第8話 おかあさんへ、の一通
塗り直したポストの赤は、秋の朝の光の中で、まだ少し、照れくさそうに見えた。私が、自分の手で塗った赤。配達控に「私が、この村の配達人です」と書いてから、十日が経つ。名乗ってしまえば、何かが劇的に変わるわけでもなかった。それでも、朝、ポストの前を通るたび、背筋が、少しだけ伸びる。役目というのは、看板ではなくて、姿勢のことなのかもしれない、と思う。
村の秋は、都会よりも、ずっと足が速い。山の稜線がくっきりして、朝の空気に、金木犀と、乾いた藁のにおいが、混ざるようになった。庭先の柿が、日ごとに色を深くしていく。灯を乗せた朝のバスが、橋を渡っていくのを、私は、ポストの前から、なんとなく見送るのが、日課になっていた。窓ぎわの席で、頬づえをつく小さな影に、手を振ると、たまに、面倒くさそうに、振り返してくれる。
その十日のあいだ、灯の様子が、ずっと、おかしかった。
学校帰りに、毎日のように川へ寄っていたのに、ここのところ、ぱったりと来ない。たまに顔を出しても、川面を見ないように、目をそらしている。麦茶を出しても、半分残す。「なんかあった?」と聞くと、「べつに」と、今どきの子の、いちばん分厚い扉みたいな返事が、かえってくるだけだった。
理由は、私も、蒼も、たぶん、知っていた。あの夜——私が配達人を名乗った夜、川底に、白いものが、ひとつ、沈んでいるのが見えた。手紙だ。まだ、浮かんでは、こない。けれど、蒼は、あのとき、めずらしく、言いにくそうに言ったのだ。「……あれは、浮くぞ。近いうちに。想いが、もう、限界まで膨らんでる」
そして、その手紙は、昨夜、浮いた。
月のない夜だった。川面は、すみずみまで、墨を流したように暗くて、だからこそ、その一通は、よく見えた。ほのかに光る宛名を上にして、ゆっくり、ゆっくり、岸へ寄ってくる。私は、裸足で浅瀬に入って、両手で、それを、すくい上げた。濡れているのに、濡れていない、いつもの、不思議な手ざわり。
宛名には、こう、あった。
『おかあさんへ』
その字を見た瞬間、心臓が、どきりとした。丸くて、少し右上がりの、癖のある字。毎日、配達控の隅に、勝手に落書きをしていく、あの字だった。
「灯の、字だ」
蒼は、否定しなかった。岩の上に膝を抱えて、暗い川面を見たまま、静かに言った。「ずっと、聞こえてた。あいつの声が。川に来るたび、あいつの中で、この手紙が、騒ぐんだ。書いたのは、夏の終わりだな。書いて、出せなくて、夜、橋の上から、流した」
封は、されていなかった。けれど、私は、開かなかった。翁のルールが、胸にある。届けるかどうかは、受け取る者が決める。なら、読ませるかどうかを決めるのは——まず、書いた本人であるべきだった。
「なぎ姉!」
声がして、振り向くと、土手の上に、灯が立っていた。パーカーの下は、寝間着のズボンのままだった。自転車を、放り出すように倒して、転げるように、河原へ降りてくる。家の窓から、川が光るのが見えたのだと、あとで言った。
灯は、私の手の中の手紙を見て、立ち止まった。暗がりでも、わかるくらい、顔が、こわばっていた。
「……読んだ?」
「読んでないよ。宛名だけ」
灯は、しばらく、黙っていた。それから、力が抜けたみたいに、河原の石の上に、ぺたんと座り込んだ。「なんで、浮いてくるかなあ……。流したのに。捨てたのに。もう、いいやって、思ったのに」
私は、隣に座った。夜の石は、ひんやりと冷たかった。羽織っていたカーディガンを脱いで、寝間着姿の肩に、かけてやる。灯は、いらない、とは言わなかった。膝を抱えて、手紙のほうを、見ようとしなかった。でも、逃げも、しなかった。川の音だけの、長い沈黙のあとで、灯は、ぽつりと言った。
「あたし、東京の大学、行きたいんだよね」
初めて聞く話では、なかった。都会に出たい、と、灯は、口ぐせみたいに言っていた。でも、今夜の声は、いつもの、軽い調子ではなかった。
「デザインの勉強、したくて。パンフレット、ぼろぼろになるまで見た。オープンキャンパスも、夏休みに、内緒で行った。街も、学校も、きらきらしてた。……行きたい。めっちゃ、行きたい! でもさ」
灯は、そこで、言葉を切った。川の音が、また、しばらく続いた。
