明日の展示室には何もない④
取り消しの連絡はすぐにつながった。真壁は事情を細かく語らず、翌日の依頼を取り消すことを伝えた。途中で責任者が電話を代わり、相手の社名と依頼の内容を確かめた。美術品の運搬を請け負う業者で、館の担当者からの通常の依頼として受けていたという。通話の後、真壁は責任者と一緒に取り消しの内容を記録した。その間、未明は口を挟まなかった。
千歳は廊下に出て勤務先へ連絡し、自分が見聞きした経緯を伝えた。部屋へ戻ってからは、館と当事者の連絡先、記録の所在を確認した。ここで何もかも済んだことにするつもりはなかったが、千歳一人で今後の扱いを決めることでもなかった。明日の展示担当は別の職員へ引き継がれることになった。
「朝の鑑賞会の冊子は受付の棚にあります」
真壁は責任者に言った。
「青い表紙のほうです。難しい言葉を直した版なので、印刷するならそちらを」
責任者はメモを取った。
千歳は机の端に置かれた青い冊子を見た。表紙の裏には、子どもが自分で好きな場所を丸で囲める小さな絵の図が載っていた。未明もそれを見ていたが、何も評さなかった。
宗一は報告書を鞄に入れた。佳乃に向かって一度口を開き、結局責任者へ明日の講演について話し始めた。
佳乃はそれを待たずに立った。
「汐里、展示を見て帰ってもいい?」
「うん。まだ時間があるから」
娘と出ていくとき、佳乃は真壁の前で足を止めた。
「訂正を取り次いでくださったことは助かりました」
真壁が顔を上げた。佳乃は彼を見て続けた。
「でも次は私に聞いてください」
佳乃は返事を待ち、真壁がうなずくのを確かめてから出ていった。
千歳が時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。休日はだいぶ違うものになってしまった。未明が書類をまとめる。
「明日、説明が変わったところを確認に来ます」
責任者はうなずいた。千歳にも変更後の説明と手配の確認経過を伝えると言う。
「私も、絵をちゃんと見ていないので」
千歳が答えると、未明が顔を上げた。
「最初に見ていたでしょう」
「隣で明日の午後に絵があるか尋ねる人がいなければ、もう少し見られました」
「それはすみません」
謝るところがそこなのか。
千歳は差し出された名刺を受け取った。未明の名の下には、探偵事務所の所在地が控えめに記されている。
「久瀬未明って本名ですか」
「ええ」
「探偵としてつけた名前かと思いました」
「そう言われるので、母に聞いたことがあります」
「由来を?」
「命名の時点で探偵にする予定があったのか」
千歳は少し待った。未明が続けた。
「なかったそうです」
それはそうだろうと思ったが、口には出さなかった。
*
翌日の《帰りを待つ人》は昨日と同じ場所にあった。
窓から入る光を描いた白い袖も、膝に伏せた手も変わらない。変わったのは額の右下にある札だった。作品名、制作年、技法と寸法。それに室内の光と色についての短い説明が添えられている。
千歳は絵を見てから、札を読んだ。女が何を思っているかはやはり分からなかった。昨日は疲れて見えたが、今日は窓の外に誰か知っている人を見つけたようにも見える。分からないまま、もう少し見ていられた。
隣の部屋から子どもの声がした。青い冊子を持った職員が、何が描かれているかを教える前に、どこが好きか尋ねている。展示室の向こう側で、佳乃と汐里が別の作品を見ていた。佳乃は千歳に気づき、会釈した。少しして、二人がこちらへ来る。
「昨日はありがとうございました」
「説明はご確認になりましたか」
「ええ。見せてもらいました」
佳乃は絵を見上げた。
「今日はもう帰ります」
その言葉に誰も理由を尋ねなかった。汐里が昼食をどうするか聞き、佳乃は駅の反対側に気になる店があると答えた。昨日通りかかったのだという。二人は次に見る絵の相談ではなく、何を食べるかを話しながら出口へ向かった。
「昨日より長く見ていますね」
背後から声がした。
千歳は振り向かずに答えた。
「今のところ邪魔する人がいなかったので」
未明が隣に立った。手には案内も鉛筆もなかった。彼は絵を眺め、しばらく黙っていた。
「聞いてもいいですか」
「内容によります」
「昨日、職員の案内には宗一さんが参加しないのかと聞いたでしょう。どうしてあれを先に?」
千歳は彼を見た。昨日の続きだった。この男にとって、まだ答えが出ていない箇所が残っている。
「真壁さんが、宗一さんの催しだけをやめたいのかと思ったからです。あの二人、最初から険悪だったでしょう」
「でも通常の案内まで変えようとしていた」
「だからそこを確かめたかった。あなたも聞くつもりだったんじゃないですか」
「聞くつもりでした。先に聞かれたので、面白かった」
千歳は口元が緩みそうになり、絵に目を戻した。
「少しは悔しがってください」
「答えが早く分かったのに?」
この人と張り合うのは相当に無駄が多そうだった。それでも昨日の予定表が一つの形にまとまった瞬間を思い出すと、もう一度くらい一緒に考えてみたい気もする。そこは認める。ただし、条件がある。
「真壁さんにした話し方は私は嫌いです」
未明は千歳を見た。千歳は続けた。
「計画を解くのが好きなのは分かりました。でも相手は講評を頼んでいません」
「そうですね」
「分かっています?」
「頼まれていないことは」
千歳は額を押さえた。未明は悪びれる代わりに、少し考え込んだ。その顔を見ていると、反省しているのか、新しい疑問を見つけたのか区別がつかなかった。
「ただまだ聞けていないことがあるんです」
「真壁さんにですか」
「朝の鑑賞会のために、あそこまで——」
「聞きません」
千歳は先に言った。未明が黙る。
「今日は絵を見ます」
彼は窓辺の女へ視線を戻した。千歳も絵を見る。白い袖に差した青が、昨日より少し明るく見えた。隣では未明が今度こそ黙っている。
十秒ほどして、息を吸う音がした。
「絵の感想なら聞きます」
千歳が言うと、未明は一度口を閉じた。
それから珍しく、答えを探すように絵を見上げた。
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