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第6話 出ていく水、留まる水

都会のにおい、というものが、ほんとうにあるのだと、私はその朝、はじめて知った。


 ポストの底で光っていた真新しい封筒は、インクのにおいに混じって、どこか、乾いた風のようなにおいがした。排気ガスと、コンビニと、夜遅くまで灯りの消えないビルのにおい。私が三ヶ月だけ働いた、あの街のにおいだった。差出人の名前を見て、私は、封筒を持ったまま、しばらく動けなかった。


 美咲。中学まで、ずっと同じ教室にいた、私の元同級生。高校から隣町に出て、卒業と同時に、東京へ行った子。宛名には、美咲のおばあちゃんの名前が書いてあった。三年前に亡くなった、しわくちゃに笑う、よもぎ餅の上手な、あのおばあちゃんの名前が。


 小学生のころ、学校帰りに、よく二人で、あの家に寄った。縁側で、蒸したてのよもぎ餅をほおばって、口のまわりを、きなこだらけにして。おばあちゃんは、いつも「ようけお食べ、ようけお食べ」と言って、私たちの湯のみに、麦茶を注ぎ足してくれた。あの家は、いま、雨戸を閉めたまま、坂の途中で、静かに古びている。宛先は、もう、この世のどこにもなかった。それなのに、手紙は、書かれて、切手を貼られて、投函されて、そうして、迷子になって、ここまで来た。


 その夜、ポスト翁に聞くと、錆びた声が、ゆっくりと答えた。


「届け先を失うた手紙は、迷子になる。川へ落ちるものもあれば、わしの腹へ、ころりと転がり込むものもある。……宛先のうせた手紙ほど、重いものはないぞ」


 便箋には、明るい文字が並んでいた。おばあちゃん、元気にしてますか。私は元気です。仕事にも慣れてきて、こないだ、はじめて後輩ができました。東京はもう、イルミネーションがきれいです。おばあちゃんの、よもぎ餅が食べたいなあ。また、お盆には帰るね。


 元気です、と書いてあるのに、指先で触れると、手紙は、冷たいくらいに、さびしかった。想いの熱が、震えていた。ちゃんとやれてるよ、という文字の下から、ちゃんとやれてるのかな、という声が、透けて聞こえるような気がした。亡くなった人に宛てて、それでも書かずにいられなかった手紙。届かないと知っていて、それでも、投函せずにいられなかった手紙。


 川べりで手紙を見せると、蒼は、宛名を一瞥して、それきり、川面に目を戻した。


「……声が、遠いな。この手紙の声は、川からじゃない。もっと、ずっと遠くから聞こえる。灯りだらけの、川のない場所からだ」


「東京だよ。私も、少しだけ、いたことがある」


「濡れてないのに、溺れてるみたいな声だ」


 蒼は、それだけ言って、口をつぐんだ。溺れてるみたいな声。その言い方が、いやになるほど、正確だった。


 私は、三日、迷った。電話をかければ、私が村に帰ってきたことを、話さなくてはいけない。就職に三ヶ月でつまずいて、逃げるように戻ってきたことを。同級生にだけは、知られたくなかった。中学の卒業式の日、美咲は言ったのだ。「私、絶対、都会に出るからね」と。あのとき、私も、大きくうなずいたのだった。あの日の私たちに、いまの私を、見られたくなかった。でも、あの便箋の冷たさが、指先から、離れてくれなかった。


 四日目の夜、私は、番号を押した。


「……凪? うそ、ほんとに凪!?」


 三年ぶりの美咲の声は、記憶よりも、ずっと細かった。私が手紙のことを話すと、電話の向こうが、長いあいだ、静かになった。それから、洟をすする音がして、小さな声が言った。


「会いたい。……帰りたいって、ほんとは、ずっと思っとった」


 土曜の昼、村に一本だけのバスから、美咲が降りてきた。都会の綺麗な服を着て、都会の綺麗な鞄を提げて、でも、頬は記憶より薄くなっていた。私の顔を見ると、美咲は、泣き笑いの顔になった。


「なにそれ、軍手。凪、完全にこっちの人に戻っとるじゃん!」


「うるさいなあ。ほら、行くよ」


 二人で、美咲のおばあちゃんのお墓へ、坂道を登った。途中、灯とすれ違って、「なぎ姉の友達? 都会の人だ、いいにおいする」と、遠慮のかけらもなく言うので、美咲は少し笑った。雨戸の閉まった、おばあちゃんの家の前を通るとき、美咲の足が、一度だけ、止まった。何も言わなかった。私も、何も聞かなかった。墓地は山の中腹にあって、村と、川が、ぜんぶ見下ろせた。彼岸花の残りが、畦のふちで、ちりちりと赤かった。


