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第9話 夜勤明けの母

灯の手紙は、まだ、私の手元にあった。「まだ、渡さないで」と、あの子は言った。だから私は、囲炉裏の傍の文箱に、その手紙をしまって、毎日、蓋の上を、そっと撫でるだけにしていた。手紙の熱は、日ごとに冷めるどころか、じわじわと、強くなっている気がした。言えない想いは、しまい込むほど、熱を持つのかもしれない。


 その週の夜、川底から、もう一通、手紙が浮いた。


 月明かりの下で、蒼が、濡れた封筒を、私に差し出した。ずいぶん、古い封筒だった。角が擦り切れて、便箋は日に焼けている。宛名は「灯へ」。差出人の名前は、ない。けれど、その几帳面な、少し右肩上がりの字を見た瞬間、私には、わかってしまった。


「……灯ちゃんの、お母さんだ」


「ああ」蒼は、川面を見つめたまま、うなずいた。「娘のと、同じ熱だ。親子ってのは、想いのしまい方まで、似るんだな」


 便箋には、こう書かれていた。


『灯へ。あなたが眠ってから、この手紙を書いています。今日、あなたは、父さんはいつ帰ってくるのと、聞きましたね。お母さんは、うまく答えられませんでした。ごめんなさい。灯。お母さんは、器用な母親には、なれそうにありません。仕事ばかりで、参観日にも、行ってあげられない。でも、これだけは、覚えていてください。あなたのやりたいことを、あなたが見つけたとき、お母さんは、何があっても、味方です。世界中の誰が反対しても、お母さんだけは、あなたの味方です。いつか、ちゃんと、言葉で言える母親になります。それまで、この手紙は、しまっておきます』


 日付は、十年前。灯が、小学一年生のころだった。あの子が「よろずや」への手紙を川に流したのと、同じ年。母と娘は、同じ年に、それぞれ、言えない想いを、手紙にしていたのだ。ひとつは川へ、ひとつは、たぶん、箪笥の奥へ。そして十年たって、二通とも、この川底に、たどり着いた。


「しまってあった手紙まで、浮かぶの?」


「川は、水の通り道を、ぜんぶ知ってる」蒼は、こともなげに言った。「屋根の雨も、台所の水も、涙も、最後はぜんぶ、ここへ来る。想いが強けりゃ、紙のほうが、水を伝って、追いかけてくることも、ある。……珍しいけどな」


 その夜、ポスト翁に相談すると、錆びた声が、ゆっくりと言った。


「配達人や。二つ目のルールを、忘れるでないぞ。届けるかどうかは、受け取る者に決めさせる。押しつけてはならん。……ただしな、書いた者のところへ、届ける気があるかどうかを、確かめに行くことは、誰も、禁じておらんよ」


 灯の母、澄子さんの夜勤明けは、朝の六時半だと、いつか灯から聞いたことがあった。隣町の部品工場から、始発のバスで帰ってくる。私は、翌朝、村のバス停で待った。十月の朝は川霧が出て、白い息が、吐くそばから、霧にまぎれて消えた。祖母が生きていたころ、私も、こうして誰かに、朝の道で待っていてもらったことが、あった気がした。


 始発のバスは、少し遅れてやってきた。乗っているのは、夜勤明けの人ばかりなのだろう。曇った窓の向こうに、うつむいて眠る影が、いくつか見えた。あの工場は、車の小さな部品を作っているのだと、灯が言っていた。おかあの手、油のにおいがするんだよね、と。そう言ったときの灯の顔が、笑っているのに、少し泣きそうだったことも、私は覚えている。


 バスから降りてきた澄子さんは、思っていたより、ずっと小柄な人だった。灯と同じ、意志の強そうな眉。けれど、その目の下には、濃い疲れの色が沈んでいた。私が頭を下げると、澄子さんは少し驚いて、それから、ていねいに、お辞儀を返してくれた。


「郵便屋さんとこの……凪さん。灯が、いつも、お世話になっとります。うちの子、家では、あなたの話ばっかりで」


 うちで、お茶でも。そう誘うと、澄子さんは、夜勤明けなのに、いやな顔ひとつせず、ついてきてくれた。囲炉裏の傍で、私は、熱いほうじ茶を淹れた。湯気の向こうで、澄子さんの手が見えた。あかぎれだらけの、節の目立つ手だった。その手が湯呑みを包んで、ほう、と小さく息をつく。灯に麦茶を出すとき、私はいつも祖母の真似をしているけれど、この人は十七年間、誰の真似もできないまま、たったひとりで、母親をやってきたのだ。


