01-10 嵐のお嬢 ー 幸運は勇者に味方する
「私がいくわ。マストに登る」
「え、お嬢が? やめろ」
船長が止めるが、かまわず、フォアマストの縄梯子にしがみつく。
「ぼ、ぼくはしらないからな。女神の嫉妬で船を壊される」
パロスは甲板の下層へと逃げてしまった。
|船檣支索<シュラウド>はマストを動かないように支える縦の索で、それを横に繋いだ索は|縄梯子<ラトリン>と呼ぶ。登るのは久しぶりだ。縄梯子を上がるのはコツがいる。風と波で揺れが激しく、ふり落とされそうになる。
船は上に行くほど揺れが激しい。甲板の3倍、いや5倍は上下左右にゆすられる。風に加えて雨もついてきた。
「さすがに怖いわね」
手が滑りそうになる。索にしがみつくように昇っていく。
足を掛けた縄が、ふいに大きく跳ねた。
「っ……!」
一瞬、体が宙に浮く。指に全体重がかかる。滑る。
落ちる――
歯を食いしばって、腕を引き寄せた。胸がマストにぶつかる。
「……っ、まだよ」
甲板がすごく小さく感じる。あれに落ちたら潰れて死ぬ。海に落ちたら助からない。パロスの尻込みがわかった。怖がらずにマストに上がれるのは職人。むち打ちのほうがマシだ。
思えば昔、何度もイオニアスに登らされたけど、いつも晴天だった。港中に停船した船だったし。彼なりに気遣っていたとわかった。
昇ったヤードでは歯の抜けた船乗りたちが、凶器となった荒ぶる帆と格闘していた。
「人が足りないのは? 私、どこにはいればいいわけ」
「お、お嬢? あ、左。あいだに入れ」
「左のあいだ。わかったわ」
ここの長らしい船乗りが、あごをむけた。私に感心してる、というより、呆れた表情だ。かまわず、索を伝って左側の間にはいった。
「ったく。たのもしい増援だな。おい」
いかにも頼もしくなさそうだ。苦笑いだし。
「おまえら、お嬢にいいとこみせるぜ! ひけぇ!」
「おおおお」
ゆっくりと、麻製のぶ厚い帆が畳まれていく。帆がしぼむにしたがって、分かりやすく横揺れが減る。嵐だから、揺れは大きいが、さっきよりずいぶんとマシになった。時間はかかったが、大人2人分ほどに小さく丸めて、ヤードに縛りつける。縮帆完了だ。
私も、奮起させたって意味で、役に立った。
「左舷に一点落せ……いや、右舷に切りなおせ。裏帆を打たせるな」
「ジブ、右舷緩め、左舷引け」
風と波は目まぐるしく変わる。眼下の甲板では船長が変化の兆候を読み解き、先んじて、指示を出す。舵と帆が忙しい。帆の索を緩めては延ばすため、左舷と右舷を人員が行き来する。
「マスト上! 島影はどうだ?」
島影。ドデカネス諸島はたくさんの小島と浅瀬でできている。ギリシャとオスマンは昔繋がってて、ぽっきり折ったら、残骸と粉が散らばった。例えば、そんなふうに島が点々とある。この悪天候に船は、どこにもぶつからず、すり抜ける必要がある。
「どうもこうも。なんも見えねぇ!」
海図があるし、島と島はそれぞれかなり離れてる。晴天なら浅瀬に乗り上げるほうが難しい。けども、こう、風に翻弄されてるいま、自由な航路がとれない。浅瀬も島も見つけにくい。船底をすこし掠っただけでも座礁して、沈没だ。停泊なんてもってのほか。
私は索に腕を絡ませて、手のひらの庇で雨粒を避ける。目には自信がある。身を乗り出し、雨霧に曇った彼方を見つめる。
雨が視界を削る。何度も瞬きをする。
なにもない。黒い海と灰色の空だけ――
いや。
わずかに、水平線の上に、色の違う影がある。
波とも雲とも違う、動かない輪郭。
――島だ。
見間違いだったら終わりだ。船路を誤らせる。
でも――あれは、ある。
私はもう一度、目を凝らした。
「島影発見! 二時の方向よ!」
私の叫びが嵐を切り裂いた。見間違いなら船を死地へ追いやる。けれど、波とも雲とも違うあの不動の輪郭は、間違いなく島だ。
キティラ島だといいな。ベネチアへはギリシャ南端をまわるのが近い。キティラ島は、南端のさらに南だ。
諸島を抜ければ、本気の地中海。そこは、オスマンの西がすっぽり収まるくらいの海原だ。島や浅瀬を気にしないで、のびのび船が進める。
クレタ島だとまずい。クレタ島は一番大きくて諸島の最南にある。その東を通るのは、かなり遠回りだ。
「副長……お嬢はああいってるが。信じていいのか」
「問題ない。あいつに、みっちり教え込んだのは俺だぜ。島影くらいはわかる」
イオニアスのイオニアスの野太い声がマストまで昇ってくる。