 お墓の前で、美咲は、手紙を供えて、手を合わせた。長い、長い、合掌だった。やがて、肩が、小さく震えはじめた。


「私ね、凪。おばあちゃんが死んでからも、ずっと手紙、書いとったの。おかしいよね。返事なんて、来んのに。でも、書いとるあいだだけ、ちゃんとした自分の、ふりができた。仕事にも慣れました、後輩もできました、って。……ぜんぶ、嘘。仕事は失敗ばっかりで、後輩には追い抜かれて、部屋に帰っても、誰もおらんくて。三年もおって、東京で、私、なんにも掴めとらん。出ていったのに。あんなに大きな顔して、出ていったのに」


 美咲は、両手で顔を覆った。


「凪が、うらやましかった」


 私は、耳を疑った。


「……それ、私のせりふだよ。私、三ヶ月で仕事辞めて、帰ってきたんだよ。逃げてきたの。おばあちゃんの死に目にも、間に合わんかった。ただいまも、言えんかった。私こそ、ずっと美咲がうらやましかった。出ていく勇気があって、三年も、続ける強さがあって」


「強くなんかないよ。帰る場所がなくなるのが、怖かっただけ。おばあちゃんが死んで、この村に、私の帰る家、なくなったから。だから、しがみついとっただけ」


 風が、山を渡っていった。眼下で、川が光っていた。私たちは、同い年で、同じ教室で育って、ひとりは出ていき、ひとりは留まって、そうして二人とも、まったく同じ場所で、自分を責めていたのだった。鏡を見ているようだと、思った。


 私は、この夏からのことを、ぽつぽつと話した。川底から浮く手紙のこと。六十年越しの恋文に、少女のように笑った秋乃さんのこと。夫の手紙を抱いて、たった一人で盆踊りの輪の真ん中に立った、花江さんのこと。届かなかった想いが、宛先を変えて、それでも、ちゃんと届いた夜のこと。


「ねえ、美咲。私、手紙を届けてきて、わかったことがあるんだ。想いって、場所を選ばんのだよ。出ていった人の手紙も、残った人の手紙も、おんなじ熱さで、川底から浮いてくる。だからきっと、出ていくことも、留まることも、どっちも間違いじゃない。どっちも、正しいんだよ。……これ、たぶん、自分に言っとるんだけどね」


 美咲は、しばらく黙っていた。それから、供えた手紙に、そっと手を伸ばした。


 私は言った。「それ、持って帰りなよ。おばあちゃんは、もう読んだよ。……その手紙はね、ほんとうは、美咲が美咲に宛てて書いた手紙だと、私は思う。がんばっとるよって、誰かに言ってほしかった、美咲自身への」


 美咲は、便箋を開いて、自分の書いた明るい嘘を、ゆっくりと読み返した。涙が、ぽたぽたと落ちて、それから、ふ、と笑った。


「……字、下手くそ」


 帰りのバス停で、美咲は言った。「私、もうちょっとだけ、向こうでやってみる。今度は、ふりじゃなくて。あかんくなったら、帰ってくる。凪がおるなら、この村、まだ私の帰る場所だわ」


「うん。いつでも。よもぎ餅、練習しとくから」


「凪のは絶対まずいって!」


 笑いながら、美咲はバスに乗った。窓越しに、口が動いた。また手紙書くね、今度は凪に、と言っていた。バスが山かげに消えるまで、私は手を振った。


 夕方の川べりで、蒼が、素足を水にひたして、こちらも見ずに言った。


「水は、出ていく。海まで行って、雨になって、また山に帰る。……それだけの話だろ」


「うん。それだけの話だった」


 私は、隣にしゃがんで、暮れていく川を見た。三ヶ月で帰ってきた私と、三年しがみついた美咲と、いつか出ていく灯と。みんな、おんなじ水なのだ。そう思ったら、胸の奥で固く縛られていた紐が、ひとつ、ほどけた気がした。


 家に戻ると、縁側に灯がいて、麦茶を勝手に飲んでいた。


「都会の人、帰った? なんか、来たときより、顔、ましになっとったね」


「ましって言わない」


「ねえ、なぎ姉。都会って、そんなにしんどいの?」灯は、湯のみのふちを、指でなぞった。「あたし、行くの、やめよっかなあ」


 冗談めかした声だったけれど、目は、笑っていなかった。私は、少し考えてから、言った。


「行っておいで。しんどかったら、帰ってくればいい。出ていくのも、帰ってくるのも、どっちも、負けじゃないから。……それにほら、ここには私がいるし、手紙も、あるし」


「なにそれ」灯は、鼻で笑って、それから、小さい声で、「……覚えとく」と言った。


 その夜、私は、配達控に記した。差出人、美咲。宛先、美咲のおばあちゃん。届け先、宛名の外。手紙は、書いた本人の心へ、届きました、と。書き終えて、ふと思った。祖母もこうやって、誰かの想いをひとつ届けるたびに、この帳面の前で、ひとりで、あたたかくなっていたのだろうか。ページをめくると、祖母の字が、何十年ぶんも、静かに並んでいた。私の字は、まだ、たった数行。でも、たしかに、同じ帳面の上にあった。


 翌朝、赤いポストの剥げた塗装が、朝日を受けて光っていて、私はふと、これを塗り直したいと思った。

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