第7話:迫り来る病魔と賢者の万能薬
水車の無残な崩壊から数日が過ぎた。
村の空気は重く沈み返っていた。男たちは口数を減らし、女たちは不安げにゼノンの様子を窺うようになった。
ゼノンは「お前たちの技術が足りなかったせいだ」と言い張り、表向きは威厳を保っていたものの、以前のように手放しで彼を神のように崇める空気は確実に薄れつつあった。
(チッ、どいつもこいつもジメジメしやがって。たかが水車一つ失敗したくらいで、俺の偉大さを疑い始めてるんじゃないだろうな)
村長が用意した小屋の中で、ゼノンは不機嫌に寝転がっていた。
彼が求めているのは、絶対的な肯定と称賛だけだ。少しでも自分の落ち度を疑われるような環境は、かつて日本で引きこもっていた時のように、彼の精神を著しく消耗させた。
早く名誉挽回して、再びあの熱狂的な崇拝を取り戻さなければならない。しかし、具体的な技術がないゼノンには、打つ手がなかった。
そんな鬱屈とした日々を送っていたある日の夕暮れ。
バンッ!と激しい音を立てて、小屋の木の扉が開かれた。
「ゼノン様!大変です!」
飛び込んできたのはアリアだった。いつもは控えめな彼女の顔は蒼白で、息を荒らげ、目には涙を浮かべている。
「なんだ騒々しい。瞑想の邪魔だぞ」
ゼノンが気怠げに起き上がると、アリアはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「病です……!『赤斑の病』が、村で流行り始めました!」
「病気?」
アリアが震える声で語ったところによると、それはこの地方で数年に一度流行する恐ろしい風土病らしい。
最初は軽い咳と発熱から始まり、数日で皮膚に赤い斑点が浮かび上がる。そして高熱のあまり意識を混濁させ、体力のない老人や子供はあっという間に命を落としてしまうというのだ。
「私の弟のティムも、今朝から熱を出して……さっき、赤い斑点が出たんです。村長様の奥様も、ドノバンさんのお子さんも……。村の薬草師のお婆様も、どうにもならないと……」
アリアは床に額をこすりつけるようにして、ゼノンに懇願した。
「ゼノン様!偉大な賢者様!どうか、どうかあなたの奇跡でティムたちをお救いください!もう、あなた様のお力にすがるしか……!」
涙ながらの哀願。
普通の人間ならば、未知の致死性ウイルスを前に恐怖し、己の無力さを悟るだろう。しかし、ゼノンの脳内に浮かんだのは「恐怖」ではなく、「歓喜」だった。
(きた……!これだ、名誉挽回の超特大イベント!)
病気の治療。これほど分かりやすく、劇的に感謝を集められるものはない。
ゼノンは医学の知識など皆無だが、ネット掲示板で仕入れた「歴史雑学」だけは持っていた。
「……泣くな、アリア」
ゼノンはわざとらしく低い声を作り、立ち上がってアリアの肩に手を置いた。
「私の叡智をもってすれば、その程度の病魔など恐るるに足らん」
「ほ、本当ですか……!?」
「ああ。神々の世界には、あらゆる病原菌……いや、悪魔の呪いを打ち払う『万能薬』が存在するのだからな」
アリアの顔に希望の光が戻ったのを確認し、ゼノンは村長を呼び出させた。
すぐに小屋に駆けつけてきた村長もまた、絶望に打ちひしがれた顔をしていた。
「賢者様、誠に万能薬がおありで……?」
「疑うのか、村長。だが、その薬を作るにはお前たちの協力が必要だ。すぐに村中の『パン』を集めろ」
「パン……でございますか?」
「そうだ。それも、少し湿らせて、風通しの悪い暗がりに放置しておくんだ」
ゼノンの不可解な指示に、村長とアリアは顔を見合わせた。
この村にとって、麦を挽いて焼いたパンは命を繋ぐ貴重な食料だ。それをわざわざ湿らせて放置するなど、正気の沙汰とは思えない。
「賢者様、それは一体……そのまま放置すれば、カビが生えてしまいますが……」
「それが狙いだ!青カビだよ、青カビ!」
ゼノンは得意げに笑い、彼らに向かって「現代の真理」を説き始めた。
「いいか、よく聞け。青カビからはな、『ペニシリン』という奇跡の薬が抽出できるんだ!これは体の中に入り込んだ病魔を根こそぎ駆逐する、神の作り出した抗生物質なんだよ!」
ペニシリン。
アレクサンダー・フレミングが発見した、人類初の抗生物質。ゼノンはまとめサイトの「歴史を変えた大発見」という記事で、その名前と「青カビから見つかった」という事実だけを読んでいた。
「青カビが……薬に?」
「そうだ!お前たちは腐ったものとして捨てていただろうが、あれこそが命を救う鍵なのだ。無知なお前たちには信じられないかもしれないが、私の世界では常識だ」
ゼノンは胸を張り、得意満面の笑みで言い放った。
「さあ、急げ!村中のパンをかき集め、青カビを培養するんだ。ティムや他の村人たちを救いたいのだろう?」
「は、はいっ!すぐに手配いたします!」
「ありがとうございます、ゼノン様!やはりあなたは本物の救世主です!」
村長とアリアは深く頭を下げ、急いで小屋を飛び出していった。
二人の足音が遠ざかるのを聞きながら、ゼノンは満足げに鼻を鳴らした。
(ふん、ちょろいもんだ。ペニシリン最強。歴史の授業で寝てなくて正解だったぜ。これを飲ませて病気を治せば、水車の失敗なんて一瞬でチャラだ。むしろ、命の恩人として前以上に崇められるに決まってる)
しかし、彼は致命的な事実を全く理解していなかった。
「青カビからペニシリンが発見された」のは事実だが、そこら辺のパンに生える青カビがすべてペニシリンを産生するわけではない。
さらに、有効成分を抽出・精製するためには、現代の高度な化学設備と専門知識が不可欠である。ただカビの生えたパンを患者に食わせたところで、抗生物質としての効果など得られるはずもなく、むしろカビ毒や他の雑菌による激しい食中毒を引き起こす危険性しかないのだ。
「まあ、抽出とかよく分かんねえけど、とりあえずカビの部分を削り取ってスープにでも混ぜて飲ませりゃ効くだろ。薬なんてそんなもんだ」
独り言を呟きながら、ゼノンは再び藁布団に寝転がった。
浅はかな知識が引き起こす、取り返しのつかない悲劇。水車の崩壊とは次元の違う、人の命に関わる致命的な失敗が、今まさに始まろうとしていることに、彼はまだ気づいていなかった。




