明日の展示室には何もない①
榧野千歳は絵を見る前に解説を読まないことにしていた。
花の絵ならまず花を見る。画家が貧しかったとか、妻と不仲だったとか、実はその花が死を意味するとか、そういうことは後で知ればいい。最初から答えを渡されると、自分が何を感じたのか分からなくなる。
だからその日も額の右下にある白い札は見なかった。
絵の中では女が窓辺に座っていた。膝に伏せた両手と窓の外へ向けた横顔。白い袖に淡い青が差し、耳の下にだけ暖かい色がある。遠くを見る目にも、目の前のものから顔を背けた目にも見えた。
千歳は少し離れ、もう一度近づいた。
「明日の午後もここにありますか」
隣の男が尋ねた。
細身の上着を着た三十歳になるかならないかの男だった。絵の前にいるのに顔は横の職員へ向けている。手には折った催しの案内があった。
「ええ。回顧展は明日の五時までですので」
「それは展覧会ですね。僕が聞いたのはこの絵です」
職員の笑顔が接客用の形を保ったまま止まった。
休日に仕事のことは考えたくなかった。刑事という職業は一度顔を出すと買い物中でも食事中でも帰りの電車でも簡単には引っ込まない。今日は静かな部屋で誰の言葉の裏も読まずにいたかった。
なのに隣にどう見ても面倒な質問をする男がいる。
「展示替えのご予定は、今のところ……担当に確認いたします」
「お願いします。午前中にはあるそうなので」
職員が奥へ向かった。男は案内を開き、鉛筆で何かに線を引いた。
「閉館時間を聞けば済む話ではなかったんですか」
千歳が言うと、男は初めてこちらを見た。
「済むと思っていたんですが、受付で、明日の午後の催しは変更になるかもしれないと聞いたので。講演はそのままで、変わるのはこの絵の前でする会だけだそうです」
「それなら、そういう予定なんでしょう」
「そう。その理由を知りたい」
男の声には窓口への不満とは違う弾みがあった。
奥から名札をつけた男性が出てきた。真壁とある。片手に青い表紙の冊子を持ち、先ほどの職員に赤鉛筆を返していた。
「『外光』は『窓から入る光』に直してください。言葉を説明しているうちに、絵を見る時間がなくなるので」
「明日の鑑賞会の分ですね。先生の名前の読み方も入れますか」
「名前は僕が言います。子どもたちには先に好きなところを探してもらいたい」
千歳は少しだけその人に好感を持った。
真壁は男を認めると、足を止めた。
「久瀬さん。宗一さんはまだお見えになっていませんが」
「約束より早く来ました。それより明日の質疑応答は中止ですか」
「中止の案を出しています。この部屋に人が集中すると、ほかの作品をご覧になる方の妨げになりますから」
「撮影も?」
「一般のお客様の写り込みが問題になりますので」
「朝の鑑賞会は残すんですね」
「はい。予約を受けていますし、少人数です」
真壁の胸元で電話が震えた。画面を見て一瞬眉を寄せ、二人に頭を下げる。
「失礼します。……ええ、明日の受け渡しの件ですね。今は少し」
低い声を残して廊下へ出ていった。
男は紙に引いた線を見た。
「同じ部屋なのに、人が集まる朝は構わなくて午後は駄目になる」
「朝は予約の少人数だと言いましたよ。午後は人数が違うんでしょう」
千歳が指摘すると、男の視線が上がった。反論されて不愉快になった顔ではない。むしろ見つからなかった物が見つかったときの顔に近い。
「それはそうですね。じゃあ午後も人数を絞ればいい」
「私に聞かれても」
「いえ、聞くことが一つ減りました。ありがとう」
男は案内の端に何かを書き足した。千歳は言い返しかけてやめた。間違いを訂正しただけなのになぜか調査に協力したことになっている。
「久瀬未明です」
「名前まで聞いてません」
「まだ聞いていなかったですね」
男は不思議そうでもなくうなずいた。千歳は絵に戻った。女の表情がさっきより疲れて見えたのはたぶん自分のせいだった。
*
真壁が戻ってきたとき、入口から年配の男が入ってきた。
品のいい灰色のジャケットに銀の縁の眼鏡。こちらを見つけると、真壁には短く、未明にははっきりとうなずいた。
