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明日の展示室には何もない(連載版)  作者: 白川 透


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2/17

明日の展示室には何もない②

 打ち合わせ室の机には催しの案内が三種類並んだ。


「こちらが配布中のものです。こちらは真壁から出ている変更案。午後のお客様向けの案内文も、まだ承認していません」


 館の責任者は眼鏡をかけ直して説明した。


 未明はすぐ手を伸ばしかけ、宗一に止められた。


「その前にお願いした件を」

「ああ。対象の資料はすべて所在を確認しました。貸し出した分も返却記録と一致しています」

「では、どうして真壁さんが知っているんです。兄夫婦が別れてすぐ、義姉が洋裁の仕事を再開したことまで」


 宗一の声が隣の真壁へ向けられた。


「その手紙は公表していません。真壁さんには閲覧を認めていないはずです」

「だから私は佳乃さんから直接伺ったと——」


 扉が開いた。


「叔父さん。母の話をするなら、母が来てからにしてくれない?」


 入ってきた女性は四十歳前後だった。宗一と同じ姓を名乗り、汐里と付け加える。画家の娘だと千歳にも分かった。


「母は二時の約束で来ます。私が先に書類を渡しておくと言ったから、今は駅の近くでお昼を食べています」


 汐里は封筒から紙を出した。展示解説の写しには数か所に線が引かれている。


「真壁さんには母が仕事の話もしたんです。私もそのときいました。手紙を見なくても本人は自分の暮らしを知っているでしょう」


 宗一は返事に詰まった。


「私は資料の管理の話をしている」

「対象の資料はそろっています」


 未明が先ほどと同じ調子で言った。


「複写の有無をすべて証明できるわけではありません。ただ、真壁さんが知っていることはご本人への聞き取りで説明できます。手紙の流出を疑う根拠にはなりません」


 彼は薄い報告書を宗一へ渡した。


 千歳は汐里が置いた紙を見た。貸してもらえるか尋ねると、彼女はうなずいた。作品名は《帰りを待つ人》。二十七年前に描かれたとある。


 その下の説明に線が引かれていた。


 『別離の後も、佳乃は夫の帰る日を待ち続けた。窓辺の姿には、朔郎を生涯支えた妻の献身が表れている』


 余白には整った字で「別れた後の生活については事実と異なります。この二文の訂正をお願いします」と書かれていた。


「絵を描いたのは別れる前ですか」


 千歳が聞くと、汐里は別れる二年前だと答えた。


「父は後から、この絵をそういうふうに話すようになったんです。母はそれを自分の人生の説明にしないでほしいと」

「兄には兄の思いがある」


 宗一が言った。


「だから絵の題を変えてほしいとは書いていません」


 責任者が咳払いをした。


「訂正のご要望は承知しています。真壁からも文案が出ています。ただ宗一さんからいただいた資料との照合を——」

「開幕してからずっとそれです」


 真壁が言った。


 携帯電話が机の上で震えた。彼は画面を伏せた。先ほどの受け渡しの相手なのか千歳には分からなかった。


 未明は原稿を指して責任者に尋ねた。


「この案も見ていいですか」


 許可を得ると、配布中の案内と並べる。千歳も横から目を走らせた。午後用の原稿には、展示室の混雑を避ける案内が書かれていた。ほかの作品への誘導は残っているのに、《帰りを待つ人》の場所を示す一行だけがない。


「それも中止する催しに合わせた修正ですか」


 千歳が尋ねると、真壁は「案です」と答えた。


 未明が紙を九十度回した。内容は変わらない。ただ時刻と催しの名前が千歳からも見やすくなる。


「理由の欄を隠してみましょう」


 未明は別の紙を重ねた。


「残すものとなくすもの。それだけにするとずっと分かりやすい」


 宗一が腕を組んだ。


「何が分かるというんです」

「午前十時半。この絵の実物を使う鑑賞会は残る。午後二時。画像を使う講演も残る。三時以降は実物の前ですることだけがなくなる」


 未明は順番に鉛筆の先を置いた。


「混雑が理由なら人数を減らす案が使えます。撮影が問題なら質疑応答までやめなくてもいい。宗一さんの催しが嫌なのかと思いましたが、別の職員による通常の案内までこの絵だけ午前に回そうとしていた」

「変更は決定していません」

「ええ。だから明日の午後には必ずなくなるとは言っていません。なくなった場合に困らないよう準備している」


 真壁は返事をしなかった。


 千歳は並んだ紙を見ていた。真壁の説明を一つずつ聞いていたときには、混雑、写り込み、人手の問題だった。それぞれ別の理由で消されていた予定が紙の上では一つの輪郭になっている。


