明日の展示室には何もない③
佳乃は席を勧められても、すぐには座らなかった。机に並んだ予定表を見て、娘へ尋ねる。
「明日の催しも変えるの?」
「まだ決まってない。お母さん、こちらの方が」
千歳は名乗り、自分がたまたま来館していたことを短く説明した。真壁が作品を館外へ持ち出す準備をしていたこと、その目的として佳乃へ渡すつもりだと言っていることも伝える。
佳乃は真壁を見た。
「私に、絵を?」
「今のままここに置いておくべきではないと思ったんです。何度訂正を求めても、宗一さんは」
「だからといって、私の物にはならないでしょう」
真壁の口が止まった。
佳乃は娘の顔を確かめた。汐里も首を振る。
「私も今、知ったの。真壁さんが何とかしてくれるとは聞いていたけど」
「何とかしてくれるというのは?」
千歳が尋ねると、汐里は言葉を選んだ。
「母のためにできることを考えていると。訂正の話をしていたので、私はそのことだと」
千歳は訂正紙を佳乃の前に置いた。
「こちらはあなたがお書きになったものですか」
「はい。字が小さくて読みにくかったかしら」
「読めます。今、館にしてほしいのも、この訂正でしょうか」
佳乃は椅子に座り、鞄から眼鏡を出した。線を引いた二文を読み直し、そのうちの一つを指で押さえる。
「この『別離の後も』からです。別れた後まで私があの人を待っていたことにしないでほしい。前にもそうお願いしました」
「それは僕も分かっています。でもあなたはこの絵の中で待たされるのは嫌だと」
「言いました」
佳乃は真壁を見た。
「だから説明を直してほしいとお願いしたんです。絵を私の家へ運んでもここに書いてあることは変わりません」
真壁は何か言いかけ、口を閉じた。
佳乃の目が打ち合わせ室の壁にかかった回顧展のポスターへ向いた。窓辺の女が、作品名とともに印刷されている。
「あの袖の色はきれいでしょう」
返事を求めたというより、確かめるような言い方だった。
「実際はもっとくたびれた服だったの。あの人はああいうところがうまかった」
宗一の肩が少し上がった。しかし佳乃は宗一に同意を求めなかった。
「絵は嫌いではありません。家に欲しいわけでもない。それではいけませんか」
誰も答えなかった。千歳はその沈黙を急いで埋めないようにした。佳乃が言葉を足さなければならない理由はない。
真壁は膝の上で手を組んだ。展示室で子ども向けの冊子を持っていたときと同じ手だったが、今は指を解く場所が見つからないようだった。
「受け取ってもらえると思っていました」
「聞いてくれれば答えました」
佳乃の声は静かだった。
未明が机から鉛筆を取らずに言った。
「僕も、佳乃さんが受け取るつもりなのかは聞いていませんでした」
真壁は彼を見なかった。
「ならば話は明らかですね」
宗一が背筋を伸ばした。
「義姉さんも求めていない。真壁さんが勝手に思い詰めて、私の絵を持ち出そうとした。それだけのことだ」
佳乃の指が訂正紙から離れた。
千歳はまた口を開きかけた。その前に、未明が宗一へ顔を向けた。
「それだけではありませんよ。依頼の報告をまだ最後まで聞いていないでしょう」
責任者が立ち上がった。
「先にこちらで確認を取ります。作品を動かす場合は必ず私を通すよう職員に伝えます。真壁、手配した相手と、やり取りの記録を確認させてほしい」
真壁は少し間を置いてうなずいた。千歳は責任者が廊下の職員へ指示を出すのを見届けた。感情の話がまとまるまで絵の扱いまで宙に浮かせておく必要はない。
宗一は未明が渡した報告書を開いた。
「資料はそろっていたのでしょう」
「ええ。誰がどの資料を見たか、何がどこに書かれているかを調べました」
「それと展示の説明にどんな関係があるんです」
「あなたがその説明は資料に基づいているとおっしゃったので」
宗一は眼鏡の位置を直した。未明は佳乃の訂正紙を指す。
「この『別離の後も、佳乃は夫の帰る日を待ち続けた』。何をもとにした文章ですか」
