第8話:腐敗した希望と致死の劇薬
村中のパンが村長の家に集められ、風通しの悪い暗所に放置されてから数日が経過した。
ゼノンの目論見通り、湿気を吸った黒パンの表面には、びっしりと青緑色のカビが増殖していた。部屋中に、鼻が曲がるような強烈な腐臭とカビの匂いが充満している。
一方、村の状況は悪化の一途を辿っていた。
『赤斑の病』に感染した者たちは高熱にうなされ、肌に浮かび上がった不気味な赤い斑点は日を追うごとに広がっていく。アリアの弟ティムも、すでに自力で起き上がることすらできない状態に陥っていた。
「よしよし、見事に育っているな」
鼻をつまみながら、ゼノンはカビだらけのパンを見下ろしてほくそ笑んだ。
村長とアリアが不安げに覗き込む。
「賢者様……本当にこれが、特効薬になるのでしょうか? どう見てもただの腐ったパンにしか見えませぬが……」
「黙れ。これだから知識のない者は困る。この青カビの中にこそ、病を退ける『ペニシリン』という奇跡の成分が宿っているのだ」
ゼノンは短剣を手に取り、パンの表面からカビの部分だけを乱暴に削り落とした。そして、用意させたぬるま湯の入った木の器にそのカビをバサバサと投入し、スプーンでかき混ぜる。
緑色に濁った、異臭を放つ液体の完成である。
(抽出とか精製とか、なんか面倒な工程があるのかもしれないが、要は成分が体内に入ればいいんだろ? 胃酸で溶けるし問題ないだろ。漢方薬みたいなもんだ)
ゼノンは自身の浅はかな想像を微塵も疑うことなく、その器をアリアに突き出した。
「さあ、アリア。これをティムに飲ませるんだ。他の患者にも同じものを作って配れ」
差し出された器を受け取ったアリアの顔が、恐怖に引きつる。
「そ、そんな……! いくらなんでも、こんな腐ったものを病人に飲ませるなんて……!」
「私を疑うのか!? この私が、わざわざお前たちのために『現代の叡智』を授けてやっているというのに!」
ゼノンの怒鳴り声に、アリアはビクッと肩を震わせた。水車の失敗で疑念が芽生えつつあったとはいえ、藁にもすがる思いの彼女にとって、賢者の言葉に逆らう勇気はなかった。
「わ、わかりました……」
アリアは涙ぐみながら、高熱で苦しむ弟の口元に器を運んだ。意識が混濁しているティムは、流し込まれる泥水を、咳き込みながらも無理やり飲み下していった。
それから半日が経過した。
ゼノンは自分の小屋で、「そろそろ熱が下がって感謝の嵐が来る頃だろう」と余裕の表情で寝転がっていた。しかし、事態は彼がネットで読んだ「偉人伝」のようには進まなかった。
夜更け、小屋の扉が激しく叩かれた。
「ゼノン様! ゼノン様ぁっ!」
悲痛な叫び声とともに転がり込んできたのは、またしてもアリアだった。しかし今度の彼女の顔は、懇願ではなく、明らかなパニックと絶望に染まっていた。
「ティ、ティムが……! 吐血して、息が……!」
「は? 吐血? ペニシリンを飲ませたんだろ?」
舌打ちをしながら患者たちが集められている小屋へ向かうと、そこは地獄絵図と化していた。
特効薬と信じてあのカビ液を飲んだ村人たちが、一様に激しい嘔吐と下痢に襲われ、のたうち回っていたのだ。元の病による高熱に加え、痙攣を起こして白目を剥いている者までいる。
「ゲァッ……ゴホッ、ゴホッ……!」
ベッドの上で、ティムがどす黒い胃液を吐き出し、苦悶の声を上げている。
「どういうことだ……ペニシリンは万能薬のはずだろ!」
ゼノンは後ずさった。
ペニシリンとなる青カビ(ペニシリウム属)の中には、人体に有害なマイコトキシン(カビ毒)を産生するものが多数存在する。さらに、不衛生な環境で放置されたパンには、青カビだけでなく無数の雑菌や腐敗菌が繁殖していた。
免疫力が極限まで低下していた重病人に、致死量の毒と雑菌を直接流し込んだのだ。結果は火を見るより明らかだった。
その時、隣の部屋から悲鳴があがった。カビ液を飲まされた村長の妻が、ひどい痙攣の末に息を引き取ったのだ。
「うそ、だろ……」
「ゼノン様……これは……ティムは、どうなってしまうのですか……!?」
泣き崩れるアリアがすがりついてくるが、ゼノンの頭の中にあるのは、少年の命の心配ではなく、己の保身だけだった。
(俺のせいじゃない。俺は正しい知識を教えただけだ。こいつらのパンが安物だったから毒が出たんだ! そうだ、俺は悪くない!)
取り返しのつかない悲劇を前にしてもなお、己の過ちを認めようとしないゼノン。彼は震える足で後ずさり、助けを求める少女の手を無情にも振り払った。




