第10話:負け犬の逃亡と新たなる野望
ゼノン(冴木誠)は、息も絶え絶えになりながら暗い森の中をひたすらに走っていた。
背後からは、赤々と燃える松明の明かりと、「あの悪魔を逃がすな!」「殺してやる!」という村の男たちの怒号が追いかけてくる。
「ひっ、はぁっ、げほっ……!」
木の根につまずき、泥水たまりに顔から突っ込んでも、立ち止まることはできなかった。ドノバンに殴られた顔面は激しく痛み、折れた鼻からは血が絶え間なく流れ落ちて口の周りを赤黒く染めている。
三十五年間、冷暖房の効いた部屋から一歩も出ず、ネットサーフィンしかしてこなかった肉体は、すでに限界をとうに超えていた。肺は破けそうに痛み、足は鉛のように重い。だが、背後から迫る本物の「殺意」への恐怖だけが、彼を無理やり前へと動かしていた。
やがて、追っ手の声が遠ざかり、松明の光も見えなくなった頃。ゼノンは巨大な木の洞を見つけ、そこに転がり込むようにして身を潜めた。
ガタガタと震えながら、膝を抱える。真夜中の森は冷え込み、薄いスウェット一枚の体から容赦なく体温を奪っていく。
「なんで……なんで俺がこんな目に……」
涙と鼻水、そして血にまみれた顔を歪めながら、ゼノンは暗闇の中で歯の根を鳴らし続けた。
どれくらいそうしていただろうか。やがて夜が明け、白い朝靄の向こうから木漏れ日が森を照らし始めた。
追っ手が完全に諦めたことを悟ると、ゼノンは這うようにして木の洞から抜け出し、忌々しげに地面へ唾を吐き捨てた。
「……野蛮人どもめ。どいつもこいつも、恩知らずのクズばかりだ!」
命の危機が去った途端、いつもの肥大化したプライドと自己正当化が鎌首をもたげてきた。
「俺のペニシリン理論は完璧だったんだ。歴史が証明してるんだから絶対に間違いない! あいつらが死んだのは、用意したパンが安物のゴミだったからだ! 培養環境を整えなかったあいつらの自己責任だろうが! なのに俺を逆恨みしやがって……!」
誰も聞いていない森の中で、ゼノンは一人で虚勢を張り続けた。
自分の無知と浅はかさが招いた悲劇であるという事実からは完全に目を背け、「高度な理論を理解できない愚か者たちが勝手に自滅した」という、自分に都合のいいストーリーへと脳内で事実を改ざんしていく。
「そもそも、あんな辺境のド田舎の村、俺みたいな天才がいるべき場所じゃなかったんだ。水車一つ作れない底辺の職人に、俺の崇高なビジョンが理解できるわけない。あいつらは一生、泥水をすすって飢え死にすればいい!」
負け惜しみを大声で叫ぶことで、ゼノンは少しずつ平静を取り戻していった。
彼は決して「己の失敗を反省する」ということをしない。日本のネット社会でもそうだった。レスバトルで旗色が悪くなれば「相手が馬鹿すぎて話にならない」と身勝手な勝利宣言をして逃亡し、別のコミュニティでまた新しい嘘をつき始める。それが冴木誠という男の、唯一にして最大の生存戦略だった。
「……そうだ。こんなところでくすぶってる場合じゃない」
ゼノンはよろよろと立ち上がった。腹は減り、喉はカラカラだが、彼の頭の中にはすでに新たな妄想が渦巻いていた。
「テンプレ通りなら、この世界にはもっと発展した『商業都市』とか『王都』があるはずだ。あんな村人Aみたいな連中じゃなくて、もっと話のわかる商人や貴族を相手にビジネスをすればいいんだ。俺の現代知識を使えば、あんな連中を見返すことなんて一瞬だ」
あてどなく森を歩き続けること数時間。やがて視界が開け、馬車の轍がくっきりと残る、幅の広い土の街道に出た。
その道をたどるように視線を向けると、遠くの平野に、立派な石造りの城壁に囲まれた巨大な都市のシルエットが見えた。
「ふっ……ふははは! 見ろよ、俺を歓迎する大舞台が待ってるじゃないか」
ゼノンは折れてひしゃげた鼻を擦りながら、不気味な笑い声を上げた。
水車も抗生物質も、所詮は貧乏人を相手にする地味な知識だったのだ。次はもっと直接的で、一撃で莫大な富と権力を手に入れられる、最強の技術を披露してやる。
「そうだな……次は『火薬』だ! 硫黄と木炭と硝石を混ぜるだけ。どんなバカな異世界人でも作れるし、威力を見せつければ商人どもはこぞって俺に金を積むはずだ!」
火薬の正確な配合比率や、精製時の爆発の危険性、さらには原料をどうやって安全に調達し加工するのかなど、当然ながら彼は何一つ知らない。だが、「材料の名前を知っている」というだけで、彼は自分が火薬製造のプロフェッショナルであると完全に思い込んでいた。
都市へ向かって歩き出すゼノンの背中は、泥だらけのスウェット姿で、どう見ても正気を失った浮浪者にしか見えなかった。
だが彼の脳内ではすでに、巨万の富を得てふんぞり返り、あのアリアやドノバンたちを見下してあざ笑う自分の姿が鮮明に描かれている。
嘘と詭弁で塗り固められた情けない男の、さらなる悲惨な転落劇の第二幕。
商業都市を舞台にした致命的な大失敗へのカウントダウンが、今まさに始まろうとしていた。