 絵がない。


 それを当てはめると、ばらばらだった変更案が同じ方向を向いた。


「返却が早まる予定は?」


 未明が宗一に尋ねた。


「ありません」

「作品の状態に問題があって展示を外すことは」


 責任者が首を振った。


「その報告は受けていません。真壁、何かあるのか」

「作品に問題はありません」


 未明はうなずいた。千歳は彼が次の質問をする前に口を開いた。


「展示への抗議で館内にしまうつもりだった可能性もありますよね」

「あります。そこはまだ分からない」


 未明は真壁へ向き直った。


「外した後、どこに置くつもりですか」


 真壁の視線が佳乃の訂正紙へ落ちた。


「誰にも迷惑はかけないつもりでした」

「それは難しいと思います。ここからなくなる時点で予定がこれだけ変わる」

「久瀬さん」


 千歳が呼ぶと、彼は一度こちらを見て、言葉を止めた。


 宗一が椅子を引いた。


「持ち出す気だったのか。私の絵を。売る算段でもつけたんですか」

「売る?」


 真壁の顔に怒りが浮かんだ。


「あなたはそれしか考えられないんですか」

「では何のために」

「佳乃さんにお返しするためです!」


 真壁は声の大きさに自分でも気づいたらしく、唇を結んだ。机の上の電話を取り、しばらく画面を操作した。


「本当に出すと決めたわけじゃありません。今日の話し合いでも拒まれたら明日実行する。そのための準備です。まだ取り消せます」


 彼が自分から示した連絡の画面には翌日の受け渡しについてのやり取りがあった。対象の作品名と館外への移動についての相談。責任者が読み、これは館として依頼したものではないと確かめた。千歳は画面をのぞく前に真壁の了承を得た。読む間、真壁は携帯電話から手を離さなかった。


「佳乃さんへ渡すことは宗一さんには?」

「話していません」

「館の許可もないんですね」

「取れるわけがないでしょう」


 そこで責任者が深く息を吐いた。


 未明は携帯電話より、予定表を見ていた。


「なるほど。まだ決めていないから、変更も案のままなんですね」

「そう言っているでしょう」

「でも準備はしている。午後の案内まで。ずいぶん丁寧です」


 真壁が未明を見た。その表情を見て、千歳は嫌な予感がした。


「丁寧?」

「持ち出した後の混乱を減らそうとしているんでしょう。撮影に来た人をがっかりさせたくない。職員を困らせたくない。けれど何も変えずに置いておけば目立たなかった予定が全部あなたの準備を説明してしまった」

「久瀬さん。その話は」

「特に朝の鑑賞会です。そこだけ残したのがいい」


 未明は鉛筆で十時半を指した。


 真壁は仕事ぶりを採点されているような顔になった。


「いいって、何がですか」

「絵をなくしたいだけなら朝からなくてもいい。でもあなたは朝の会をちゃんと終わらせたい。そこがずっと気になっていました」

「子どもたちには関係ないからです」

「やっぱり」


 未明が笑った。ほんの小さな笑みだった。嘲る顔ではない。予想していた答えが戻ってきたことを素直に喜んでいる。だからこそ千歳はまずいと思った。


「僕は最初、時間に別の制約があるのかと思ったんです。受け渡しが午後にしかできないとか。でもあなたが守りたかったのは——」

「何がおかしいんですか」


 真壁の声が低くなった。


「何度も訂正してほしいと言ったんです。本人が違うと言っている。なのに資料を確認する、所有者と相談する、そればかりで。もう明日で終わるんですよ」

「その経緯はさっき聞きました」

「聞いて、それですか」


 未明は鉛筆を止めた。


「僕が確認したいのは午前を残した理由です。あなたの計画には仕事を守りたい部分と——」

「もう結構です」


 真壁は携帯電話を自分の前へ戻した。


「面白い話をしているつもりはありません。あなたにこれ以上説明することはない」


 部屋が静かになった。


 千歳は先ほど自分が予定表の偏りを見つけたときの気分を思い出した。未明より先に質問できた。ばらばらの情報がつながった。それは確かに面白かった。


 だが机の向こうに座っているのは答え合わせを待つ問題ではない。


 千歳は鉛筆の先を避けて未明の手元に手を添えた。


「今はその確認をやめてください」

「まだ一つ——」

「その一つは待てます」


 未明は千歳を見た。納得した顔ではなかったが、鉛筆を置いた。


 扉の外で職員の声がした。


「榛原佳乃様がお見えです」


 時計は二時を指していた。汐里が立って扉を開ける。入ってきたのは小柄な女性だった。生成りの上着に、持ち手を自分で縫い直したらしい布の鞄。娘の顔を見て、それから机の上の紙に視線を落とした。


「何かあったの?」


 真壁が椅子から腰を浮かせた。


「佳乃さん。僕はあなたのために——」


 千歳は訂正紙を手に取った。今度は誰かが最後まで説明してしまう前に本人へ渡したかった。

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