「その言葉を信じるぞ。進路変更! 左舷に切り直し。総舵手ゆっくり取り舵だ」
「ゆっくり取り舵。了解」
それから数時間。途中の八点鍾で8人が入れ替わりながら、一致協力。嵐を超えることができた。はじめにみえた島は、キティラ島じゃなく、もっと東の別の島。私は最後まで見張りを続けた。
諸島を抜けて風が安定したところで、見張り役を交代してもらう。がちがちにつかまってたからかた手が硬直し、縄から離れない。昇ってきたフィリッポスに助けてもらい、縄梯子で降りた。瞬間、視線が集まる。
一拍おいて――
ぱち、ぱち、と拍手が広がった。
それはすぐに大きくなって、船中に響いた。
「お嬢、すごいな!」
「副長の弟子だとよ。さすがだぜ!」
「あの鬼会長の孫だろ。角はねえようだがな。がっはっは」
ぺしぺし。背中や頭を叩かれながら、もみくちゃに歓迎された。
「みなさん。私は、及第点かしら?」
「文句なしだ勇気ある娘さん。アルゴー号へようこそ」
「だったら誰か、剣を教えてくれないかしら」
「剣……? 女が?」
船乗りたちは、申し合わせたかのように、一斉にイオニアスをふり向いた。副長は腕を組んで首降っていた。
「イオニアス……ちょっと、あなたたち」
「さぁて、仕事だ仕事」
「んだな……」
私を取り巻いていた連中は、航路の線図のように散っていった。
入れ替わるにうに、下層からパロスが引っ立てられた。羽交い絞めだ。副長の命令を無視したうえ、みんなが嵐に格闘してる最中に隠れていたのだ。船乗りは弱虫を嫌う。溜飲をさげる意味でも、罰は必須。
むち打ちは、格好のショーとなる。ちょっとかわいそうだ。
「ぼ、ぼくは悪くない……! あんな嵐で登るほうが狂ってる!」
ぐちゃぐちゃに顔を歪めて、私を指さした。
「私?」
「この女だ! こいつのせいで……! 魔女だ、魔女に違いない!」
言うにことかいて魔女あつかいされた。魔女なんて、噂がたっただけで、たちまち教会から審問官がやってくる。拷問という名の尋問を受け、魔女とみとめるまで止めない。仲間からの私刑で殺される女性もいる。
このこ、ちっともかわいそうじゃない。
「お嬢が魔女だと」
「そうです船長! まちがいない」
船員たちの目が私にあつまる。魔女は口から出まかせだ。だけど、芽生えた疑問は伝染するもの。あの黒死病みたいに。男しかいない船上で魔女の尋問。考えたくもない。
長い沈黙がおりた。
私は思わずあとずさりしていた。そんな私を見ていた船長は、パロスへと視線を移す。その肩を鉤腕をまわすと、うんざりした口調でこう言った。
「5回ですまそうと思ったのだが。変更する。8回だ」
「な、なんで」
「マストに昇るのは誰だって怖い。嵐となればなおさらだ。みんな、自らの恐怖心に負けまいとがんばって索を握ってるのだ。それが、臆病なバカの代わりに、昇った恩人を糾弾するとはな」
「男の風上にもおけないやつだな」
「俺が、てめぇの性根を叩きなおしてやる」
「わ、ワシにやらせろ。助けた女を晒すとは」
「いや、おいらが打つ。はらわた煮えかえってしょがねぇ」
誰が鞭を打つかで、「オレ」が「わし」がと、次々に名乗りをあげていく。
「僕がやろう。こいつの監督責任は僕にある」
そう申し出たのは航海士。こういう折檻は下っ端の役目なのだが、腹に据えかねたらしい。総員一致で彼にきまった。
「え、イーヴォさん。冗談ですよね。父さんも喜びませんよ」
「僕は親方として失格だ。お前の父親から男にしてくれと頼まれたんだが温かった。これからはもっと厳しくいく」
左右から抑え込まれて、シャツを脱がされるパロス。背中の、昨日打たれたばかりの背中の傷がまだ生々しい。
――また打たれるの。
思わず、視線を逸らしかけて――やめた。
「異教の言葉にこういうのがあるぞ」と航海長が言った。
「信仰において最も完成された信者とは、道徳心の最も優れた者である」
含蓄のある言葉だ。お爺様が知ったら、異教徒のくせにと悔しがって、もっとよい言葉を聖書で捜しそう。
「それって、どういう」
「航海士候補から外す。いまからお前は下っ端船のりだ。そこで道徳を学び、せめて半人前になれ。そのときは候補に戻すことを考えよう」
「い、いやだ。ぎゃ、ぎゃあああぁ…………」
航海士による、熱と愛情がたっぷりこもった鞭が放たれた。
一回。二回。三回。パロスは 四回目で、声が途切れた。
五回目の音だけが、空しく響いた。




