第1話 川底からの手紙
バスを降りたら、雨のにおいがした。
揖斐川の上流、名前を言っても誰も知らないような山あいの村に、私は八年ぶりに帰ってきた。二十歳になって、就職につまずいて、逃げるように。都会で買った履きなれないパンプスは、砂利道の水たまりであっけなく汚れた。かかとに小石が食い込むたび、あなたはここにいるべき人じゃない、と地面から言われているような気がした。
最終バスは、私ひとりを降ろすと、排気ガスの白いにおいを残して山を下っていった。停留所の時刻表は、日に焼けて数字が読めない。上りの本数は、一日に三本しかない。それすら、来年には二本に減るのだと、運転手さんが世間話のように言っていた。
「……ただいま、っていう相手も、もういないんだけどな」
声に出してみて、思ったより情けない音がしたので、口をつぐんだ。山の稜線に雲が低く垂れて、川の音だけが、やけに近い。空気が、都会より一段冷たくて、湿っている。深く吸い込むと、胸の奥のほうまで、水のにおいが染みてくる気がした。
祖母が亡くなって、空き家になった家を片づけてほしい。母からの連絡は、それだけだった。片づけて、売って、それで終わり。私にちょうどいい仕事だと思った。誰にも会わずに済むし、失敗のしようもない。もう、うまくやろうと気を張らなくていい場所。就職して三ヶ月で辞めた私に、母は「あんたはいつもそう」と言った。その続きは、聞かなくても知っていた。中途半端。逃げ癖。だから、この村なら、逃げてもいい。もともと、誰の期待もないのだから。
祖母の家は、川のすぐそばにあった。板塀は苔むして、庭の草は膝の高さまで伸びている。軒先に、赤い郵便ポストが立っていた。丸くて古い、私の背より少し低い、脚のあるポスト。塗装はところどころ剥げて、下から錆びた鉄の色がのぞいている。子どものころ、祖母がここに手紙を入れると、次の日には返事が来るのだと、私は本気で信じていた。差出人の名前のない、返事が。
鍵を開けて、家に上がる。畳の匂い。仏壇の埃。柱時計は、三時十七分で止まっていた。時間がそこで凍りついたみたいに、コップがひとつ、流しに伏せて置いてある。祖母が最後に使ったものかもしれない、と思うと、うかつに触れなくなった。
子どものころ、夏になるとこの家に預けられた。母は仕事で忙しく、私は「邪魔にならない子」でいることに、早くから慣れていた。祖母だけは、私が縁側でぼんやりしていても、なにも言わなかった。ただ、麦茶をひとつ、私の隣に置いてくれた。あの赤いポストに手紙を入れると返事が来る、と教えてくれたのも、祖母だった。宛名のところに「あした天気になあれ」と書いて入れたら、次の日、本当に晴れた。今思えば、祖母がこっそり、私の願いを叶えていたのだろう。届かないはずの願いを、届く形にして返してくれる人。そういう人だった。
そして、居間の机の上に、一通の封筒が置いてあった。
宛名は、私の名前だった。祖母の字で。少し震えた、けれど一画ずつ、丁寧に書かれた字で。
「うそ……いつ書いたの、これ?」
母は、祖母が最後まで頭ははっきりしていた、と言っていた。ただ、足が悪くて、川のそばの家にひとりで置いておけないから、施設に移す話が出ていたところだった、と。結局、その前に、祖母は逝ってしまった。
封を切ると、便箋は一枚きり。短い文だった。
『凪へ。川の底から手紙が浮いてきたら、拾ってあげてね。届け先は、宛名の外にもあるものだから。ばあちゃんより』
意味が、わからなかった。川の底から手紙。宛名の外。認知症の始まりだったのかもしれない、と一瞬思って、そんなふうに考えた自分が少し嫌になった。祖母は最後まで、私に会いたいと言っていたらしい。私は、忙しさを言い訳にして、帰らなかった。会いに行くたびに、就職はどうなった、と聞かれるのが、こわかった。今なら、わかる。祖母はきっと、就職の話なんて、どうでもよかったのだ。ただ、私の顔が見たかっただけで。
仏壇に、遅すぎる線香をあげた。煙が、まっすぐ立ちのぼって、途中でふっと横に流れた。まるで、こっちだよ、と誰かに手招きされたみたいに、それは川のほうを向いていた。
その夜、雨が本降りになった。
