第4話 かけっこ、ビリでもいい
その手紙は、封筒がふやけて、字がほとんど溶けかけていた。
ゆうべの増水はひどくて、川はまだ濁り、ごうごうと音を立てていた。灯が学校をさぼって――本人は「今日は自習の日だし」と言い張っていたけれど、時間割を見せろと言ったら黙った――手伝いに来ていた。二人でポストの底から引き上げた封筒は、ずっしりと水を含んで、まるで誰かの重い気持ちを、そのまま抱いているみたいだった。
かろうじて読めた宛名は、「たくみへ」。
「開けるの、こわ……」灯がつばを飲む。「なぎ姉が開けてよ」
便箋を、破らないように、そっと開く。にじんだ字を、灯と二人で額を寄せて、一文字ずつ追った。
『たくみ。父さんは来月には帰る。運動会、見に行けなくて、ごめんな。でも、父さんはいつも、たくみのことを一番に応援してる。かけっこ、ビリでもいい。最後まで走れる子は、父さんの自慢だ』
単身赴任の父親から、息子への手紙だった。差出人の欄には、もう名前は残っていない。けれど、日付だけが、奇跡みたいに読めた。十八年前の、秋。
「運動会に、間に合わなかったんだ」灯が、ぽつりと言った。「この手紙。走るとこ、見に来るって書いてあるのに」
私は村の役場で、古い記録を調べた。十八年前、この川の氾濫で、村を出て働いていた男の人が一人、増水した現場を渡ろうとして、事故で亡くなっていた。手紙は投函されないまま、川に呑まれたのだろう。「たくみ」という息子は、母親に連れられて、その後まもなく、村を出ていた。今はもう、村に、その一家の家すら残っていない。
届け先の子どもは、もう、子どもではない。三十近い、大人になっているはずだった。
「探すの?」灯が聞いた。おそるおそる、という声で。「その、たくみさん。もう、大人でしょ。今さら、こんな手紙もらっても、困るんじゃ……」
「うん。困るかもしれない」私は、うなずいた。「でも、届けるかどうかは、たくみさんに決めてもらう。私が勝手に、いらないって決めるのは、違うと思うから。宛先は、変わっただけ。消えたわけじゃないから」
蒼が、川の中から、じっと私を見ていた。何も言わなかったけれど、その目は、少しだけ、認めるような色をしていた気がした。
その手紙を、私は数日、家に置いていた。囲炉裏のそばに置くと、あの恋文と同じように、ふやけた便箋は乾かず、宛名の「たくみへ」の字が、夜になるとほのかに光った。まるで、脈打つみたいに。灯は、それを見て「手紙が、生きてるみたい」と、こわがりながらも、目を離せずにいた。想いがこもった手紙は、こうして、届け先が見つかるまで、川の底で、あるいはこのポストのそばで、ずっと、待ち続けているのだ。何十年でも。差出人が、それを託した瞬間の熱を、いっときも冷まさずに。
私は、その熱を、指先で感じるたびに、思った。私の言えなかった言葉たちは、いったい、どこへ流れていったのだろう。祖母に、最後まで言えなかった、ただいま。会社で、うまく言えなかった、助けてほしい。あの言葉たちも、どこかの川の底で、まだ、届く日を待っているのだろうか。
巧さんは、探すのに、三日かかった。役場の記録と、古い卒業アルバムと、元郵便局員の老人の記憶を頼りに、ようやく、隣の県で、小学校の先生をしている人に行き着いた。連絡を取って、事情を説明するのは、ひどく勇気がいった。電話口の向こうで、彼は長いこと、黙っていた。「父の記憶は、ほとんどないんです」と、彼は静かに言った。「顔も、声も。写真が、数枚あるだけで」
手紙を渡した日、巧さんは、わざわざ休みを取って、この村まで来てくれた。川のそばに立って、ふやけた便箋を、何度も、何度も、読み返した。大きな手が、少し震えていた。
「……ビリでもいい、って」彼は、笑おうとして、失敗した。「おれ、かけっこ、ずっと苦手で。運動会のたびに、父さんがいないことを、言い訳にしてたんです。どうせ見に来る人もいないし、って。応援されてないって、ずっと、思ってた」
彼は、便箋を、そっと胸ポケットにしまった。
「でも、ちゃんと、応援されてたんだな。ビリでも、いいって。……最後まで走れる子は、自慢だって」
巧さんは、いま自分が受け持っている、足の遅い生徒の顔が浮かんだ、と言った。運動会で、いつも最下位で、途中で走るのをやめてしまう子。あの子に、同じ言葉をかけてやろう、と。ビリでもいい。最後まで走れたら、それだけで、先生の自慢だぞ、と。