「……うち、お母さんと、二人なんだ。お父さんは、あたしがちっちゃい頃に、出てった。お母さん、隣町の工場で、夜勤やってる。もう、ずっと。あたしを、育てるために」
私は、初めて知った。灯のお母さんのこと。名前は、澄子さんというのだと、灯は言った。夜の七時に家を出て、朝の六時過ぎに帰ってくる。だから、灯が学校へ行く朝は、お母さんが眠りにつく時間で、灯が眠る夜は、お母さんが働いている時間。
「顔合わせるの、週に二、三回だよ。あとは、テーブルの上の、置き手紙。『カレー作った』『プリント出しといて』『いってらっしゃい』——そんなんばっか。同じ家に住んでるのにさ、変でしょ。うちの親子、手紙で、できてるんだよ」
灯は、笑おうとして、失敗した。
「そんなお母さんにさ、『東京の大学行きたい、学費かかるけど』なんて、言える? 夜勤明けの、あの、しわしわの背中に? あたしが出てったら、あの家に、お母さん、ひとりだよ。置き手紙、読む人も、いなくなるんだよ!」
言えるわけないじゃん、と、灯は、小さく言った。それは、十七歳が、ひとりで抱えるには、あまりに重たい優しさだった。私は、何か言おうとして、やめた。がんばれ、とか、話せばわかるよ、とか、そんな言葉は、たぶん、灯が、いちばん自分に言い聞かせて、いちばん、すり切れさせてきた言葉だからだ。私だって、そうだった。祖母に「ただいま」のひとことが言えないまま、言い訳ばかり、上手になっていった。言えない、ということの重さなら、少しは、知っているつもりだった。
かわりに、私は、手の中の手紙を、灯に、差し出した。
「これ、どうする? 届けるか、届けないか。決めるのは、私じゃないよ」
灯は、自分の手紙を、長いあいだ、見つめていた。宛名の『おかあさんへ』の文字が、蛍みたいに、ほのかに、明滅していた。灯の指が、一度、封筒に触れて、また、離れた。
「……まだ、渡さないで」
絞り出すような、声だった。
「捨てないで。でも、渡さないで。まだ、無理。これ読まれたら、あたし、ほんとのこと、ぜんぶ、決めなきゃいけなくなる。……もうちょっとだけ、待って。ちゃんと、自分で、覚悟できるまで」
私は、うなずいた。届けるかは、受け取る者に決めさせる。押しつけては、いけない。それが、この役目の、二つ目の約束だ。そして、渡すかどうかを迷っている差出人を、急かさないことも、きっと、同じ約束の内側にある。
「わかった。それまで、私が、預かる。配達人として、責任もって」
配達人、と、自分の口ですんなり言えたことに、自分で、少しだけ、驚いた。灯は、洟をすすって、それから、ようやく、いつもの顔に、半分だけ戻った。「なぎ姉、それ、ちょっと、かっこよすぎ」
帰り道、灯を、家の前まで送った。夜道を並んで歩きながら、灯は、カーディガンの袖を、指先で、いじっていた。「あのさ、なぎ姉。今日のこと、お母さんには、まだ、ないしょね」わかってる、と私が答えると、灯は、少しだけ、笑った。配達人は、口が堅いのだ。祖母も、きっと、そうだったのだと思う。
灯の家は、集落のいちばん端にあった。古い平屋の、台所にだけ、ぽつんと灯りがついていた。誰もいない家の、帰ってくる人のための灯り。テーブルの上には、今夜も、置き手紙があるのだろう。『ごはん、チンして』とか、そんな、短くて、でも、毎日欠かさず書かれる手紙が。それを書き続けてきた澄子さんという人に、私は、まだ、会ったことがない。でも、その置き手紙の、十何年ぶんの束のことを思うと、会ったことのないその人が、もう、他人とは、思えなかった。
小屋に戻ると、ポスト翁が、錆びた声で、ぼそりと言った。
「預かるのも、配達のうちじゃよ。手紙にはな、熟れ時というものがある。青い柿を、もいではいかんのじゃ」
私は、灯の手紙を、祖母の文箱に、そっと、しまった。渡す日が来るまで、ここで、眠らせておく。灯が、自分の手で、扉を開けられる日まで。文箱の蓋を閉じるとき、指先に、あの熱が、かすかに伝わった。行きたい、と、ごめんね、が、ひとつに溶けたような、複雑な、あたたかい熱だった。
——その夜ふけ、戸を叩いた蒼に連れられて川へ出ると、暗い水の底に、もう一通、手紙が沈んでいた。ほのかに光る宛名は『灯へ』——今度は、大人の字。丸くて、少し右上がりの、あの子とよく似たその字は、まだ会ったことのない、澄子さんの字に、ちがいなかった。