眠れなくて縁側に出ると、増水した川の水面が、街灯もないのに、ぼうっと白く光っていた。近づいて、息を呑む。川の底から、白いものが一枚、ゆっくりと浮かび上がってくる。木の葉が水面に返るような、ためらいがちな速さで。
手紙だった。水に濡れているのに、字がにじんでいない。むしろ、水の中でこそ、くっきりと文字が見えた。
拾い上げようと手を伸ばした瞬間、水の中から声がした。
「触るな! 濡れるぞ」
振り返ると、川の中に、素足の少年が立っていた。膝まで水に浸かっているのに、少しも寒そうにしていない。髪の色が、水面みたいに、青からうすい銀へと絶えず移ろっている。歳のわからない顔で、迷惑そうに私を見ていた。
「だ、誰……?」
少年は答えず、川の底のほうへ目をやった。その視線を追うと、浮かびかけた手紙の下に、さらに何枚もの白い影が、水底に横たわっているのが見えた。何十通、いや、もっと。届かないまま川の底に沈んだ、たくさんの言葉たち。それは墓標のようにも、まだ息をしている生き物のようにも見えた。
「こっちの台詞だ」少年は面倒くさそうに水をかき分ける。飛沫が、なぜか私のところまで届かない。「その手紙は、差出人がもういない。宛先も、とっくに変わってる。届かなかった願いだ。放っておけ。拾ったら、厄介ごとを背負うだけだぞ。一通拾えば、次が浮く。次を拾えば、また次だ。きりがない」
「……それでも、ばあちゃんは、拾ってたんでしょう」
あてずっぽうだった。でも、少年の肩が、かすかに揺れた。図星だったのだと、そのときわかった。
「届か、なかった……」
祖母の便箋の一行が、頭の中でまた白く光った。届け先は、宛名の外にもある。
私は、濡れるのもかまわず、その手紙を拾い上げた。冷たいはずの川の水が、なぜか手のひらだけ、じんわりとあたたかい。まるで、拾われるのを待っていた誰かの手を、握り返したみたいだった。指先から、その手紙を書いた人の気持ちが、水を伝って流れ込んでくる気がした。会いたい。ただ、それだけの、まっすぐな熱。理由も、事情も、時代も飛び越えて、伝わってくるのは、いつだって、そういうシンプルなものなのだと、このときの私は、まだ知らなかった。少年が、はじめて少し目を見開いた。
「……あんた、それ、感じるのか」
「え?」
「なんでもない」少年はすぐに、いつもの面倒そうな顔に戻った。けれど、その一瞬の驚きは、たしかに本物だった。
封筒の宛名には、この村の古い家の名前と、「あきちゃんへ」とだけ書かれていた。差出人の欄は、雨に流れたのか、空っぽだった。
その家の名前には、覚えがあった。子どものころ、祖母に連れられて、川向こうの古い家に何度か行ったことがある。縁側で柿を剥いてくれた、しわしわの手のおばあさん。祖母は彼女のことを「あきちゃん」と呼んでいた。八十を過ぎた人を「ちゃん」付けで呼ぶのが、子ども心におかしかったのを、いま急に思い出した。
「……この『あきちゃん』が誰か、私、知ってるかもしれない」
少年は長いあいだ黙って、それから、ため息みたいに言った。
「面倒なやつだな、あんたも。ばあさんと、そっくりだ」
彼が、祖母を知っている口ぶりだったことに、そのとき私は、まだ気づいていなかった。
濡れた封筒を胸に抱えて、私は決めた。逃げてきたこの村で、たったひとつくらい、届けてみようと。うまくやれなくても、途中で放り出しても、ここでなら、誰にも咎められない。それでも、この一通だけは。誰かの「届かなかった」を、私が「まだ届く」に変えてあげたい。就職も、人間関係も、何ひとつまともに届けられなかった私が、それでも。
家に戻って、濡れた封筒を、囲炉裏の火のそばにそっと置いた。不思議なことに、火に近づけても、便箋は乾かなかった。かわりに、宛名の「あきちゃんへ」の文字だけが、ほんのりと、蛍のように光っていた。まるで、早く届けてくれ、と急かすみたいに。
少年は、私が家に戻るまで、川の中からじっとこちらを見ていた。何か言いたそうで、けれど結局、何も言わなかった。彼が最後に、ほとんど聞こえない声で「……勝手にしろ」と呟いたのを、私はたしかに聞いた気がした。
——次の朝、雨あがりの光の中で、赤いポストの底が、かさりと鳴った。二枚目の手紙が、もう、私を待っていた。