「灯ね、進路のこと、家では、なんにも言わんのです」澄子さんは、湯呑みの中を見つめて、ぽつりと言った。「でも、知っとるんですよ。あの子の机の引き出しに、東京の大学のパンフレットが入っとるの。掃除のとき、見てしもうて。……ほんとうは、声に出して、読み上げたいくらい、うれしかった。あの子に、行きたい場所が、できたんやって」


「……灯ちゃんに、聞かないんですか? 行きたいの、って」


「聞けんのです」澄子さんは、笑おうとして、失敗した。「聞いたら、あの子、お金の心配をして、行かんて言うに決まっとる。うちには父親もおらんし、蓄えも、たいしてない。それを、あの子は、ぜんぶわかっとる。……だからね、凪さん。私が先に、行っていいよて言うたら、あの子は、かえって言い出せんくなるんです。お母さんを一人にできんて、そういう子やから」


 澄子さんは、かばんの中から、小さな通帳を出して、そっと見せてくれた。表紙の名義は、灯の名前だった。


「夜勤を増やしたのは、このためなんです。あの子が生まれたときから、こつこつ。まだ、ぜんぜん足りんけど。……でもね、私が夜勤に行けば行くほど、あの子は、私に気を遣う。夜、家に一人にさせとるし。朝は、おにぎりと、書き置きだけ。ちゃんと食べや、って、そればっかり。何しとるんやろうね、私。応援しとるつもりが、遠ざけとるみたいで」


 澄子さんは、湯呑みを両手で包んだまま、幼い灯の話も、してくれた。夜勤に出る夜、灯は、眠ったふりをして、玄関の音を聞いていたこと。朝帰ると、書き置きの裏に、へたくそなお日さまの絵が、描き足してあったこと。「あの子、寂しいて、いっぺんも言わんかった。小さいころから、いっぺんも。……言わせんかったんは、私なんですけどね」


 それから澄子さんは、少しだけ黙って、寂しさのことも、口にした。


「ほんとうはね、行ってほしくない気持ちも、あるんです。あの子がおらんくなったら、私、なんのために働いとるんか、わからんくなる。……そんなん、親の勝手ですけど。子どもの足に縄をつけるような親には、なりたくない。なりたくないのに、寂しい。おかしいですよね。どっちも、ほんとうなんです」


 どっちも、ほんとう。私は、美咲のことを思い出していた。出ていくことも、留まることも、どちらも正しい。なら、行ってほしい気持ちと、行かないでほしい気持ちも、きっと、どちらも、ほんとうの愛情なのだ。この母娘は、似た者同士だから、不器用なのだ。相手を思うあまり、自分の想いをいちばん後ろに回して、しまい込む。箪笥の奥と、川の底に。


 私は、文箱から、あの古い封筒を出して、澄子さんの前に、静かに置いた。澄子さんの顔から、すっと血の気が引いた。


「これ……なんで!? 捨てられんくて、ずっと、箪笥の、いちばん奥に……」


「この村の川は、ときどき、不思議なことをするんです」私は、できるだけゆっくり、話した。「しまい込まれた想いを、届けたがるんです。……澄子さん。この手紙、十年前のあなたは、いつか渡すつもりで、書いたんじゃないですか」


 澄子さんは、長いあいだ、黙っていた。それから、あかぎれの指で、日に焼けた便箋を、そっとなぞった。灯が、金魚の絵をなぞった花江さんと、同じ手つきだった。


「……言える母親に、なるつもりやったんです。いつか、ちゃんと。そう思っとるうちに、十年なんて、あっという間で。気づいたら、言えんまま、あの子のほうが先に、大人になっていきよる」


「まだ、間に合います」私は言った。それから、少しだけ迷って、続けた。「それにね、澄子さん。灯ちゃんにも、あるんです。お母さんに書いて、渡せなかった手紙が」


 澄子さんが、顔を上げた。その目に、ゆっくりと涙がたまっていくのを、私は見ていた。夜勤明けの、疲れきった目だった。けれどその奥に、灯とそっくりの、まっすぐな光があった。


「あの子が……私に?」


「はい。十七年ぶんの、言えなかったこと、ぜんぶ」


 届けるかどうかは、受け取る者が決める。押しつけては、いけない。でも、この二人は、十年間、ずっと、届けたくてたまらなかったのだ。それなら、あとに必要なのは、場所と、ほんの少しの勇気だけだ。窓の外で川霧が晴れて、朝の光が、川面にまっすぐ差しはじめていた。


 ——私は、二通の手紙を手に、川べりに、あの母娘を呼ぶことにした。

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