「兄がそう話していました」
「その話を聞いたのはあなたですね」
「何度も聞きました。兄はあの絵を見ながら、待つ妻の姿を描いたのだと」
「絵についてそう語っていた。それは分かります」
未明は宗一の言葉を遮らなかった。千歳は彼が真壁にしたような笑い方をしないことに気づいた。こちらは謎ではなく、整理すべき報告なのかもしれなかった。
「佳乃さんが別れた後、何を望んで暮らしていたかについて、ご本人に確認した記録はありますか」
「そんなものをいちいち記録にする人がいますか」
「なくても構いません。ただある資料のようには扱えない」
宗一が報告書を閉じた。
「久瀬さん。私はあなたに、兄の作品を批判するよう頼んだ覚えはない」
「作品は批判していません。袖の色は僕にもきれいに見えます」
「そういうことではなくて」
「ご依頼は資料の確認です。確認できたことと、できなかったことを報告しています」
千歳は未明の横顔を見た。声は先ほどと同じだった。真壁が何を守ろうとしていたかを聞いたときも、依頼人の不機嫌を受けている今も、調子を変えない。
相手によって言葉をやわらげないのは、困った性質だった。
相手によって結論を変えないのは、そう悪くなかった。
「本人が否定したら、画家の言葉まで消せというんですか」
宗一が尋ねた。
「消す必要はありません。画家がそう語ったと書けばいい」
「同じことだ」
「誰の言葉かが違います」
千歳はそこで初めて自分の声を挟んだ。
「ここには佳乃さんがどう生きたかとして書かれています。画家が絵について話したことだとは読んだ人には分かりません」
宗一は千歳を見たが、反論せず責任者へ向き直った。
「あなた方が作った説明ですよ」
「はい」
責任者は座り直した。
「宗一さんから伺ったお話を、こちらでこの文章にしました。佳乃さんから訂正を求められた後も、判断を延ばしました。それは館の問題です」
真壁の目が上がった。
「だったら、最初から」
「そうだ。もっと早く確認すべきだった」
責任者は真壁へ答え、佳乃に頭を下げた。
「この二文は外します。画家ご本人の言葉をどう紹介するかは、出所が分かる形にしたうえで改めて確認します。明日は確認できる作品情報と展示上の説明にとどめます」
佳乃は訂正紙を見た。
「私がお願いしたのはそれです」
大きく息を吐くことも、泣くこともしなかった。眼鏡を外し、片方のつるを畳む。もう一方を畳む手が少し遅れ、汐里が鞄を近くへ寄せた。千歳はその動きを見ていた。
真壁は二人ではなく宗一を見ていた。
「今なら直すんですか」
責任者が答えようとしたが、真壁は首を振った。
「何度言っても動かなかったのに。こんな話になってからなら、直すんですね」
千歳は彼の怒りが佳乃の希望とは別に残っているのを感じた。訂正を決めれば、準備も自然に消える。そう簡単な話ではないのかもしれない。
未明が真壁を見た。今度は鉛筆を取らなかった。
「訂正されたら、やめる予定だったんですね」
真壁は彼をにらんだ。
「また答え合わせですか」
未明の口がわずかに開いて止まった。
千歳は真壁に向き直った。
「今どうするかを聞きたいです。佳乃さんは、絵を受け取らないと言っています」
真壁は佳乃を見た。彼女はうなずかなかった。首も振らなかった。すでに答えたことをもう一度説得のために繰り返すつもりはないようだった。
真壁の指が携帯電話の縁をなぞった。
「……僕が腹を立てていたことまでなくなったわけじゃありません」
「はい」
千歳は答えた。
「宗一さんに分かってもらえたとも思いません」
宗一は何も言わなかった。
しばらくして、真壁は携帯電話を手に取った。
「取り消します」
声は低かったが、今度は誰に向けた言葉か分かった。
「絵は持ち出しません」
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