届かなかった手紙は、十八年をこえて、父から子へ。そして、その子から、また別の子どもへと、届こうとしていた。想いは、川の水みたいに、途切れずに、どこか下流へと流れていく。誰かの手のひらを、次々に、あたためながら。
巧さんは、帰りぎわ、私に深く頭を下げた。「ずっと、父に応援されなかった人生だと思って、生きてきました。でも、そうじゃなかった。たった一枚の紙が、それを、ぜんぶ、ひっくり返すんですね」彼は、目もとを指で押さえた。「三十年近く、かかりましたけど。……間に合って、よかった」
間に合う、という言葉が、私の胸に、静かに刺さった。届かなかった手紙は、いつまでも、待っていてくれる。でも、それを受け取る人の時間は、待ってくれない。だから、私が拾わなければ、この想いは、たくみさんが年老いて、あるいは亡くなって、本当に、永遠に届かなくなっていたかもしれない。私の、この頼りない役目には、たしかに、意味があるのだ。そう思うと、逃げてきたこの村での日々が、はじめて、少しだけ、誇らしく感じられた。
「なぎ姉、すごいじゃん!」灯が、めずらしく、まっすぐに私を褒めた。「ちゃんと、届けたね」
「灯が、手伝ってくれたから」
「まあね」灯は、得意げに鼻をこすった。それから、少しだけ、真面目な顔になった。「あたしも、いつか、ちゃんと、届けられる人に、なれるかな」
巧さんを見送ったあと、灯は、川べりの石に座って、ずっと膝を抱えていた。
「なぎ姉」灯が、川の向こうを見たまま、言った。「あたしのお母さんも……あたしのこと、応援してるのかな。ぜんぜん、言われたこと、ないけど。進路の話しても、勝手にしなさい、しか言わないし」
私は、うまい返事が、できなかった。灯の横顔が、いつもより、ずっと幼く見えた。
「聞いて、みたら?」
「無理だし」灯は、口をとがらせた。「うちのお母さん、そういうの、言うタイプじゃないもん。照れくさいとか、ないのかな。……あたしは、言ってほしいのに」
最後のひとことは、川の音に、半分かき消された。私は、聞こえなかったふりをして、灯の隣に、そっと座った。二人で、しばらく、濁った川が澄んでいくのを、黙って見ていた。
「ねえ、なぎ姉」やがて、灯が言った。「手紙って、さ。書いても渡せないこと、いっぱいあるじゃん。恥ずかしいとか、タイミングとか、けんかしてるとか。そういうの、全部、この川の底に、たまってるのかな」
「たまってる、と思う」私は、川面を見た。「たぶん、この村の人が、何百年も、言えなかった言葉が、ぜんぶ」
「うわ、こわ! ……でも」灯は、膝を抱えたまま、少しだけ笑った。「なんか、ちょっと、いいかも。言えなかった言葉が、消えないで、どっかで、ちゃんと待っててくれるって。いつか、届く日を」
私は、うなずいた。灯の言うとおりだ、と思った。届かなかったことは、なくなったことじゃない。それが、このまじないの、いちばんやさしいところなのかもしれない。夕日が、川の水を、赤くも金色にも染めて、二人の影を、長く長く、下流のほうへ伸ばしていた。まるで、私たちの影も、どこかへ届こうとしているみたいに。
その夜、蒼が、めずらしく、自分から口を開いた。「あの手紙の男。川を渡ろうとして、流された。……助けてやれなかった」川の水面を見つめる横顔が、ひどく静かだった。「おれは、この川に流れた想いを、聞くことはできる。声も、届く。でも、体は、助けられない。ただ、見てるだけだ。いつも」
私は、そのとき、蒼が、ずっと何かを悔いているのだと、気づいた。この川で失われた、たくさんの命と、想いを。無愛想な仮面の奥に、この精霊は、何百年ぶんの「助けられなかった」を、ひとりで抱えているのかもしれなかった。だから、手紙にだけは、逆らえないのだ。届けることでしか、償えないものが、あるのだろう。
「じゃあ」私は、なるべく軽く聞こえるように言った。「体のほうは、私がやる。あなたは、声を聞いて。二人なら、少しは、届けられるよ」
蒼は、答えなかった。でも、川の水が、ほんの少し、あたたかくなった気がした。
——数日後、雨も降っていないのに、ポストの底で、祭り囃子の音が染みこんだような、古い一通が、ゆらりと浮かんだ。村の秋祭りが、もうすぐだった。




