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第7話 私は、配達人です

美咲を見送って、数日がたった。山の紅葉が、少しずつ里まで下りてきて、川の水は、日ごとに、冷たさを増していく。朝、いつものように配達控を胸に抱えて、村の入り口のポストの前に立ったとき、ふと、気づいた。ポストの赤が、ずいぶん、剥げている。


 肩のあたりの塗装が、ぱりぱりとめくれて、灰色の地金が、のぞいていた。足もとには、錆が浮いて、茶色い涙のあとみたいに、筋になって流れている場所もある。考えてみれば、当たり前だった。このポストは、祖母が配達人になるより、もっと前から、ここに立っている。夏の日差しも、冬の雪も、梅雨の長雨も、何十年ぶんも浴びて、それでも、村の入り口で、ずっと、手紙を待ち続けてきたのだ。


「翁、けっこう、ぼろぼろだったんだね」


 夜にしか喋らない翁は、昼間は、ただの古いポストだ。返事はない。私は、剥げた赤を、指先でなぞった。ざらり、と、錆の感触がした。その瞬間、なぜだか、胸の奥で、何かが、ことり、と決まった。


 この夏から、私は、いくつもの手紙を届けてきた。秋乃さんの、六十年越しの恋文。巧さんのお父さんの、運動会の約束。金魚じいさんの、五十年ぶんの「好き」。そして、美咲の、おばあちゃんへの手紙。花江さんは、私の手を両手で包んで、「ええ配達人さんやねえ」と言ってくれた。でも、私は、そのたびに、曖昧に笑って、うつむいてきた。私なんかが。どうせまた、途中で投げ出すに決まっている。都会の会社を、三ヶ月で逃げ出したように。その声は、いつも、自分の内側から聞こえてくる。世界じゅうの誰よりも、意地悪な声で。


 でも、美咲は、泣きながら言ってくれた。凪が、ここにいてくれて、よかった、と。出ていくことも、留まることも、どっちも正しい。なら、私は、留まることを、自分で選びたかった。流れ着いたのでも、逃げ帰ったのでもなく、ここにいると、自分の口で、言いたかった。


 次の日、私は、朝のバスに乗って、隣町の金物屋へ行った。灯と同じバスだった。制服姿の灯が、隣の席で、目を丸くした。「なぎ姉が、バス乗ってるの、初めて見た。なに、デート?」「ペンキ、買いに行くの」「は!? ペンキ?」灯は、しばらく、変なものを見る目で私を見ていたけれど、バスを降りるとき、「日曜、暇だから」とだけ、言った。


 金物屋で選んだのは、消防車みたいな、まっすぐな赤だった。錆止めと、刷毛と、紙やすりも買った。帰りのバスの中で、膝の上の缶を抱えていたら、なんだか、胸の奥が、そわそわした。遠足の、前の日みたいに。


 日曜日、灯は、本当にやってきた。ジャージ姿で、軍手まで持参して。「手伝ったげる。どうせ暇だし」二人で、まず、紙やすりで錆を落とした。しゃりしゃり、しゃりしゃりと、乾いた音が、秋の空に吸い込まれていく。剥げた塗装の下から、もっと古い赤が、出てきた。このポストは、何度も、何度も、塗り重ねられてきたのだ。祖母も、いつかの秋に、こうして、ここにしゃがんで、刷毛を握ったのだろうか。そう思うと、紙やすりを持つ手に、そっと、誰かの手が重なっている気がした。


 休憩には、縁側で、麦茶を出した。祖母が、いつか、幼い私にしてくれたように。灯は、コップを両手で持って、ごくごくと飲みほしてから、ぽつりと言った。「あたしさ、最初、この村のこと、なんにもない場所だと思ってた。でも、なぎ姉が来てから、なんか、ちょっとずつ、色がついてきた気がする」照れくさいのか、灯は、そのまま、ぷいと立ち上がって、軍手をはめ直した。私は、その背中に、ありがとう、と、心の中だけで言った。


「ねえ、なんで急に、塗り直そうと思ったの?」


 灯が、手を動かしながら、聞いた。私は、少し迷ってから、答えた。


「けじめ、かな。ちゃんと、始めるための」


「ふうん」灯は、それ以上、聞かなかった。聞かないでいてくれるのが、この子の、優しさだった。


 川のほうから、蒼が、こちらを見ていた。岩の上に、素足で立って、腕を組んで。「手伝わないの?」と灯が声を張ると、蒼は、ふい、と顔をそむけた。「……夕方、雨が来る。今日中に、下塗りまで終わらせろ」ぶっきらぼうに、それだけ言って、また、川面を見た。灯が、私を見て、笑いをかみ殺した。あれは、蒼なりの、手伝いだった。


