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第5話 五十年目の盆踊り

村の秋祭りは、私が子どものころより、ずっと小さくなっていた。


 子どものころは、参道の両側にびっしりと屋台が並んで、金魚すくいも、りんご飴も、射的もあった。夜店の光が、川面に映って、揺れていた。人ごみで、はぐれないように、祖母の手を、ぎゅっと握っていたのを、覚えている。あのころは、村にも、まだ子どもがたくさんいた。境内は、笑い声で、いっぱいだった。


 いまは、境内に並ぶ屋台は、たった三つ。焼きそばと、綿あめと、金魚すくい。それも、村の人が持ち回りでやっている、手作りのものだった。売り子は、みんな顔見知りのお年寄り。「凪ちゃんかい、大きくなって」と、あちこちで声をかけられて、そのたびに、私は曖昧に頭を下げた。過疎、という言葉が、こんなにも寂しい光景のことだったのだと、都会にいたころは、知らなかった。それでも、赤い提灯が参道に灯ると、山あいの夜が、ふっと華やいだ。少しだけ、昔の祭りの残り香が、そこにあった。灯は「しょぼ」と言いながら、綿あめを両手に持って、屋台の間を、うれしそうに行ったり来たりしていた。口では文句を言うくせに、この子は、村の行事を、ひとつも欠かさない。


 浮かんだ手紙の宛名は、「はなえへ」。差出人の欄には、名前のかわりに、下手くそな金魚の絵が描いてあった。便箋を開くと、そこには、こう書かれていた。


『はなえ。今年も、祭りに来てくれてありがとう。おれは口下手で、いつも言えんかったが、五十年前、この境内で、お前に金魚をすくってやったあの日から、ずっと、お前が世界で一番きれいだと思っとる。来年こそ、二人で、盆踊りの輪の真ん中で踊ろう。約束だ』


 村の年寄りに聞いてまわると、すぐにわかった。この春に亡くなった、金魚じいさん――と子どもたちに呼ばれていた、寡黙な老人のことだった。彼は、毎年の祭りで、金魚すくいの屋台を、ひとりで五十年、続けてきた。妻の花江さんは、いま、村の外れの家で、ひとりで暮らしている。


 届け先は、宛名のとおり、花江さん本人。けれど、蒼が、川の底を見つめて、静かに言った。


「この手紙、書いたのは、じいさんが死ぬ、三日前だ。出せなかったんじゃない。出す前に、逝った」


 私は、迷った。もう夫はいない。いまさら、こんな手紙を渡して、花江さんを、悲しませるだけじゃないだろうか。でも、翁の言葉を思い出す。届けるかどうかは、受け取る者に決めさせること。押しつけては、いけない。けれど、選ぶ機会を、奪ってもいけない。


 花江さんの家を訪ねると、彼女は、祭りに行かず、ひとり、こたつで、古いアルバムを見ていた。私が手紙のことを話すと、花江さんは、しばらく、信じられない、という顔をした。それから、震える手で、便箋を受け取った。


 下手くそな金魚の絵を見た瞬間、花江さんの顔が、くしゃりと崩れた。


「この人……最後まで、金魚しか、描けんかったのねえ」


 笑いながら、泣いていた。花江さんは、こたつの上に、そっと便箋を広げて、何度も、指先で、金魚の絵をなぞった。まるで、夫の手を、握り直すみたいに。


 花江さんは、五十年前の話を、ぽつぽつと、してくれた。無口な夫が、ただ一度だけ、饒舌になったのが、あの祭りの夜だったこと。金魚をすくってくれた手が、震えていたこと。盆踊りに誘われたけれど、恥ずかしくて、逃げてしまったこと。「一度も、二人で、踊らんかったのよ。五十年、いっぺんも」花江さんは、便箋を、胸に当てた。「毎年、あの人、金魚すくいの屋台に、立っとった。わたしが、通りかかるのを、待っとったんやと思う。でも、わたしも、恥ずかしくてねえ。金魚を、ひとつ、もらって、それだけで、逃げるように、帰ってしもうて」


 五十年。すれ違いというには、あまりに長い時間だった。言えなかった「好き」が、毎年、金魚すくいの水そうの中で、ぱしゃぱしゃと、跳ねていたのだ。二人とも、それを知っていて、それでも、口にできないまま、歳をとった。


