をもらうまで、二人きりで話したことはなかった。刑事さんに聞くことじゃないかもしれないけど、と遥は最初に言った。聞いてみると、確かにそうだった。誰も何も盗んでいないし、誰もけがをしていない。
それでも千歳は、財布に入れたままだった名刺を思い出した。
遥が携帯電話を裏返した。
「木曜の夜に、航さんから来たんです。新郎の」
送信は木曜の十八時五十二分。件名の代わりに、一行目にこう書かれていた。
新婦欠席の場合のご案内(披露宴司会読み上げ用)
その下に本文が続く。
本日はお越しいただき、ありがとうございます。新郎の水城航さんより、皆さまへのご説明をお預かりしております。
航さんと梓さんは、昨夜も二人で話し合い、予定どおり式を挙げることを確認していました。しかし本日、梓さんは会場にお見えになっておりません。
航さんは梓さんの気持ちを尊重し、これ以上の連絡は控えたいとのことです。皆さまにもご理解いただけますと幸いです。
さらに下に、遥への依頼があった。
念のための原稿です。使わずに済めばいいと思っています。
本人には聞かないで。前夜に僕から話す。それまでは、この原稿のことも知らせないでほしい。
当日、梓が来なくても捜さないでやってほしい。それが彼女のためだと思う。
千歳は二度読んだ。一度目は梓の名前ばかりが目に入った。二度目で、日付が気になった。
未明は一度読んで、画面から顔を上げた。
「式の進行のやり取りは、いつもこの形ですか」
「いえ。いつもは三人のグループです。梓と航さんと私で。これだけ個別に来ました」
「木曜に送ってきた理由は」
「式場に司会の台本を出す締め切りが木曜だったんです。当日のスタッフさんに共有するからって。その夜に、これも入れておいてって」
「台本に入れたんですか」
「入れてません。別紙だと思って、手元に置いてあります」
未明はうなずいて、画面を少し下へ送った。依頼文の下に、遥の返信があるはずだった。
遥の親指がその上に乗っていた。
「返信は」
「……しました」
遥は指をどけなかった。千歳は何も言わずに待った。しばらくして、遥は自分で画面をこちらへ向けた。
了解。何かあったら読むね
「深く考えなかったんです」
遥は画面から目をそらした。
「念のためって書いてあったし。新郎って、当日何が起きるか分からないって心配するものでしょう。うちの兄もそうだったし。それで、夜になって読み返したら」
「梓には?」
千歳が聞くと、遥は首を振った。
「言ってない。本人に聞かないでって書いてあるから」
「聞こう」
自分でも思ったより早く言葉が出た。遥が千歳を見た。
「梓のことなのに、本人に聞かないでっていうのが気になる。私から連絡していい?」
「でも、航さんは前夜に自分で話すって」
「何を話すのかも書いてない」
遥は少し迷ってから、うなずいた。千歳は自分の携帯電話を出し、遥にも見えるように打った。
航さんから遥に、梓が来なかった場合の原稿が届いてる。知ってる?
送信してから、千歳は画面を伏せた。
未明は立ち上がり、奥の机の山から一枚だけ紙を抜いた。山は崩れなかった。
「明日、式場で打ち合わせがあるんですか」
「十時からです。司会の最終確認で」
「僕も行っていいですか」
「何の資格で」
千歳が言うと、未明は少し考えた。
「見学です」
「来てほしい」
遥が言った。千歳と未明が同時に見ると、遥は膝の上で手を握った。
「一人だと、担当さんの顔をまともに見られる気がしない」
千歳の携帯電話が震えた。梓だった。
知らない。確認したいから送って
千歳が画面を見せると、遥は自分の携帯電話を取り、少し手を止めてから原稿を転送した。
返事は数分来なかった。未明が湯を沸かし始め、薬缶の音が鳴る前に、続けて三つ届いた。
念のためじゃないかな
今夜は航に聞かない。聞いたら、たぶん私が謝って終わるから
明日の午前は実家で衣装の確認。午後なら話せる
千歳は二つ目の行で一度止まった。
「何と?」
未明が湯呑みを置きながら聞いた。
「午後なら話せるって」
「では午前は式場ですね」
千歳は返事を打った。明日の午後に行く、とだけ書いた。二つ目の行には何も返さなかった。
「料金は」
帰りがけに千歳が聞くと、未明は遥の方を見ずに答えた。
「まだ何もしていないので」
「後で揉めたくないんです」
「では、後で考えます。それより」
未明は机に残った紙に、原稿の一文を書き写していた。
「この『確認していました』が気になって」
「明日にしてください」
千歳は遥の背中を押して、事務所を出た。
*
式場は丘の中腹にあり、駐車場から白い礼拝堂の屋根が見えた。土曜の午前は別の組の式があるらしく、ロビーの奥から拍手が聞こえた。
担当者は杉本という三十代の女性だった。遥が千歳と未明を「友人です」と紹介すると、杉本は特に気にした様子もなく打ち合わせ用の小部屋へ通した。
「木曜にいただいた台本は、当日のスタッフに共有済みです。変更はございませんか」
「ありません」
遥の声は少し硬かった。杉本は台本の写しをめくり、入場の合図や乾杯の発声者を一つずつ確かめていく。遥は答えながら、膝の上の鞄から手を離さなかった。
「それから、新郎様から伺っている件ですが」
杉本は付箋の貼られた頁を開いた。
「当日の新婦様へのご連絡は、すべて新郎様を通してほしいとのことです。お支度中はお忙しいので、と。司会の方も、何かございましたら新郎様へお願いいたします」
遥の手が鞄の上で止まった。
「新郎様は本当に気の利く方で。花嫁様が慌ただしくならないように、ご自分で引き受けるとおっしゃって」
「新婦の方からこちらへ連絡したい場合は?」
未明が尋ねた。杉本は笑顔のまま答えた。
「それはもちろん承ります」
「こちらから新婦へ、という方だけ止めてあるんですね」
「止めてあるというか……」
「支度の邪魔をしないように、ということですよね」
千歳が言うと、杉本はほっとしたようにうなずいた。
「はい。当日は朝から髪やお化粧がありますので」
未明はそれ以上聞かなかった。打ち合わせが終わると、杉本は礼拝堂と披露宴会場を案内してくれた。式の前に招待客が集まる待合室は、窓の大きな明るい部屋だった。
「こちらには何名ほど入りますか」
「六十名ほどです。水城様のお式ですと、ほぼ全員の方がここでお待ちになります」
未明は部屋の中央に立ち、入口と窓を順に見た。それから、司会台が置かれるという壁際へ目をやった。
「あの原稿は、ここで読まれるんですね」
杉本が次の部屋の鍵を取りに出ていくと、未明は千歳にだけ聞こえる声で続けた。
「六十人の前で。梓さんが何か言う前に」
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