 錆止めを塗り、乾くのを待って、赤を、重ねた。刷毛が、すっ、と滑るたび、古いポストが、少しずつ、生き返っていくみたいだった。夕方には、ポストは、見違えるように、赤くなった。西日を受けて、つやつやと光る、まっすぐな赤。灯が、少し離れて、目を細めた。「なんか……ポストって、こんなに赤かったんだね」その声のうしろで、蒼の言ったとおり、ぽつり、と、最初の雨が落ちた。塗り立ての赤は、雨粒を、玉にして、はじいた。


 その夜、雨のあがった月あかりの下で、私は、ひとりで、ポストの前に立った。


「ふぉ……これは、また、ずいぶんと、若返ったのう」


 錆びた声が、うれしそうに、軋んだ。私は、聞いた。「翁。三つ目のルール。自分で見つけよって言われてる、あれ。……まだ、答えじゃないかもしれないけど。いま思ってること、言ってもいい?」


「聞こうかの」


 私は、息を吸った。冷たい夜の空気が、胸の奥まで、届いた。


「配達人が、自分の心にも、嘘をつかないこと。……私、ずっと、自分にだけ、嘘をついてた。どうせ途中で投げ出すって、先に決めて、逃げ道を作ってた。でも、本当は、この役目が、好き。手紙が届いたときの、あの顔が、好き。だから、もう、逃げ道は作らない。私は、ここで、配達人をやる。つまずいても、また立って、やる」


 翁は、しばらく、黙っていた。月あかりの中で、塗り立ての赤が、静かに、息をしているように見えた。それから、ふぉっふぉ、と、古い風鈴が転がるみたいに、翁は笑った。


「……それは、まだ、答えの半分じゃな。じゃが、よい半分じゃ。残りの半分は、いずれ、手紙のほうが、教えてくれるわい」


 半分でも、よかった。家に戻ると、私は、囲炉裏のそばで、配達控を開いた。歴代の配達人たちの字が、何ページも続いている。几帳面な字、走り書きの字、かすれた字。知らない誰かたちが、この村で、手紙を届けて、生きてきた。そのいちばん新しいところに、祖母の、少し右上がりの字がある。ぱらぱらとめくれば、この夏からの、私自身の記録もあった。秋乃さん。巧さん。花江さん。美咲。一行ずつの向こうに、あの人たちの泣き顔と、笑い顔が、ちゃんと、見えた。その最後の記録の、次の行。私は、筆に、墨を含ませた。手が、少しだけ、震えた。


 ――私が、この村の配達人です。


 書き終えると、墨の匂いの中で、ようやく、長い息を吐いた。たったの一行なのに、誰かと、契りを結んだような気がした。囲炉裏の火が、ぱち、と小さく爆ぜて、まるで、拍手みたいだった。


 次の日の放課後、川べりで、私は、二人に言った。「私、決めました。正式に、この村の配達人に、なります。……これからも、よろしくお願いします」そして、深々と、頭を下げた。


 灯が、ぷっ、と吹き出した。「なにそれ、就任式? 誰に許可とってんの?」笑いながら、でも灯は、赤くなったポストのほうを、ちらりと見て、それから、少し、まぶしそうに、私を見た。「……なぎ姉、かっこいいじゃん。ちょっとだけね」


 蒼は、川の上で、そっぽを向いたままだった。「……で?」「で、って。それだけ?」「別に。前から、お前は、配達人だった。手紙のほうが、とっくに、そう思ってる」それだけ言って、蒼は、水の中に、すう、と姿を消した。水面に、小さな輪が、ひとつ残った。灯と、顔を見合わせて、笑った。あれは、たぶん、蒼なりの、精いっぱいの祝辞だった。


 夕暮れ、ひとりに戻ってから、私は、塗り直したばかりのポストに、そっと、手のひらを当てた。つやつやの赤からは、まだ、かすかに、ペンキの匂いがした。おばあちゃん。私、言えなかった言葉が、あるんだ。あの日、間に合わなかった、たったひとこと。何度も夢に見て、そのたびに、喉の奥で、つかえていたひとこと。


「……ただいま」


 声に出したら、思っていたより、ずっと、小さな声になった。でも、たしかに、言えた。三年ぶりに帰ってきたあの日から、ずっと、胸の底に沈んでいたひとことが、夕方の風に、ふわりと、ほどけていった。


 ポストは、昼間だから、何も言わない。でも、赤い箱は、西日を吸いこんで、手のひらに、あたたかかった。まるで、おかえり、と、言ってくれているみたいに。私は、この村で、生きていく。手紙と、いっしょに。


 ——次の朝、川底で、新しい手紙が、白く光っていた。宛名は「お母さんへ」。その丸い、癖のある字を、私は、毎日見ていた。それは、灯の字だった。

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