第1話:最下層の湿ったゴミ屋敷
アビス・ポートの最下層は、アビス・トレインチ第10層の最奥に存在していた。
無数の巨大なパイプが這い回り、重金属の混ざった油の臭いと粘つく湿気が立ち込めるそこは、いつしか『ジャンク街』と呼ばれていた。
危険と背中合わせの最前線にもかかわらず、一獲千金を狙う者たちが殺到し、我先にと店を構える。
そんな欲望と熱狂が渦巻くスラムの片隅に——後に世界の理をひっくり返す、三人の『不遇なる者たち』の姿があった。
「……ここが、我がクラン『不遇の三銃士』の記念すべき拠点、ですか?」
佐藤 蓮が指さした先にあるのは、今にも崩れ落ちそうな石造りの廃屋だった。
外壁にはどす黒い青カビがびっしりと生え、天井の亀裂からは冷たい結露がポタポタと絶え間なく落ちている。元は鉱石倉庫として使われ、打ち捨てられて久しいらしい。どこからどう見ても、ただの湿ったゴミ溜めだった。
「ふふ、破格のお値段で買い受けることができましたわ! 敷地だけはとても広いですから、わたくしの整備道具やドリルを並べるには最高ですの!」
マルカが自分の背丈ほどもある重い工具箱をドカンと湿った床に置き、嬉しそうに微笑む。ボサボサのショートヘアと作業用ゴーグルの隙間から、どこか気品漂う瞳が輝いていた。
「ちょっと二人とも、笑い事じゃないって!」
頭を抱えて叫んだのは、専属ゼネラルマネージャーに就任したエレナだ。
ビシッとしたタイトスカートの裾に泥が跳ねないよう気にしながら、手に持ったタブレットをバシバシ叩く。
「いくら最下層で地価がゼロ同然だからって、こんな湿度99%のカビだらけの廃屋じゃ、精密機材なんて数日でサビついてパーになる! 最低限の防湿・防音・防犯結界を張るだけで、Sランクの魔導士を雇って数百万円は吹き飛ぶの! 結界の維持費だけで破産しちゃう!」
「結界、ですか……」
蓮は困ったように首をかしげると、肩から下げた100円ショップのビニール製トートバッグをごそごそと探った。取り出したのは、ホームセンターや100均でよく見かける薄い折りたたみシートだ。
「これ、来る途中の日用品売り場で買った100円の『押入れ用・防カビ結界シート』なんですけど……とりあえず敷いてみましょうか」
「はぁ!? ちょっと蓮、本気で言ってるの!? 100円のペラペラなビニールシート1枚でこの巨大な廃屋のカビや湿気が消えたら、ギルドの建築部門も魔導結界師もみんな失業しちゃう――」
エレナのツッコミが最後まで完了するより早く、蓮はシートを湿った石畳の上にペタリと敷き、静かに固有技能を発動させた。
Plaintext
【固有技能:刺身にたんぽぽを乗せる】 (Garnish Overrule)
[対象]:100円の防カビ・防湿ビニールシート (完成品)
[概念]:Arca Noë (ノアの聖域 / 濁流と腐敗からの絶対遮断)
─── 概念付与完了 ───────────
『外なる濁水とカビ(腐敗)を拒絶し、内なる領域を聖なる乾燥にて充たせ』│
シュイィィィィィン……ッ!!
シートの表面から、透き通った青白い光の波紋が一気に放射状に広がった。
「な、なにこれ……!?」
劇的な変化は、ほんの一瞬だった。
壁一面を覆っていた嫌な青カビが一瞬にして真っ白な乾燥した粉となって蒸発し、ねっとりと肌にまとわりついていた湿気が嘘のように吹き飛んだ。不快な生臭さは消え去り、高級リゾートホテルのロビーのような、爽やかで温かい空気が空間を満たしていく。天井から落ちていた結露の滴も、頭上に展開された「透明な光の膜」にパチンと弾かれ、ピタリと止まった。
「まぁ……! 湿気がまったくありませんわ! 空気の質も完璧に調律されておりますの! わたくしの精密機械たちが喜びますわ……!」
マルカが感動のあまり頬を緩め、ピカピカに乾いた床を物珍しそうに見つめる。
「……あり得ない。高位聖職者が一週間詠唱して張る『絶対聖域』より完璧な防湿・防音結界が……たった100円のシートで……!?」
エレナは絶句し、眩暈を起こしたように膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
蓮は「よし、これで機材もカビませんね」と満足そうに頷くと、ポケットから100円の『除湿剤(水とりぞうさん)』を取り出し、部屋の隅にちょこんと置いた。
こうして、巨大企業の誰もが打ち捨てたゴミ屋敷は、わずか1分で「アビス最下層で最も快適な神拠点」へと生まれ変わったのだった。