「久瀬さん。お待たせしました」
「僕が早く来たんです。明日の講演は予定どおりですか」
「二時からです。何か?」
「その後この絵の前でする質疑応答と撮影がなくなるそうで」
男は真壁を見た。
「私は了承していませんよ」
「ですから、案です。展示室が混み合うことを考えて」
「講演を聞いた方に、最後に実物を見てもらう。それで一つの催しでしょう。兄の作品は画像だけでは伝わらない」
声が上がりかけ、真壁は周囲を確かめた。展示室には千歳たちのほかに二組の来館者がいた。
「宗一さん、その話は後ほど」
「人数を絞ってはどうですか」
未明が言った。
千歳は思わず彼を見た。もう使った。
「午前と同じくらいに分ければ、混雑は避けられます。撮影も希望者だけ順番に」
「その誘導に人手が要ります」
「私も立ちますよ」
宗一が言った。
「質疑応答の間は別の部屋にいたスタッフをこちらへ」
「直前に変えると混乱します」
「中止するほうが変更ではありませんか」
未明は責める調子をまるで使わなかった。そのため真壁の返事だけが次第に尖って聞こえた。
受付側から別の職員が顔を出した。
「真壁さん、午後の作品案内のことで。講演に参加しないお客様には私がこちらをご案内してもいいですか」
「ほかの作品を中心にお願いします」
「この絵を目当てに来る方も多いので、五分くらいなら」
「できればこの作品は午前中に」
「午後から来る方もいますが」
真壁は手元の冊子を閉じた。
「まだ決定ではありません。午後の案内は後でまとめて説明します」
職員は困った顔で引っ込んだ。
千歳は未明の紙をのぞいた。そこには催しの時刻が印刷され、十五時と十五時半に線が引かれていた。十時半の鑑賞会と十四時の講演には何も書かれていない。
「二時の講演は別室ですか」
千歳が尋ねると、宗一が答えた。
「はい。スライドを使います。三時にこちらへ移動する予定です」
「画像は使うんですね」
「もちろんです。兄の代表作ですから」
未明が千歳を見た。彼が口を開く前に、千歳は続けた。
「さっきの職員さんの案内には宗一さんは参加しないんですよね」
「私は講演がありますので」
未明が鉛筆を止めた。千歳は自分が彼の考えたかったことを先に聞いたのだと察した。少し気分がよかった。
「すると人でも話す内容でもなくなる」
未明が小さく言った。
「何の話ですか」
宗一の問いに、未明は絵を見上げた。
「この絵が明日の午後にはここにない可能性です」
真壁の指が冊子の背を強く押した。
宗一は絵と未明を交互に見た。
「返却は閉幕後です。私は今日、そんな話をしに来たのではありません」
「ええ。別の予定があるのかと」
「真壁さん。まさか勝手に運び出すつもりではないでしょうね」
「そんなことは言っていません」
「だがあなたは前から——」
千歳は二人の間に声を入れた。
「今は予定の話です。絵がなくなるというのも、この人の推測でしょう」
「あなたは?」
宗一の視線が鋭くなった。正当な質問だった。千歳はただ絵を見に来た客だ。
「榧野といいます。警察官です。今日は休みで、観覧に来ました」
真壁がこちらを見直した。
「ここで誰かを決めつけるより館の責任者に予定を確かめませんか。ほかのお客様もいらっしゃいます」
宗一は入口のほうを見て、口を閉じた。
真壁が責任者は奥にいると答えた。事情を説明しに行く背中を見送り、千歳は未明へ顔を寄せる。
「何も盗まれていないうちから人を盗人みたいに扱わないでください」
「僕は絵の所在を聞いただけです」
「聞く順番というものがあります」
未明は少し考えた。
「あなたは順番を変えるのがうまそうですね」
褒められた気がしなかった。
責任者が来て、奥の打ち合わせ室を使うと言った。宗一が未明を促し、千歳にも「先ほどの話を聞いていたなら」と同席を求めた。真壁も異存はないと答える。
千歳は一度、窓辺の女を振り返った。まだ札を読んでいなかった。
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