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第3話 よろずやの木札

赤い封筒には、子どもの字で「よろずやのおばちゃんへ」と書いてあった。


 村の外れに、もう閉まった駄菓子屋がある。「よろずや」。私が子どものころにも、すでにおばあさんがひとりで店番をしていた。ラムネと、当たり付きのくじと、夏にはかき氷。ガラス戸の向こうの、少し埃っぽい甘い匂いを、いまでも思い出せる。十円玉を握りしめて、どれにしようかと、何十分も棚の前で悩んだ夏。おばちゃんは、決してせかさなかった。ときどき、「これ、おまけ」と、賞味期限の近いガムを、そっとひとつ、握らせてくれた。けれど今は、ガラス戸は割れて、板が打ちつけられ、軒下には蜘蛛の巣が張っていた。時間だけが、そこに、埃みたいに積もっていた。


 封筒を持てあましながらその前に立っていると、店の横から、制服姿の女の子が現れた。高校生だ。自転車を押している。私を見て、露骨に眉をひそめた。


「なにしてんの、そこで。空き家に用でもあんの?」


「えっと……ここの、駄菓子屋さんに、用があって」


「潰れてるじゃん。三年前に、おばちゃん死んだし」


 女の子は、灯といった。この村にひとりだけの、現役の高校生。毎朝、村を出るバスに乗って、隣町の高校まで一時間かけて通っているらしい。バス停で時刻表をにらんでいる姿を、私は昨日も見かけていた。まるで、この村から一秒でも早く出ていきたい、という顔で。


 私が事情を――川底から浮かぶ手紙のことを話すと、灯は最初「は? やば。宗教? 情報商材?」と、あからさまに引いた。でも、私が差し出した封筒の宛名を見た瞬間、その減らず口が、ぴたりと止まった。


「……これ」灯の声が、急にしぼんだ。「あたしの、字だ」


 小学一年生のとき、灯がよろずやのおばちゃんに書いた手紙だった。書いたのに、恥ずかしくて渡せなくて、川に流してしまったのだと、灯は前髪で顔を隠すようにして、小さな声で言った。


『おばちゃんへ。いつもおまけしてくれてありがとう。おおきくなったら、おばちゃんのおみせをつぐね』


 継ぐね、と書いてある。ひらがなの、たどたどしい字で。灯は自分の書いた文字を見て、耳まで真っ赤になった。


「意味わかんない。子どもって、ばかじゃん。こんな村、継ぐわけないし。あたしは絶対、出てくんだから! 都会の、大学、行って。もう、こんなとこ、戻ってこない」


 早口だった。まるで、自分に言い聞かせるみたいに。でも、封筒を握る手は、離れなかった。


 届け先は、宛名の外にもある。おばちゃんは、もういない。じゃあ、この「ありがとう」は、いま、誰に届けばいいのだろう。私は、翁の言葉を思い出していた。届けるかどうかは、受け取る者に決めさせること。まず、この想いが本当は誰に向かうものなのか、調べなくてはならない。


「なあ」蒼が、井戸のふちから、めずらしく口を出した。「その婆さんの店、誰が片づけた?」


 いい質問だ、と思った。私はよろずやの登記を役場で調べ、おばちゃんの遠い親戚が、隣町で小さな菓子問屋を営んでいることを突き止めた。訪ねると、初老の男の人が、灯の手紙を読んで、しわの寄った目を、さらに細めた。


「叔母は、店を継ぐ者がおらんのを、最後まで気にしとってなあ」男の人は、奥の棚から、何かを持ってきた。「この子に、これ、渡してもらえるか。叔母が、いつか村の子にやってくれ、と言い残したもんだ」


 それは、よろずやの、色あせた「営業中」の木札だった。裏返すと「またきてね」と手書きされている。おばちゃんが毎朝、店を開けるときにひっくり返していた札。何万回も、小さな手が伸びてきた、あの札。


 帰り道、菓子問屋の男の人が、ぽつりと言っていたことを思い出す。「叔母はな、店が儲かってたわけじゃない。むしろ、赤字だったろう。それでも、店を開け続けたのは、あの村に、子どもの居場所を、ひとつ残しておきたかったんだと思う。学校が終わって、家に帰っても、誰もおらん。そういう子が、ここには多かったからな」