「もっと早う、言うてくれたら、よかったのに」花江さんは、便箋に、頬をすり寄せた。「わたしかて、ずっと……ずっと、好きやったのに」


 私は、思いきって、言った。「花江さん。今夜、境内で、盆踊りがあります。……行ってみませんか? この手紙を、持って」


 花江さんは、長いあいだ、迷っていた。それから、そっと、うなずいた。


 その夜、私と灯は、花江さんに付き添って、境内へ向かった。やぐらの上で、村に一台きりの太鼓が、とん、とん、と鳴っている。踊りの輪は、たった七、八人の、お年寄りばかりだった。花江さんは、その輪の、ちょうど真ん中に立った。手紙を、胸に抱いて。


 そして、ひとりで、踊りはじめた。おぼつかない手つきで、けれど、たしかに。五十年越しの、たった二人の盆踊り。夫の手紙を、抱きしめながら。


 はじめは、たった一人だった。けれど、太鼓を叩いていたおじいさんが、事情を察したのか、ばちを置いて、そっと輪に加わった。次に、焼きそばの屋台のおばさんが、エプロンのまま。金魚すくいの水そうの番をしていた子どもが、親に手を引かれて。ひとり、またひとり。いつのまにか、村じゅうの人たちが、その小さな輪に、加わっていた。


 誰も、事情を聞かなかった。ただ、花江さんの隣で、静かに、手を上げて、足を運んだ。言葉はいらなかった。この村の人たちは、みんな、金魚じいさんを知っていた。そして、たぶん、口には出さないだけで、二人の五十年を、ずっと、見守ってきたのだ。太鼓の音が、山にこだました。提灯の灯りが、ゆらゆらと、踊る人々の影を、地面に長く伸ばした。


 灯が、私の袖を、ぎゅっと握っていた。「なぎ姉」灯の声が、震えていた。「あたし、こういうの、しょぼいって、思ってた。田舎の、じじばばの、意味わかんない行事だって。でも……なんか、すごい、きれいだね! 都会には、こういうの、ないよね、きっと」


 私は、うなずいた。都会の、きらびやかなイルミネーションよりも、この、たった一台の太鼓と、数えるほどの提灯のほうが、ずっと、あたたかく見えた。ここには、名前と、顔と、五十年の物語が、あるからだ。誰かの人生を、みんなが、少しずつ、覚えている。それが、この小さな村の、いちばんの宝物なのかもしれなかった。


 提灯の灯りの中で、花江さんが、空を見上げて、なにか、口を動かした。声には、ならなかった。でも、私には、わかった。約束、守ったよ。そう、言っていた。


 川のほうで、蒼が、めずらしく、じっと、その光景を見ていた。「……届いたな」蒼が、ぽつりと言った。「じいさんが、笑ってる。輪の、外で。ちゃんと、見てる」


 私には、蒼の見ているものは、見えなかった。でも、見えなくても、そこに、いるのだ。届かなかったはずの想いが、今夜、たしかに、この境内に、還ってきていた。金魚じいさんの、五十年分の「好き」が、太鼓の音にのって、山いっぱいに、響いていた。もう二度と会えない人が、それでも、こうして、祭りの夜には、帰ってこられる。手紙が、その道しるべになる。そう思うと、私は、この不思議な役目のことを、少しだけ、好きになれそうな気がした。


 踊りが終わると、花江さんは、境内の隅で、しばらく、夜空を見上げていた。私と灯は、少し離れたところから、そっと見守った。花江さんの唇が、なにか、動いていた。「来年も、来てくれる?」とか、そんなことを、話しているみたいだった。返事は、聞こえない。でも、花江さんの表情は、五十年ぶんの重荷を、ぜんぶ、下ろしたみたいに、おだやかだった。


 祭りの帰り道、花江さんは、私の手を、両手で包んで、言った。しわだらけの、あたたかい手だった。「あんた、ええ配達人さんやねえ。おばあちゃんの、跡継ぎさん。あの人も、きっと、喜んどるよ。凪ちゃんが、帰ってきてくれて」


 跡継ぎ、という言葉に、私は、うまく返事ができなかった。まだ、私は、自分を、配達人だと、名乗る勇気が、なかった。一通、また一通と、届けてはいる。でも、心のどこかで、まだ思っていた。私なんかが、そんな大層な役目を、続けられるはずがない。どうせ、また、途中で、投げ出すに決まっている、と。自分にだけは、いつも、そう言い聞かせてしまう。


 でも、花江さんの手のぬくもりは、その夜、ずっと、私の手のひらに、残っていた。まるで、あの、川底の手紙のように。


 ——次の朝、ポストの底で、都会のにおいのする、真新しい封筒が、一通、場違いに光っていた。差出人は――私の、知っている名前だった。

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