第9話:通用しない詭弁と現実の鉄拳
「うおおおおおっ! ばあさん! ばあさんやぁっ!!」
薄暗い小屋の中に、村長の悲痛な絶叫が響き渡った。
事切れた妻の遺体にすがりつき、ボロボロと涙を流しながら名前を呼び続ける村長。隣のベッドでは、ティムが胃液と血を吐きながら痙攣を繰り返し、アリアが半狂乱になってその体をさすっている。他のベッドからも、カビ液を飲まされた患者たちのうめき声が絶え間なく聞こえていた。
地獄のような光景だった。
しかし、その凄惨な現実を目の前にしても、ゼノンの脳内に浮かんでいたのは「どうやってこの場を切り抜けるか」という自己保身のロジックだけだった。
(くそっ、なんでこんなことになったんだ。俺は歴史の事実を教えただけだぞ。カビからペニシリンができるのは確定的に明らかなファクトだろうが。それを飲んで死んだってことは、もともと病気で死にかけだったか、こいつらの用意したパンが安物だったせいだ。俺のせいじゃない)
じりじりと後ずさり、小屋の出口へ向かおうとしたゼノンの肩を、太く逞しい腕が乱暴に掴んだ。
「待てよ、賢者様よぉ……!」
振り返ると、そこには血走った目をしたドノバンが立っていた。彼もまた、幼い子供にカビ液を飲ませてしまい、子供は今、生死の境を彷徨っている。
「どこへ行くつもりだ。あんたの寄こした『万能薬』のおかげで、村長のおかみさんは死に、俺の倅も死にそうだ。どう落とし前をつけてくれるんだ?」
「ひっ……!」
ドノバンのドス黒い怒気を帯びた声に、ゼノンは情けなく喉を鳴らした。
だが、三十五年間、ネットの匿名空間で他者を見下し、言葉の暴力だけで身を守ってきた男のプライドが、ここで奇妙な反撃を開始した。ゼノンはわざとらしく咳払いをして、ドノバンを睨み返した。
「お、落ち着けよドノバン。感情論で話すのはよせ。お前は今、著しく冷静さを欠いている」
「……なんだと?」
「いいか? まず『ファクト(事実)』を整理しよう。村長の妻が死んだのは事実だが、それが私の薬のせいだという『因果関係』は証明されていないだろう? 彼女は元々重病だった。薬を飲む前にすでに手遅れだった可能性を無視して、私を犯人扱いするのは論理の飛躍だぞ」
ゼノンは、ネット掲示板で相手を言い負かす時の「お決まりのパターン」に持ち込もうとしていた。相手の言葉の隙を突き、専門用語や横文字を並べて論点をずらし、自分を「冷静で論理的な強者」のポジションに置くのだ。
「それにだ、私が授けたのは『ペニシリン』という崇高な概念だ。もし薬に不備があったのなら、それはカビの培養環境……つまり、お前たちが用意したパンの品質や、不衛生な管理体制に問題があったと考えるのが自然だ。私は善意でアドバイスをしただけであり、製造責任まで負わされる謂れはない」
ペラペラと、滑らかに口から詭弁が飛び出していく。
ゼノンは内心でニヤリと笑った。(よし、完璧なロジックだ。これで反論できまい。ぐうの音も出ない正論で論破してやったぜ)
しかし――。
「……ふざ、けるな……」
ドノバンの手が、ゼノンの胸ぐらをギリギリと締め上げた。
呼吸が詰まり、足が宙に浮く。
「へ? ぁ、おい……離せ……暴力はルール違反だぞ……っ!」
「ルールだと!? 何が『いんがかんけい』だ! 何が『せきにん』だ! あんたが飲ませろと言ったんだ! あんたが『絶対に治る』と言ったから、俺たちは疑わずに大事な家族に……あの腐れ水を飲ませちまったんだ!!」
ドノバンの咆哮に、小屋の中の空気が震えた。
ネット上のレスバトルなら、ここで相手が「言葉に詰まった」と見なして勝利宣言を書き込み、パソコンの電源を切って逃げることができた。相手の怒りなど、モニター越しのテキストでしかないからだ。
だがここは現実だ。
圧倒的な暴力の気配と、逃げ場のない怒りが、ゼノンの貧弱な肉体に直接叩きつけられていた。
「水車の時もそうだ! あんたは全部俺たちのせいにして逃げた! だが今回は……命がかかってんだぞ!! 言葉遊びで誤魔化せると思ってんのか、この詐欺師野郎ッ!!」
「ち、違う! 俺は賢者だぞ! お前らみたいな底辺のバカのために、わざわざ知識を……!」
ドゴォッ!!
鈍い音が響き、ゼノンの視界が激しく揺れた。
ドノバンの岩のような拳が、ゼノンの顔面にまともにめり込んだのだ。
「あべばっ!?」
鼻骨が砕ける嫌な感触とともに、口の中に鉄の味が広がる。ゼノンは無様に吹き飛び、土の床を転がった。
「痛いっ! 痛いぃぃっ! な、殴るなんて野蛮だぞ! 警察……いや、衛兵を呼ぶぞ!」
鼻血を撒き散らしながら泣き叫ぶゼノンを見下ろし、妻の遺体の傍らから村長がゆっくりと立ち上がった。その手には、畑仕事で使う重い鉄の鍬が握られていた。
「……もうよい、ドノバン。この男は賢者などではない。ただの悪魔じゃ。口先だけの嘘で我らを惑わし、村を破壊し、妻の命を奪った悪魔じゃ……」
普段は温厚な村長の目に宿る、明確な「殺意」。
それに気づいた時、ゼノンはようやく自分の置かれている状況を正しく理解した。
詭弁は通じない。
論点ずらしも通じない。
自分がどれだけ「論破」した気になろうと、彼らは絶対に許してくれない。なぜなら、彼らは「議論の勝ち負け」を争っているのではなく、「奪われた命の責任」を血で贖わせようとしているのだから。
「ひぃっ……! ま、待て、悪かった! 俺が悪かった! だから殺さないでくれ!」
さっきまでの尊大な態度はどこへやら、ゼノンは床に這いつくばり、泥まみれになりながら命乞いを始めた。三十五歳のいい大人が、鼻水を垂らして子供のように泣きじゃくっている。
「アリア! アリア、助けてくれ! 君なら分かってくれるだろ!? 俺は君たちのために……」
すがるように視線を向けた先。
アリアは、冷たくなりつつある弟ティムの手を握りしめたまま、ゼノンの方を一度も見ようとはしなかった。その横顔には、かつての尊敬など欠片もなく、ただ底知れない嫌悪と拒絶だけが張り付いていた。
「……殺せ。この悪魔を、村から排除するのじゃ」
村長が鍬を振り上げる。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
ゼノンは悲鳴を上げ、這うようにして小屋の扉を突き破り、夜の闇の中へ逃げ出した。
背後からは、怒り狂った村の男たちが松明を手に、彼を殺そうと追ってくる。
「なんでだよ! なんで俺がこんな目に遭うんだよ! 俺は賢いのに! 俺は天才なのにぃぃぃっ!!」
暗い森の中を、木の根につまずき、顔を泥だらけにしながら無様に逃げ惑うゼノン。
ネットの知識だけで無双しようとした「最強のニート」は、現実の重みと人間の本物の感情の前に完全に敗北し、文字通りすべてを失って、惨めに村から追放されたのだった。