 灯も、そうだったのかもしれない、と私は思った。共働きの両親。帰っても、誰もいない家。よろずやの、少し埃っぽい甘い匂いの中でだけ、灯は、ひとりじゃなかったのかもしれない。だから、あの子は、渡せなかった手紙に「おみせをつぐね」と書いた。あの場所を、なくしたくなかったのだ。きっと、自分でも気づかないうちに。


 村に戻って、灯にそれを渡した。灯はしばらく、その札をにらんでいた。それから、洟を、ずずっとすすった。


「……別に。あたし、継ぐとか、言ってないし」


「うん」


「これ、もらっても、意味ないし。店、もうないし」


「うん」


 私は、それ以上、何も言わなかった。押しつけては、いけない。灯は、木札をエプロンみたいに胸に押し当てて、しばらく黙って、それから、ぶっきらぼうに言った。


「なぎ姉。あたし、手伝う。その、手紙のやつ。放っとくと……なんか、気持ち悪いから。それだけ」


 なぎ姉、と呼ばれたのは、たぶん人生で初めてだった。私は、うれしいのを顔に出さないように気をつけながら、うん、助かる、とだけ答えた。灯は「べつに」と言って、自転車のスタンドを、必要以上に強く蹴り上げた。


 その夜、翁が言った。「あの娘は、まだ、自分の手紙を、川に流したままにしておる」


「灯の?」


「渡せなかった手紙は、渡すことよりも、書いたという事実のほうが、大事なときもある。あの娘は、あのとき、たしかに、この村を好きだと思うた。継ぎたいと思うた。それは、都会に出ることと、矛盾せぬ。……人は、ふたつの本当を、同時に抱えられるものじゃ。凪、おまえも、そうじゃろう」


 私も、そうだった。都会に、いたかった。ちゃんと、働きたかった。でも、うまくいかなくて、逃げ帰ってきた。この村を、嫌っているわけじゃない。ただ、うまくやれない自分が、嫌だっただけだ。翁の言葉は、灯のことを言っているようで、私のことも、そっと撫でていくようだった。


 その帰り道、灯は、ぽつぽつと自分のことを話した。母親は、隣町の工場で夜勤をしていること。父親は、灯が小さいころに家を出ていったこと。だから、都会に出て、ちゃんとした会社に入って、母を楽にさせたいこと。「でも、それって、この村が嫌いってことじゃ、ないんだよね」灯は、自分の言葉を確かめるみたいに、そう言った。「ただ、ここにいると、なんも、変わらない気がして。焦る、っていうか」


 わかる、と私は思った。その焦りも、その罪悪感も。出ていきたいのに、出ていくことが、どこか裏切りみたいに感じてしまう。私は、少しだけ違う形で、同じ道を通ってきた。だから、灯には、どちらも肯定してあげたかった。出ていくことも、残ることも、両方、正しいのだと。


 こうして、私の助手が、ひとり増えた。川のほうで、蒼が、ぱしゃりと水を蹴る音がした。呆れているのか、笑っているのか、私にはまだ、わからなかった。


「今どきの子は、素直じゃないな」蒼が、ぽつりと言う。


「あなたに、言われたくないと思うよ」


 蒼は、むっとした顔をして、川の底へ沈んでいった。灯が「なにあれ、生意気な水」と言うので、私は思わず吹き出してしまった。夕暮れの川べりに、久しぶりに、笑い声が転がった。


 翌日から、灯は、本当に毎日、来るようになった。学校が終わると、自転車を飛ばして、まっすぐ川へ。ポストの底をのぞき込んでは、「今日は、なんもないね」と、少しがっかりした顔をする。手紙が浮くのは、たいてい雨あがりだけなのに。それでも灯は、毎日、確かめずにはいられないようだった。


 私は、その様子を見ながら、思った。この子は、手伝いに来ているようで、本当は、居場所を探しに来ているのかもしれない、と。帰っても誰もいない家より、この、少し変な水の精と、頼りない配達人のいる川べりのほうが、灯にとっては、あたたかいのかもしれない。よろずやが、そうだったように。


 私は、灯のために麦茶を用意するようになった。昔、祖母が、私にしてくれたみたいに。何も聞かず、ただ、隣に、ひとつ。灯は「なにこれ、ぬるいし」と文句を言いながら、いつも、飲み干していった。


 その夜、灯は「明日も来る」と言って帰っていった。あの木札を、大事そうに、カバンにしまって。


 ——明け方、雨。ポストの底で、封も宛名もにじんだ、ずっしりと重い一通が、ことりと沈んだ。それは、これまでのどの手紙より、深いところから浮いてきたようだった。

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